第11話 ハルナ
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別館二階の中央には広々としたラウンジがあり、廊下はそこを貫くように東西に延びている。
壁は板張りで、天井では五枚羽のシーリングファンがくるくると回っていた。右手奥にはバーカウンターが設けられており、部屋の中央にはコの字型の大型ソファーが置かれている。
古風な隠れ家バーのような雰囲気である。
ちょうど掃除をしていた茜がいたので、お茶を淹れてもらうことにした。
「俺はアイスティーで。大望くんは?」
「僕も同じものを」
「かしこまりましたぁ」
太陽のような笑顔を見せて、茜はカウンターの裏へ回る。
「さ、そこに座ってくれたまえ」
皮張りのソファーに腰を下ろす。正面の壁には大型の壁掛けテレビが掛けられており、昼のワイドショーが大画面で流れていた。茜が掃除をしながら観ていたようだ。
「今日も相変わらず暑いですねぇ」
茜が言うと、カウンターの方を振り返って青夜が、
「嫌になっちまうな」
「天気がいいのはいいことですよ。洗濯物が早く乾くし。でも、青夜様はどうせ日が高いうちは外に出ないじゃないですか。たまには外で汗を流すのも必要ですよぉ」
「それはそうだが」
「青夜さんはインドアなタイプですか?」
僕が訊く。
「いや、こう見えても昔はわんぱく野球少年だったんだぜ」
「意外ですね」
「はい、お待ち」
茜が銀の盆に二人分のグラスを乗せてやってきた。琥珀色の液体に氷が浮いている。
昼食までもう少しだというので、雑談をしながら時間を潰すことにした。
アイスティーで喉を潤し、僕は言った。
「そういえば、葉月ちゃんはハルナってあだ名なんですか?」
それほど深刻な疑問でもないが、ちょっと気になっていたのだ。葉月の月を「ルナ」と読ませるとは、なかなか洒落ている。
「ああ、あれか」
ルナとはたしかラテン語で月を意味する言葉だ。ローマ神話にもルナという女神がいて、これも月の女神として知られている。
「葉月は、気に入った相手にはそう呼ばせているんだ。いい大人から見たら、こっぱずかしくてやめて欲しいんだが、思春期の子供というのは特に、異端な存在に惹かれるからね」
「月を
「いいや違うよ」
「え?」
「どうやら、ハルナのルナは
「ル、ルナティック、ですか?」
「そういうものに憧れるお年頃なのさ」
中二病、という単語が脳裏に浮かんだ。なるほど、そういう趣向か。
思い返してみれば、彼女の異様な雰囲気には、そのような方向性が感じられる。
思春期に発症しやすいその精神疾患は、実は完治した後が最も恐ろしい。感覚や常識が元に戻った後に往時の自分を思い返すと、顔から火が出るほどの羞恥に悶絶してしまうのである。
「俺にもそういうこじらせた時代があったから、あの娘を見ているとあの頃の自分を思い出してしまってね」
「判ります、誰でも通る道ですよ」
「自分が特別な存在であることに納得する一方で、それから生じる疎外感、孤独感に奇妙な感慨を抱いてしまう。仕方ないといえば仕方ないんだがね」
「黒猫をシロと名づけることも、その一環でしょうか」
「だろうね。人と違うセンスや行動をあえてする自分、というものに酔っているんだ。しかも、オッドアイの個体まで探して……兄としてはそろそろ治まって欲しいんだがね。ま、悪い娘じゃあないから、適当にあしらってあげてくれ」
その後、茜がやってきて昼食の準備ができたと知らせてくれた。
階下の食堂へ降りると、希愛と葉月、それに大和の姿もあった。純白のテーブルクロスの上には洋風の料理が並んでおり、僕らの到着を待っていたようだった。
「なんだ、今日は皆こっちで食べるのか」
青夜は食卓を見回しながらそう言うと、空いている席にどっかと腰を下ろした。
「なるほど、大望くんがいるからか。ふふっ、人気者だね」
僕は希愛の隣に座り、そっと彼女に顔を寄せた。
「お義母さん、大丈夫でしたか?」
黒音の様子はどうだろうか。僕の右腕の傷に気分を悪くしたのであれば、すぐにでも謝りに行きたいのだけれど。
「嫌なものを見せてしまいました」
傷をさすりながら僕が言うと、希愛は明るい調子で、
「ううん、大丈夫ですよ。ちょっと冷房にあたり過ぎただけだって言ってましたから」
「でも」
「気にしない、気にしない。さあ、お昼にしましょうよ」
料理はどれも美味だったが、頭の中で様々な感情が絶えず渦巻いて、なかなか食事に集中できなかった。
希愛はいつも通りの清らかな笑顔を見せている。それなのに、彼女がいつもの彼女ではないような気がしてしまうのは、気のせいだろうか。
この屋敷で起きたという、人の死が絡んだ不幸な出来事。
外部の人間には決して知らされることのない、大紋家の秘密。
それを希愛は知っている。僕の知らないことを、彼女は知っているのだ。
「大望さん、お料理のお味にご不満かしら?」
葉月がからかうように言った。
「え、いや、そんなことは」
食卓を見渡すと、たしかに僕のペースが一番遅いようだった。慌てて料理を詰め込む。
「くすくす、そんなに慌てて食べると、喉に詰まってしまうわよ」
「こら、葉月。あまり年上をからかうもんじゃないぞ」
青夜がたしなめるも、葉月はくすくすと笑い続けている。
「聞いてよ、青夜兄さん。葉月ちゃん、またシロに逃げられたんだ」
大和のその言葉に、葉月はむっと唇を突き出す。余計なことを言うな、とでも言いたげに、従兄弟を睨みつける。
「なんだ、また脱走したのか」
「外の眺めを見たがってたから、窓を開けてあげたのよ。そしたら……」
「もう放し飼いでいいじゃん」
「あんな広い庭で迷子になったらどうするのよ」
「ふん、そう思うならちゃんと自分で探してあげなよ」
「探したもん」
「見つけたのは僕じゃないか」
「ちょっと休憩してただけだし」
どうやらシロの脱走劇は日常茶飯事のようだ。大和と葉月の微笑ましいやり取りを見ながら、僕は残りの料理を片づける。
食後に、茜が冷たいアイスコーヒーを運んできた。
「茜さん、私はブラックでいいわ」
ミルクと砂糖を渡そうとする茜に対し、葉月は手のひらを向けた。そしておずおずとストローに口をつける。その直後、彼女の眉間に一瞬だけしわが刻まれたのを僕は見逃さなかった。
判るよ、
僕は心の中で鷹揚に頷いた。コーヒーをブラックで飲むことが何となく格好よく思え始めたのは、彼女と同じくらいの年齢だった。
「そうだ、茜ちゃん。今日も夕食はこっちで摂るよ。
食後の煙草を取り出しながら青夜は声を投げる。
「はーい、かしこまりました」
「他にも何人か、別館の方に来るんだろ?」
茜は中空を見上げながら、
「ええと、伺っているのは、英生様に黒音様、そして葉月お嬢様がこちらでご夕食を摂られる、と」
「なんだ、大和は来ないのか?」
問われて、大和は髪を揺らしながらふるふると首を振る。
「僕はいいよ。お母さんもどうせあっちにいるだろうし」
言って彼は顔を曇らせる。何かしらの事情があるようだ。青夜は気を遣ってか、声を和らげて、
「ああ、そうだったな。
当然といえば当然だが、大紋家には僕が知らない人間がたくさんいるようだ。今だけでも、「河崎さん」に「美空伯母さん」という名前が会話に登場した。まだ彼らとは出会えていない。
この広大な敷地面積を持つ屋敷の中で、いったい何人の人間が生活しているのだろう。
改めて、この屋敷の人間関係というものを知りたくなった。後で機会を窺って希愛に訊くとしようか。
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