エピローグ  希望の未来

 1



「おいおい大和、これまた派手にやられたな」


 読んでいた小説から顔を上げ、青夜は感嘆と驚きの入り混じった声で言った。


「油性だよ。昼寝してる間にやられた。あのクソガキ、ほんっとに勘弁してほしいよ」


「で、犯人のお姫様はどこに?」


「シロと鬼ごっこしてる。と言っても、一方的に追い回してるだけなんだけどね。だいたいさぁ、僕の部屋を遊び場にしないでほしいんだよね。後片付けが大変だよ」


「雨が降ってるから仕方ないな」


「ふん。晴れてたって僕を連れ出して外で大暴れするんだから、同じことだよ。もう二年生でしょ? 男の子みたいだ」


 顔中をカラフルに落書きされた大和は、それでも満更ではなさそうに顔をほころばせていた。

 夏休みに帰省してきた再従姪はとこめいを誰よりも可愛がっているのは、きっと大和に違いない。


「これ落ちるかな」


 洗面室へ向かう彼の後ろ姿を眺めながら、青夜はコーヒーを一口啜った。窓の外に目をやると、雨がぱらぱらと降りしきっている。


 この時期の雨は、否が応でもあの事件を思い出させる。


 五人の人間が無残に殺された、あの悲劇の夏。妹の亡骸の感触が、幻覚となって手のひらに蘇る。


 ふと暗い方へ意識が傾きかけたその時、真上からどたどたと足音が聞こえた。その軽やかな足取りに、苦い過去に沈み、後悔と懺悔に包まれつつあった青夜は引き上げられた。


「全く、困った娘だ」


 やがて、目の前を猫が横切った。


 シロという名前を与えられた黒猫である。シロは壁際の書架の上に駆け登り、置物のようにうずくまった。ああしてやり過ごすつもりらしい。遅れて、少女が視界に飛び出す。


「待てー、あれ? どこ行った?」


 栗色の柔らかな髪に健康的な小麦色の肌。アーモンドのような目には子供特有の澄んだ光が宿っている。元気という言葉をそのまま擬人化したような少女は、青夜に気づくとぱたぱたと駆け寄った。


「ねぇ、シロは?」


「知らん。というか、家の中で走り回るんじゃない。連れ帰っちまうぞ」


「広いんだからいいじゃん」


 足を止め、少女はきょろきょろと周囲を見回す。


 なるほど、背の低い彼女の視線では、高いところにいるシロは見つけ辛いのだろう。猫のくせによく考えている。


「あんまりシロをいじめるなよ。猫はやられたことを覚えてるから、いつか仕返しされるぞ」


「いじめてないもん」


「じゃあなんでシロは逃げてるんだ?」


「あ、いた」


 青夜を無視し、少女は棚に駆け寄った。


「シロ、見っけ」


「にゃあ」


「降りてきてよ」


「いじわるする子は嫌いだってさ」


「なんで判るの?」


「俺は猫とお話しできるんだ」


「はぁ?」


 小馬鹿にしたような顔で、少女は鼻を鳴らす。


「そんなことできるわけないじゃん」


「あ、それと大和兄ちゃんの部屋で遊んだらちゃんとお片づけをしろ。夏休みの宿題だって全部終わってないだろ。いいか、今日中に作文を書くんだぞ。それで明日は読書感想文――あ、おい待て希望のぞみ


 少女――希望はこれ以上のお説教は聞きたくないとでもいうふうに、両耳を手で押さえて逃げて行った。

 すかさずシロが棚から飛び降りて、青夜の膝の上に乗る。嵐の去った後のような静けさに、青夜は苦笑した。

 小さな子供が振りまくエネルギーは、またたくまに周りの人に感染し、自然と場を明るくしてくれる。


 例えそれが、凄惨な殺人事件が起きた家でも。



 *



 まったく、青夜おじさんは口うるさいったらない。


 机の上に顔を乗せ、希望はふうっと息を吐いた。


 せっかく実家に帰省しているのだから、少しは大目に見てくれてもいいではないか。

 そんなんだからいい年して独身なんだぞ、と心の中で毒づく。


 半分ほど口を開けた旅行バッグを眺めながら、ぶらぶらと足を揺するもそこからはみ出る夏休みの友が消えてくれるはずがない。


「はぁ」


 七月中に終わらせておけばよかった、と後悔が渦を巻く。そうしておけば、八月はめいっぱい遊べたのに。夏休みの宿題はまだ半分以上残っているのだ。


 ノックの音が聞こえ、美空おばさんのにこやかな顔が扉の隙間から現れた。


「希望ちゃん、ケーキ食べる?」


 美空おばさんは大和兄ちゃんのお母さんで、いつものにこやかな顔をしている。本当に、笑顔以外の感情がないのではないか、と心配になるほど、このおばさんはいつも笑っていて、ちょっと不気味に思うこともあった。


「食べる!」


 希望は元気よく返事をして椅子から飛び降りた。


「明日はねぇ、希望ちゃんもいくのよね?」


「明日?」


 冷たいオレンジジュースを飲みながら記憶をたぐる。


 そういえば、明日――八月七日はお墓参りに行くと言っていたっけ。


 この無駄に広い敷地の中に家族のお墓があるというのだから、大紋家はそうとうなお金持ちらしい。それなら、もう少し私のお小遣いも増やしてくれてもいいのにな、と希望は思う。


「お墓参り?」


「そう、希望ちゃんは初めてでしょう?」


「うん」


「みんなの命日だから。昔にね、この家でたくさんの人が死んだのよ。青夜くんのお父さんや妹の葉月ちゃん、それに使用人の人たちに……」


 人が死んだ話を、どうしてここまで笑顔で語れるのだろう、と希望は疑問に思う。


「それ、前も聞いたことあるし」


「そうだったかしら」


 ねぇ、パパとママのお墓も、そこにある?


 そう質問してみたかったのを我慢して、希望はチーズケーキの最後のひとかけらを口に運んだ。


 パパとママのことは聞いてはいけないことなんだな、と希望は子供ながら理解していた。別に隠しているわけではないのだろうけど、話題が自分の両親に及びそうになると、みんな口が重たくなるのだ。


 いったい、パパとママはどこにいるのだろう。


 会ってみたいな。


 今は青夜おじさんが親代わりで、希望は青夜おじさんのことが大好きだけど、でも、彼は本当のパパじゃないのだ。


 希望は考える。


 パパとママは、果たして生きているのか、それとも死んでいるのか。


 覚悟はしているけれど、もし、という希望を捨てきれない自分もいる。


 明日お墓に行けば、少なくともそれははっきりするだろう。


 でも、もし生きていたとしたら、二人はどこにいるのだろう。一人娘を放っておいて、海外旅行に行っているとは思えないし、行方不明という線も現実的ではない気がする。


「ま、いっか」


 難しいことを考えてもしょうがない。


 部屋に戻り、原稿用紙を机に置く。


 今日中に作文に取りかからなくてはいけないのだが、なかなかいい題材が思い浮かばない。

 さんざん悩んだ末、この前道徳の授業で発表した、自分の名前の意味を調べる宿題を焼き直しすることにした。




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