第7話 緑の迷宮
1
あの後、黒音は気分が悪くなったと言って退室し、希愛もそれに付き添った。
この傷痕を見せたことで気分を悪くさせてしまったのかもしれない。それほど生々しい痕ではないが、こういうものを生理的に受け付けない人間もいるだろう。
黒音ははっきり言葉にはしなかったが、明らかに僕の右手の傷を見てから様子がおかしくなったように思う。後で謝っておかねば。
本館を出ると、嫌になるくらい強い陽射しが出迎えてくれた。館内との寒暖差が大きく、外気は余計に暑く感じられる。少し歩いただけで首筋を汗が流れ落ちた。
太陽から逃げるように林の中へ駆け込む。
さて、この後はどうしようか。
別館に帰って大学の課題でも片づけようか。いや、その前に……
この林を巡る遊歩道があると先ほど希愛が言っていた。せっかくだから、そちらを散策してみよう。この緑豊かな自然を眺めながら散歩をするのも悪くない。
一番手前の分かれ道に差しかかった。
足を止め、覗き込む。
道は西方向にまっすぐ伸びており、十メートルほど進んだあたりで左に折れているようだった。
背後から吹きつけてきた風に背中を押されるようにして、僕は分かれ道に歩を進めた。道なりにしばらく進む。
どこからか、蝉の鳴き声が風に乗ってやってくる。頭上を覆う枝の重なりを仰ぐと、隙間から差し込む陽射しが目に沁みた。空気はしっとりとしているが、不快な湿気はあまり感じられない。
ああ、夏だな……
子供の頃、施設の皆と山に登ってキャンプをしたことを思い出す。
あの時は、ふもとのキャンプ場に荷物をまとめて、皆で一列になって山を登った。頂上付近で昼食を採り、来た道を引き返した。
ふざけて下り坂を走ったやつが、転んでひざを擦りむいたっけ。
懐かしい記憶に顔をほころばせながら、歩き続ける。
だんだんと体全体が汗ばんできた。ポロシャツの胸の辺りには、手のひら大の汗染みができてしまっている。別館に戻ったら着替えよう。
時間にして、十五分は歩いただろうか。そろそろ別館へ戻りたいのだが……
ふと僕は足を止め、背後を振り返った。
見渡す限り緑一色だ。
「どこだろう。ここは」
途中、いくつもの分岐路があった。Y字型の三叉路があったり、突然右手に枝分かれする細い道があったり、また段差を利用した小さな階段もあった。
この遊歩道はまるで迷宮のような複雑な造りになっているようだった。
だから今、僕は自分がこの広大な林のどこにいるのか、判らない。歩いた道を逆に辿ればいい、という単純なものではなかった。どの分岐でどちらに進んだか、などいちいち記憶に留めていなかったのだ。
平たく言ってしまえば、迷子になってしまったのである。けれど、雪山で遭難してしまったわけでもないし、ここは大紋家の敷地内なのだから、そう慌てる必要もないだろう。
そう楽観的に現状を捉えて、僕は歩みを再開した。
2
やがて、小さな広場に出た。
石畳の道はそこで途切れ、広場は乾いた地面がむき出しになっている。
「あれは……?」
まず目に飛び込んできたのは、広場の中心に立つ巨大な岩の塊だった。縦三メートル、横一メートルほどのその岩は、石造りの台座に載せられており、全体の高さは五メートル近い。こちら側の表面には細かい文字が彫られていた。
石碑? いや、墓かもしれない。
そろそろとその岩の前に進み、見上げてみる。上部に大きく「慰霊碑」とあり、その下に縦書きの細かい文字が並んでいる。
刻まれた文字は風化が激しく、どのような内容なのか、読み取ることは難しい。それだけで、設置からかなりの年月が経っていることが察せられた。
このようなものが敷地内にあるなんて……
慰霊碑という言葉の響きから真っ先に連想したのは、戦争犠牲者のための厳かなものだ。一般家庭――大紋家にふさわしい言葉であるとは思えないが――にそんなものが設置されているのは、ちょっと珍しい気がした。
きっと災害や事故で亡くなった死者を慰めるためのものなのだろう。大紋家は周囲を山に囲まれているから、土砂崩れとか、そういった類の災害があってもおかしくない。
そう自分なりに解釈して、僕は慰霊碑から離れた。石の台座には石碑の足元まで昇れるよう石階段があったが、わざわざ昇ってみようとは思わなかった。
慰霊碑の裏手には、これまた目を見張るようなものがあった。なんだか、見てはいけないものを見てしまったかのような居心地の悪さが、僕の心を締め付ける。
(あれは?)
それは石造りの建物だった。
さほど大きくはない。外観から判断するに、内部はせいぜい六畳ほどの広さだろう。積み重なった石はどれも黒々としていて、怪しげな雰囲気を周囲にまき散らしている。
中央に取り付けられた木製の扉は今にも取れてしまいそうで、こちらもかなり古い建物であることが窺える。窓はなく、内部の様子は全く判らない。
僕は後ろの慰霊碑を振り返った。
この二つの建造物は、何か関連があるのだろうか。同じ場所に建てられているのだから、あると考えるのが自然だろうが……
何のための慰霊なのか。
そして、この建物は何なのか。
そもそもここは本当に大紋家の敷地なのか。
もしかしたら、林を彷徨っているうちに人間世界の外側へと迷い込んでしまったのかもしれない。
そう考えてしまいたくなるほどに、この場所に流れる空気は異質だった。肘を抱くと、夏だというのに、冷気に包まれたように肌が粟立っていることに気づいた。
今朝、窓から眺めた林の全景が脳裏に浮かぶ。
ここはいったい、どの辺りなのか。
きぃ、と軋むような音が聞こえた。僕は反射的に音のした方へ顔を向ける。見ると、例の石造りの建物の扉が開いており、一人の少年がその中から出てきたところだった。
綺麗な顔立ちの少年である。髪も長く、触り心地のよさそうなさらさらとした髪質だった。服装さえそれらしいものを用意すれば、少女と見間違えてしまいそうなほどに愛らしい。
少年は目を伏せたまま外へ出て、扉を後ろ手で閉めた。まだこちらに気づいていないようだ。僕の存在に気づいたのは、そのまま数歩進んで顔を上げてからだった。
「わっ」
くりくりとした目を見開いて、少年は一歩後ずさった。彼からすれば、見知らぬ男が突然目の前に現れたようなものだろう。強い警戒の色を一瞬目に浮かべたが、それはすぐに収まった。
「びっくりさせてごめんなさい。僕、朝霧大望といいます」
「あ、ああ。希愛さんの」
すでに僕のことは聞き及んでいるようだった。身長は僕の胸辺りまでしかない。声変わりもまだのようである。小学校高学年から中学一年くらいだろうと見当をつけた。
「僕、
大和はおそるおそるといった様子で僕を見上げ、そしてまた視線を落とした。全体的に線が細く、半袖から覗く四肢も子供特有の棒っぽさが感じられた。
それにしてもこんな子供がいったい何をしていたのだろうか。それとなく石造りの建物の方へ目をやる。あの場所は何のための場所なのか。
大和の表情には後ろ暗いものが見受けられる。まずいところを見られた、とでもいうような、ばつの悪そうな顔……
気にはなるが、あまりここで話題にするのもよくない気がした。
風が吹き、大和の長い髪がさわさわと揺れた。それを手で押さえる姿がなんとも色っぽい。
「大和くん、ここから別館に戻る道、判りますか?」
「え?」
「実はちょっと迷っちゃったみたいなんです。ここに来たのも偶然で……」
「大望さん、一人でここに来ちゃったんですか?」
「来ちゃったんです」
僕は苦笑いをしながら頷く。
「ここ、屋敷のどの辺りなんでしょうね」
周りを見渡せば、夏の陽射しに彩られた自然が僕らを包んでいる。
「迷うのもしょうがないか。それじゃ、付いてきてください」
僕の質問には答えず、大和は小走りで僕の横をすり抜けていく。
まるでここから早く離れなくては、と急き立てられているかのように。彼の後ろについて、僕は謎の広場を後にした。
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