第12話  大紋家の人々

 1



 午後二時を回り始めた頃、ぱらぱらと雨が降り始めた。

 さきほどまで晴れていた空を鈍色の雲が覆い、ごろごろと獣が唸るような雷鳴が彼方から聞こえてきた。


「雨、強くなってきましたよ」


 自室の窓から淀んだ雨雲を見上げながら、僕は呟いた。眼下の林に降り注ぐ雨は次第に勢いを増していき、一時間もしないうちに本降りとなっていた。


 背後のソファセットでは、希愛が真剣な表情でレポート用の課題図書と格闘している。

 希愛は文学部に籍を置き、歴史学科で日本史を専攻している。読書と栞作りが趣味というだけあって、見た目も性格もほんわりとした彼女だが、実は歴史好きという意外な一面も持っているのだ。


 特に、文明開化の時代から第二次世界大戦終了までの日本の盛衰の移ろいにロマンを感じるそうだ。

 また、僕と違って血生臭いものにも耐性があるようで、たまにリアル志向の戦争映画を借りて観たりもしている。


「ふう、ちょっと休憩」


 分厚い本に手製の可愛らしい栞を挟むと、希愛はぐっと体を伸ばした。すっかり冷めてしまったコーヒーを一気に飲み干し、とろんとした目をぐしぐしこする。

 一挙一動が小動物のように愛らしい。


「後で大望くんとお散歩に行きたかったんですけど、この雨だと無理そうですね」


 立ち上がり、希愛は僕の横へ歩み寄る。


 ざあざあと、無数の雨粒が勢いよく落ちていく。木々は強風に煽られ、時おり横殴りの雨が窓ガラスを叩いた。嵐の一歩手前といった様相である。


 小雨程度なら傘を借りて、雨の中の散歩を楽しめただろうが、この降りようでは傘を飛ばされかねない。


 再び西の方からごろごろと雷の音が聞こえてきた。


 本当はもう一度あの広場へ行って、あの場所にどのような秘密があるのか調べたかった。

 が、迷った末に偶然行きついた場所であるだけに、この広大な林の迷宮の中から一人であの場所を目指すのは厳しい。

 誰か、大紋の人間に道案内をしてもらえばそれで事足りるのだが、それも難しそうだった。


 青夜が言うには、大紋の人間はあの場所に近寄りたがらないらしい。

 もし、あの慰霊碑が一族にとってのの象徴であるならば、それも頷ける話である。

 例えば、大紋家の過失による事故や災害で多くの人間が命を落としたのであれば、それを想起させる場へは立ち寄りたくないというのが心情だろう。


(何が……あの場所で)


 大和にガイドを頼んでみる、という手も考えたが、彼はあそこへ立ち入っていることをなるべく人に知られたくないふうだった。

 葉月には近寄ってはならないと忠告を受けたし……


 希愛の、整った横顔を見つめる。


 一番手っ取り早い方法は、希愛に訊くことだ。彼女ならば、あの場所の意味を知っているだろうし、僕が訊ねれば細かく事情を話してくれるだろう。しかし、それはどうしてもできなかった。


 昼食を終えて部屋に戻る前、青夜に呼び止められ、ばっちり釘を刺されてしまったのだ。


「希愛にも、君に対して隠し事をしている、という後ろめたさがあるはずだ」


 青夜はちらっとダイニングテーブルを見た。葉月と大和に交じって、希愛は談笑をしていた。


「それほどこの話は重たく、またこの家にとって大きな問題なんだ。もし君が教えて欲しいと彼女に頼めば、あの子のことだ、きっと断れない。全てを打ち明けてしまうはずだ。しかし、秘密の告白は希愛にとっても大きな勇気を必要とする」


「……希愛に、余計な心労は与えたくありません」


「それがいいよ。今はまだ、君から訊ねることは避けた方がいい」


「……」


「そんな顔をしなくても、いつかはきっと知る機会が来る。君が憎くて意地悪をしているわけじゃないんだぜ?」


「それは判っています」


 そんなわけだから、希愛に直接訊ねることもできないのである。一度気になってしまったことを頭の中から追い出すのはとても難しい。この雨に打たれたら、すっきり洗い流されてくれるかもしれない。


「すごい雨。お父さん、帰ってこられるかしら」


 心細そうに声を落として、希愛は呟いた。


「心配だね」


 雨の勢いはどんどん増している。午前中は嫌になるくらい晴れていたのに。


 これ以上荒々しい雨を見続けていると気が滅入りそうだったので、希愛の手を引いて窓から離れた。ソファーに並んで座り、見るでもないテレビを点ける。


「そういえば、美空さんというのは、大和くんのお母様ですか?」


 希愛は目を伏せて、


「そうです。太一たいちおじさんという――今はもう亡くなってしまったんですが、その人と美空おばさんとの間に生まれたのが大和くん。太一おじさんが亡くなった後、弟である源二げんじおじさんが家を継いで……あ、ちなみに源二おじさんは青夜兄さんと葉月ちゃんのお父様です。で、私のお父さんと源二おじさんが従兄弟の関係になります」


 頭の中で家系図を整理してみる。


「すると、今は三つの家族が集まって暮らしているわけですか」


「はい」


「昔はもっと大勢いたらしいんですけど、私が生まれる前に亡くなってしまったそうです」


「河崎さんというのは?」


「河崎真知男まちおさんといって、うちのコックさんです。長い間勤めてくださっていて、今はもうけっこうなお年のおじいちゃんなんですけど、若い頃はヨーロッパで修行してたらしいんですよ」


「へぇ」


 先ほどのランチも美味だった。これは夕食が楽しみだ。


「さてと、そろそろ再開しますか」


 読みかけの課題図書を手に取り、希愛はソファーに深くもたれた。



   2



 希愛の邪魔になるといけないと思い、僕はそっと部屋を抜け出した。


 どこへ向かうでもなく、廊下を真っすぐ歩いてラウンジに出る。人影はなく、ひっそりとした空間にファンの回る音が響いている。


 ラウンジを横切って東側の廊下へ出る。すぐ右側に階段が現れた。茶色い絨毯が敷かれた幅広の階段。踊り場には小さな窓があり、陰鬱な外の様子が覗けた。


 こつ、こつ。


 軽やかなリズムの足跡が、下から聞こえてきた。誰かが一階から上がってきているようだ。やがて踊り場に黒い人影が現れる――葉月だった。


「あら、大望さん」


「やあ、葉づ……ハルナちゃん」


「うふふ、その名を覚えていてくれたのね。嬉しいわ」


 本館で着替えたのか、葉月の服装が変わっていた。


 赤いリボンを胸元にあしらった黒地のブラウスに赤いラインが入った黒いロングスカート。その上に、シースルーのこれまた黒いカーディガンを羽織っている。

 全体的に黒を基調としている点は先ほどと変わらない。雨のせいか、髪が少しだけ濡れていた。


「どうしたんです?」


 僕が訊くと、葉月はうっすらと笑みを浮かべて、


「暇だから、大望さんと遊ぼうと思って。もしかして用事がおありかしら?」


「いえ、別に」


 特に断る理由もなく、というより、葉月のペースに流されるまま僕はラウンジへ引き返すことになった。


「大望さん、チェスは嗜まれるかしら?」


 葉月は左手の棚から木製のチェス盤と、駒が入っていると思われる木箱を取り出し、テーブルの上に置いた。


「チェスですか。ええ、やりますよ」


〈愛の家〉にはチェスや将棋を始め、様々なボードゲームが揃っていた。雨が降って外で遊べない時は、よくそれらで楽しんだものだ。

 自慢ではないが、チェスに関しては人並み以上の実力を持っていると自負している。


「あらそう、じゃあ手合わせ願おうかしら」


 葉月は黒駒を自陣へ並べ始めた。チェスは基本的に白駒が先攻となり、また先攻が有利とされているゲームだ。


「僕が先攻でいいんですか?」


「ええ、どうぞ」


「遠慮はしませんよ」


 僕はポーンをつまみ、e4へと進める。木製だからか、駒を置くときに、こん、と乾いた音が鳴った。


「希愛姉は一緒じゃないのかしら」


「希愛さんは部屋で課題に取り組んでいるんです」


「ふうん、お勉強中だから追い出されたってわけね」


「そういうわけではないんですけど」


 お互い、盤上に視線を集中させながら、手と口を動かす。

 葉月はかなりの早指しで、五秒とかからずに的確な一手を読み、打ち込んでくる。そのペースに飲まれ、自然と僕も指すスピードが上がってしまう。


「ねえ、ずっと気になっていたのだけれど、その腕の傷……」


「これですか、これはですね」


 いつ負ったのか判らないことや幼い頃からあることなど、右腕の傷について簡潔に説明する。

 ついでに、この傷と関連があるかは判らないが、包丁を携えた巨大な女が登場する例の悪夢についても話した。


「なるほど、それは邪痕ね」


「ジャコン?」


「大望さんの前世のカルマの戒めとして、神があなたの体に邪痕を刻んだのよ。己の罪を忘れないようにね。その巨大な女が出てくる悪夢は、まさに神があなたの右腕に邪痕を刻んだ瞬間の光景だわ」


 芝居がかった口調で葉月は言った。


「はぁ」


 ではあの家より大きな女は神ということになるのか? まさか。ちょっと中二が過ぎるな、と僕は思った。


「僕はいったい前世で何をしたんでしょうか」


 葉月はくすくすと笑って、


「それは判らないわよ。悪政を敷いて市民を苦しめた暴君か、それとも闇に紛れて人々を切り刻んだ殺人鬼か。うふふふふ。でもきっと、あなたはそういう星の下に生まれている。うふふ、嬉しいわ。大望さんも私のなのね」


 僕はそういう中二的な思想はもう卒業した身なので、お仲間と言われるとちょっと違和感がある。


「悪魔に運命を支配された悲しき道化――チェック」


「あっ」


「私の勝ちね」


 平らな胸を反り、勝ち誇ったように葉月は僕を見据える。まさか負けてしまうとは。子供だと思って甘く見ていたようだ。


「も、もう一戦やりましょう」


「いいわよ」


 葉月はたしかに強いが、彼女の早指しのペースに巻き込まれてしまったのも敗因の一つである。

 さっきの試合は時間にして五分弱といったところだろう。今度はしっかり集中して、じっくり考えて手を決めなくては――


「はい、チェックメイト」


「ああ」


 なるべく無駄話をせずに試合に取り組んだのだが、完全な敗北を喫してしまった。


「お強い」


「ふふん、ありがと」


「誰かに手ほどきを受けたのですか?」


「いいえ、独学よ。でも、茜さんは私より強いし、青兄あおにぃはもっと強いの」


「へぇ」


 あの二人もチェスを嗜むのか。


「ハルナちゃん、もう一戦」


 駒を並び直し、三戦目を開始する。


「大和くんは本館に戻っているんですか?」


「ええ。雨も強いし、美空伯母さんのこともあるから、今日はずっとあっちにいると思うわ」


「美空さんというのは、大和くんのお母さんでしたね」


「もう会った?」


「いえ、まだです。どんな方でしょうか」


「そうね」


 葉月は小さく息をついて、


「哀れな子羊、といったところかしら」


「えっ?」


 思いもよらないその言葉に、僕は盤から顔を上げた。葉月は涼しい顔をして、

「悪魔に運命を捻じ曲げられた、哀れな子羊よ」


 それは中二病的比喩なのか、それとも……


「美空伯母さんはいつも怯えてるの。あの人が信じられるのは、息子の大和くんだけ。だから、大和くんと一緒じゃなきゃ絶対に本館から出ないの」


「何に怯えてるのですか?」


「悪魔よ」


「悪魔?」


 こちらの反応を楽しむように葉月はくすくすと笑う。軽やかな、それでいて冷たく響き渡る彼女の笑い声。それに交じってうっすらと聞こえる雨の音が、僕の緊張をより高めた。


 首筋を冷や汗が伝う。


 悪魔など、この世に存在するはずがないではないか。神も悪魔も仏も、大昔の人間の想像の延長線上に生まれた偶像に過ぎないのだ。


 しかし、葉月の言葉を中二病患者の戯言として受け流すこともできなかった。

 この屋敷で目にした、あるいは耳にした様々な謎が、その「悪魔」という言葉にされるのではなかろうか。


 何の裏付けもない、単なる思い付きに過ぎないのだが、それは僕の心に呪いのようにへばりついてしまった。


 悪魔、か。


 瞬き一つせず、こちらを見つめる葉月。その瞳は、見返していると魂が吸い込まれてしまいそうなほど美しい。その蠱惑的な視線から逃れようと、僕は盤上に目を落とす。


「うふふふ、チェックメイトよ、大望さん」


 気がつくと、僕はまた負けていた。




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