第40話 第三の犠牲者
1
「とりあえず、あるだけ持ってまいりました」
河崎と鳥谷が持ってきた懐中電灯の内訳は次の通りだった。
通常のハンディタイプが五本、ランタン型が一つ、そして頭に取り付けるヘッドライト型が三つだった。
この内、ハンディタイプ一本とヘッドライト一つが電池切れで使えないことが判った。
「私これ!」
葉月がランタンを手に取って愛おしそうな顔をした。
「全員で探しに行きたいところですが、河崎さんと鳥谷さんのどちらかは本館に残っていてください。もしかしたら、平静に戻った美空伯母さんが帰ってくる可能性もあります」
青夜はそう言って無造作にヘッドライトを頭に巻いた。河崎と鳥谷は顔を見合わせる。結局、鳥谷が残る運びとなった。
外へ出ると果て無い闇が目の前に広がった。
空は依然として暗色の雲に覆われたままで、生温い風が吹いている。
無機質な虫たちの声と木々のざわめきだけが闇の中でこだましていた。
この中を、美空は灯りも持たずに彷徨っているのか。もし自分が同じ立場だったらと想像すると、肌が粟立つ。
僕たちはぞろぞろと玄関の前に集まり、別館へと続く道へ進んだ。
「さて、東と西、美空伯母さんがどちらに迷い込んだのかは判らないな。とりあえず二手に分かれて捜索することにしよう」
青夜が頭を左右に振った。その動きに合わせて、光線が木々の間を照らし出す。
「それより、バラバラになって一度に広範囲を捜した方がいいと思うわ」
葉月が言う。彼女の持つランタンの柔らかい光を見ていると、子供の頃にキャンプをしたことを思い出す。〈愛の家〉の皆で富士山のふもとっぱらまで行ったっけ。
「一人になるのは危険だ。事件はまだ解決していないんだぞ」
「美空伯母さんを長い時間一人にすることの方がよっぽど危険だわ。だってこの庭はとんでもなく広いのよ。道は一本道じゃないんだし美空伯母さんだってふらふら移動し続けてるはずなんだから、少しでも遭遇率を上げるために全員が違うルートを捜すべきよ」
葉月の意見は実に合理的だった。殺人鬼に襲われるかもしれないという危険を除いては。
「しかしだな――」
「こんな言い合いをしている間に美空伯母さんはどんどん奥へと行ってしまうわ」
「青夜様、またいつ嵐が来るとも判りません。早急に捜し出さなくては、美空様の体力も心配です。それに、この暗さではそう遠くまでは行っていないでしょう」
河崎が助言する。
「……判った。ただ、大望くんは一人だと遊歩道で迷ってしまうだろうから、俺と一緒に捜そう。それと皆、何かがあったらすぐに声を上げるんだ。それからもう一つ、念のため全員ここで身体検査をしよう。簡単でいい。凶器を隠し持っていないことを確認するんだ」
青夜の号令で、僕たちは互いに互いを調べ合った。武器となりそうなものを持つ者は、誰一人としていなかった。
そうして、僕たちは別々の道へと入った。
鳥の鳴き声がどこからか聞こえてくる。
ほう、ほう、とこちらの不安を逆撫でするような鳴き声。
足元は少し濡れていて、気を抜くと滑ってしまいそうだった。時折林の中へ懐中電灯を振ってみる。鮮烈な光は闇を駆け抜け、その先に誰もいないことを教えてくれた。
「大望くん、希愛のことだが」
青夜は気まずそうに言って、顔を向けた。ヘッドライトの光も同時にこちらを向いてしまうため、眩しい。
「今になってこんなことを言うのもなんだが、あれは俺の考えすぎだったのかもしれない。君の言うように、もし希愛が犯人だとしたら、君を殺す動機があったとしたら、君を確実に殺せる機会が何度もあったはずなのに手を下さないのはたしかに妙だ。先走りで君を傷つけてしまって申し訳ない」
「もういいんです。ふっ切れましたから」
「それと、余計なお世話かもしれないが……君が希愛のためにこの家に縛られる必要はない。はっきり言って、この家は異常だ」
「言ったでしょう、ふっ切れたんです。希愛が犯人かもしれないとか、そういうことはもうどうでもいいんです。僕は僕なりの答えを見つけられましたから。ただ――」
「ただ?」
「この家で今起きていることの真実。それを知りたいという気持ちは変わりませんけどね」
「そうか」
青夜はそれ以上この問題について口にしなかった。
やがて二股の道に差し掛かった。どちらも同じように暗く、寂しい空気が漂っている。
あまり時間をかけてもいられないので、山勘に頼って右の道を選んだ。
捜索を始めて十五分ほど経っただろうか。美空は見つからない。
「どこまで行ったんでしょうね」
「美空伯母さんは灯りを持っていないからそこまで遠くに行けるはずがないんだが」
懐中電灯の放つ人工的な光がなくなれば、僕たちはたちまち濃密な闇に包まれてしまうだろう。黒い霧が出ているみたいだ。そんな闇の中を、錯乱している状態で満足に進めるだろうか。
「ここにもいない」
人の五感の中で、もっとも多くの情報を脳に伝えるのは視覚だ。
子供の頃、ふざけて目を閉じたまま歩いたことがあるが、数メートル歩くのがやっとだった。
何も見えないことへの恐怖心が足を鈍くしたのだ。視覚が十分に機能しない状況下で動くのは相当の勇気がいる。
歩いて、捜してそしてまた歩く。
「もしかしたら、別館の方へ行ったのかもしれないな。もう少し捜して見つからなければ別館に寄ってみよう」
その時、左前方に、ちらっと光が見えた。捜索隊の誰かが近くにいるのだろう。その光は僕たちと同じ方角に向かって歩いているようだ。やがて道が合流する地点で黒音と鉢合わせた。
「そちらはどうでした?」
「だめね」
黒音は残念そうに首を横に振った。彼女の頭についたヘッドライトの光がその動きに合わせて左右に揺れる。
「途中で希愛と会ったけど、あの子も見つけられてないみたい。そっちは?」
「ご覧の通り、何も収穫はありません」
「美空ちゃん、裸足だったから早く見つけてあげないと」
疲労からか、それとも美空が見つからない苛立ちからか、黒音はがっくりと肩を落としてため息をついた。
「黒音おばさん、お疲れでしたら無理はせずに戻ってください」
「私はまだ大丈夫。平気だわ」
そうは言うが、彼女の声色には疲れが滲んでいる。もう三十分は歩き詰めただろう。
「大丈夫そうには見えません。少しでも体力を温存しておいた方がいい。美空伯母さんは俺たちに任せてください」
「そうですよ、お義母さん」
「でも大望くんも顔色が悪いわよ? 汗びっしょり」
僕も疲れた。体力だけではなく、神経もだいぶ参っている。昨晩から恐ろしい事件の連続だったから、当然と言えば当然だが。だが僕も男だ。こんなところで弱音は吐けない。
「そうでしょうか」
「二人で、戻りましょうか?」
「いえ、僕はまだやれます」
「そう、無理だけはしないでね。私は本館に戻らせてもらうわ」
黒音と別れ、僕たちはさらに先へと進む。
「美空さんは、どうしてこの家から出ないのでしょうか。悪魔――大紋家を恐れているのにそこから逃げずに留まり続けるというのは、どこか矛盾しています」
「ああ、どうしてだろうな。ただ大望くん、人間というのは矛盾する生き物だ。行動や言動全てに一貫性があり、機械のように動く合理的な人間がいたら、それはきっと人間じゃない」
「やっぱり、大和くんがいるからでしょうか」
「いや」
何か気になったのか、青夜はさっと右手の林に光を向けた。
人影は無論、ない。
「これは俺の想像だが、太一伯父さんがここにいるから、じゃないかな。心が壊れる前の伯母さんは、見てるこっちが恥ずかしくなるくらい太一伯父さんにべったりだった。本当に仲のいい夫婦だったんだよ。それがあんなことになってしまって、太一さんへの愛がそのまま恐怖に変換されてしまった。けれども、愛する夫のそばにいたい、という無意識の呪いが残っていて、それがあの人をここに縛り付けているんだと思う」
「しかし、美空さんは太一さんに殺されかけたんですよね?」
「そう。実際、腹部を刺された。幸い内臓には達していなかったから一命はとりとめたが」
愛する人に殺されかける。それがどれだけ辛く、ショッキングなことか。そしてそれと同じだけ、殺しかけた者も辛いのだろう。
「美空さんは太一さんに会いに行ったりはしていないんでしょうか」
「大和と一緒に地下牢の広場までは何度か行っている。けれども、実際に地下に下りて伯父さんに会う勇気はまだないようだ。彼女の中でまだ準備ができていないんだろう」
「青夜さん、もしかしたら」
「たぶん、俺も同じことを考えている。あの人が逃げ込むとしたら、あそこかもしれない」
僕たちはそれから早足で闇の中を進んだ。
というより、先を行く青夜の背中に懐中電灯を向け、必死で追った。
確信はない。けれども、直感のような何かが僕を急き立てたのだ。青夜も同様だろう。延々と続く変わり映えのしない景色を抜けて、僕たちはようやくそこに辿り着いた。
暗天に向かってそびえる石碑。
そしてその裏にひっそりと佇む地下牢獄への入り口。
足元はぬかるみ、湿った風が肌を舐める。夜だからだろうか。それとも、この家の負の歴史を知ったからか? 半日前に足を運んだ時よりも、いっそう荒廃した雰囲気を感じた。
いずれにしても、この場に流れる陰気な空気が肺に流れるたびに、僕は体の芯が冷えていくような錯覚に囚われる。この場所で多くの罪のない人間が悪魔に殺され、そしてその悪魔の子孫たちが己の罪を償うために地下へ幽閉された。
石碑に光を向けると、表面はまだ濡れそぼっていた。それはまるで追悼の涙を流した跡のようにも見えた。
青夜が顔を伏せ、ヘッドライトの光を泥化した地面に落とす。
円形の光の中に、ぼんやりと足跡らしきものが見て取れた。雨が止んだ後に誰かがここを訪れた証拠だ。期待が膨らむ。
「美空伯母さん、いるんですか?」
青夜が声を張り上げる。静寂に響いた彼の声に反応するものは何もない。
「行こう」
足跡を辿ろうと一歩踏み出したその時、僕はあることに気づいた。
「ちょっと待ってください、青夜さん、これ」
「どうした」
「これ、足跡……二人分ありませんか?」
「なんだって?」
「ほら、同じ方向に続いてます。引き返す時にできたものが重なり合っているわけじゃありません。二人の人間が一緒に歩いた跡です」
言いながら、僕は自分の発言の意味を自分で考えた。
どういうことだ?
美空が一人でやってきたのなら、足跡は一人分だけのはず。途中で彼女を発見した誰かが連れ添ったのか? いや、そうだったらまず美空の発見を皆に伝えるはずだし、本館の方角へ向かうはずだろう。
「美空さんのものなのでしょうか?」
「いや、美空伯母さんのものではない。彼女は部屋から直接外へ出たんだ。だから裸足のはず。この足跡は裸足でできたものではない」
「あっ、そうですね。じゃあ、これは」
僕たちと同じように、二人組がここを捜索したということか。きっと合流した誰かと誰かが僕たちと同じように美空の行動を予測し、ここを捜索したのだ。
青夜は無言でその足跡を追った。ゆっくりと、しっかりと、地面の感触をたしかめるような足取りで。
意外なことにその足跡は地下牢へは続いていなかった。石碑が立っている台座を迂回しその陰へと曲がる。そして――
「あ、ああ」
「何ということだ」
世界から音が消失したような沈黙があった。それは時間にして一秒にも満たない一瞬のことだったが、僕には永遠のように思われてならなかった。
ランタンが石造りの台座のそばに落ちている。
泥にまみれた足は、死者の色をしていた。うつぶせになっているので表情は判らないけれど、彼女の体に命が宿っていないことは一目で了解できた。
全身の力が抜け、懐中電灯が手から滑り落ちる。下の方で硬い音がした。何だろうと思って下を見る。なんだ、懐中電灯が落ちただけか。
抜け殻となった体を抱き上げ、青夜は嗚咽を漏らした。
「葉月っ、どうして」
獣のような彼の咆哮が大気を震わせる。
感情を爆発させる青夜の姿を見たのはこれが初めてかもしれない。茜が死んだときも、彼は激情を抑え込んでいた。
懐中電灯を拾い上げる。
人工的な光に照らされた葉月の死に顔は、とても安らかだった。
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