第18話  第一の犠牲者

 1



 気がつくと、八時だった。


 なんとか眠ることはできたようだが、疲労は体に残ったままで、最悪といっていい目覚めだった。

 眠ったというより、なんだか意識がプッツリ途切れたような感じで、夢も見なかった。


 体を起こそうとすると、不意に昨夜のあの光景がフラッシュバックした。


 襲撃者の黒々とした影。


 雷光に煌めく包丁。


 あの時と同じように叫びたい衝動を抑えながら、僕はゆっくり体を起こした。


「うう」


 全身にねっとりとした汗をかいていた。狭い空間に閉じ込められたような息苦しさが絶えずして、自然と呼吸が荒くなる。


 単調な、それでいて激しい雨の音が耳を打つ。表はまだ土砂降りのようである。


「希愛さん」と口にしかけて、ベッドに希愛がいないことに気づく。もうとっくに起きたのだろうか。


 窓に寄ってカーテンをめくると、バケツをひっくり返したような大雨が天から降り注いでいた。

 眼下に広がる木々は荒々しい風によって大きく揺さぶられている。鼠色の分厚い雲が空を覆い尽くし、陽射しは全く届かない。

 夏の日中だというのに、実に陰鬱な景色が目の前に広がっていた。


 シャワーで汗を流し、着替えを済ませて廊下に出る。


 隣の希愛の部屋をノックしてみたが、返事はなく、部屋にはいないようだった。階下か、本館の方へ向かったのだろう。ラウンジにも人はおらず、館内は実に静かだった。


 ……なんだろう、胸騒ぎがする。


 時間が時間だけに、昨晩の騒動はとっくに本館の人間の耳にも入ったことだろう。


 どのような対応になったのか気になる。


 この雨の影響で固定電話が使用不能になり、携帯も電波状態が非常に悪く、繋がらなかった。

 外界との通話手段が断たれてしまった以上、警察への通報はここを離れ、電波のいい場所まで移動するほかない。昨夜、英生は自分で車を出すと言っていたが、もう出かけただろうか。


 それにしても、皆はどこに行ったのだろう。一階に下りてみると、人の話し声がどこからか聞こえた。人はいるようで、とりあえずほっとする。


 玄関ロビーに接した廊下には、二階、三階と同じようにいくつもの部屋が並んでいる。声は食堂から漏れているようだった。

 そちらに足を向けると、ちょうど戸口から鳥谷が出てくるところだった。大柄な中年家政婦は僕に気づくと、気まずそうな表情を見せた。


「大望様、おはようございます」


「おはようございます。あの、他の皆さんは?」


「中に」


 そう言って鳥谷は食堂を振り返った。


「食堂に集まっているんですね」


「はい」


 深々と会釈をして、鳥谷は僕の横をすり抜けていった。その様子は何かに怯えているようにも見えて、ますます胸騒ぎが大きくなった。


 鳥谷の言った通り、食堂には人が集まっていたが、たったの二人だけだった。

 青夜と河崎。

 その二名が、長方形のテーブルの端に向かい合って座っている。場の雰囲気は重たく、ただならぬ空気を感じ取った。


「おはようございます」


 僕が声を投げると、二人は揃ってこちらに顔を向けた。


「やあ、大望くん。よく眠れたかい?」


「ええ、まあ」


「それはよかった」


 覇気のない、しぼんだ声でそう言うと、青夜は小さくため息をついた。


「あの、他の皆さんは?」


「希愛と葉月は本館に。英生おじさんは車を飛ばして山を下ってる最中だろう。鳥谷さんにはもう一度電話が通じないか、今たしかめに行ってもらった。が起きてしまったからね、皆その対応に追われている」


 そう言った青夜の表情からは、抑えきれない怒りと悲しみが感じ取れた。


 僕の胸のざわめきはいよいよ手がつかないほど大きくなった。体全体が硬直してしまったように動かなくなり、先ほどの息苦しさが再来した。


「緊急事態、ですか?」


「ああ、この家を揺るがす大事件さ」


 その時、僕はある人物の行方が気になった。青夜もその人物がどこに行ったのかは口にしなかった。


「……茜さんは?」


 僕がそう聞くと同時に、河崎がもの悲しそうな目を青夜に送った。それから逃れるように青夜は目を閉じる。そして――




「茜ちゃんはね……」






「茜さんは……?」







「殺されたよ」








 2



「えっ」


「恐れていたことが、ついに起きてしまった」


「ちょっと、ちょっと待ってください。今、何と?」


 悪い冗談だろうか。僕の耳にはたしかに「殺された」と聞こえたが。


「茜さんが、なんですか?」


 青夜は鼻を鳴らし、虚ろな瞳で中空を見上げると、


「茜ちゃんが、この家の中にいる誰かに殺された。そう言ったんだ」


「そんな……」


 体の力が抜け、僕はその場に崩れ落ちてしまいそうになった。


「ひどいありさまだった。顔と首を刃物でめった刺しにされて、ベッドの上に倒れていたのを鳥谷さんと河崎さんが見つけたんだ」


 抑揚の乏しい声色で青夜は言った。めった刺しという生々しい表現に、僕の心臓はぎゅっと締め付けられた。


「誰がそんなことを」


 口にしてから、それが全く意味のない問いかけだと気づいた。それが判っているのなら、誰かに殺された、という表現は使わないだろう。


 鳥谷が戻ってきたが、その表情は芳しくない。


「どうだった?」


「まだ復旧はしていないようです」


「そうか」


 鳥谷はちらと立ち尽くしたままの僕を横目で見て、空いている席に腰を下ろした。同時に青夜が立ち上がる。


「大望くんにも詳しい説明をしておかないとね。茜ちゃんの部屋に案内しよう」


 青夜と連れ立って廊下に出た。


 前を行く青夜の背中を見つめながら、僕は考える。


 彼は何も言わないが、茜が殺されたことと、昨晩のあの騒動がだとは思えない。


 僕を襲いかけたあの影。あいつが、あの影が、茜を殺したのだろうか。


 そう考えるのが、最も筋の通る考え方だ。

 ではなぜあいつは茜を殺したのだろう。僕の殺害に失敗し、ターゲットを茜に切り替えたに違いないが、その理由は?


 やはりあれは無差別殺人だったのか? いやしかし――


 受けた衝撃が大きすぎて、起き抜けの頭はそれ以上回らなかった。


「ここだよ」


 茜の部屋は別館一階、南西に位置する角部屋だった。ベッドの上に横たわる茜の骸には、白いシーツがかけられている。裾から覗く足首は青白く、まるでマネキンのようだった。


 人型に膨らんだシーツの上方、頭の部分には赤黒いシミが広がっている。


 めった刺し……


 青夜の言葉が幻聴となって繰り返される。あのシーツの下には、いったいどれほど惨たらしい光景が隠されているのだろう。


 遺体の腐敗を遅らせるためか、冷房がかなり強めにかけられていて、室内は身が凍るほどの寒さだった。

 だが、僕の肌をぶつぶつと粟立たせているのは、部屋を満たす冷気のせいではない。

 目の前に本物の人間の死体がある。その事実が何より僕の恐怖心を煽り、神経を摩耗させているのだ。


「本当に、これが茜さんなのですか」


 実際にこの目で見ても、まだ信じられなかった。いや、信じたくなかった。青夜はシーツに手をかけ、ゆっくりとめくる。


「ああ……」


 現れたのは、昨晩の騒動の時の茜と同じ服装をした女性の体。


 薄手の黄色いパジャマは血にまみれ、正視できない。


 これが、数時間前まで生きていた人間の体なのか。太陽のような笑顔を振りまいていた茜の体なのか。


「茜ちゃんの尊厳のために、顔は見ないでやってくれ」


 胸の辺りまでシーツをまくったところで青夜は手を止めた。


 めった刺しにされたという顔は、それほどひどい状態だということか。

 顔と首に無数の刺し傷を負い、生気を失った茜。

 その無残な姿を想像するだけで、強烈な悪心がこみ上げてきた。口元を押さえ、喉までせり上がってきた胃液を何とか飲み下す。


 シーツを元に戻すと、青夜はおもむろに片手で目元を押さえ、拭うような動作をした。


「こんなことになってしまったのは、俺の責任だ。昨晩の段階で、しっかり犯人を捜しておくべきだった」


「ではやはり、茜さんを殺したのは、僕の部屋に侵入した犯人と同じ人物だとお考えなのですね」


「ああ。凶器が刃物であるという点も、君を襲いかけた犯人と同じだ」


「僕を襲うことに失敗したから、ターゲットを僕から茜さんに切り替えた。それはつまり、犯人にとって、襲う相手は、とそういうことなのでしょうか」


 僕は恐怖を紛らわそうと、頭の中に浮かんだ言葉をそのまま口にしてしまった。茜の遺体を前にしてこんなことを言うのは不謹慎だと思われたかもしれない。


「だろうね」


 言って青夜は西側の壁の窓を見やった。スクリュー錠のそばにこぶし大の穴が開いており、細かなガラス片が床に散らばっていた。


「犯人はその窓から侵入したと思われる。窓を割り、そこから手を入れて鍵を開け、侵入したんだろう。そして眠っていた茜ちゃんの顔めがけて……何度も刃物を振り下ろした」


 青夜は僕に背を向け、ベッドの手前にしゃがみ込んだ。シーツの中から血にまみれた茜の左手を取り出し、強く握りしめる。


 室内は、犯人が侵入した窓の周辺を除き、これといって荒らされた形跡はなかった。眠っていた茜は犯人の襲撃に気づかぬまま、毒牙にかかったのだろう。


 低いガラステーブルの上には食べかけのポテトチップスの袋と読みかけの小説が置かれ、隅にある小型の冷蔵庫には付箋で幾つものメモが貼られている。


 本棚には少女漫画と女性向けの小説が並んでいた。一冊分のスペースが空いているのは、テーブルの上の読みかけの一冊をそこから抜き出したからだろう。


 部屋主の生活の匂いが、そこかしこから感じられる。

 しかし、もう茜はこの世にはいないのだ。ベッドの上に横たわる、かつて茜だったものはもう二度と目覚めることはない。


 青夜はしゃがみ込んだまま、茜の手を握っている。


 いったい、今の彼の胸中はどのようなものだろうか。


 昨夜の希愛の話によると、青夜と茜はかなり古い付き合いがあるようだった。また希愛の見立てでは、茜は青夜に恋心を寄せていたという。青夜の方はどうだったのだろう。茜のことをどう思っていたのだろう。


 その答えは判らないけれど、茜の死が青夜に多大なショックを与えたことだけはたしかだろう。


 やがて、青夜は腰を上げて振り返った。


「出ようか」


「……はい」


 青夜が廊下に出ていく。彼の姿が見えなくなったのを見計らって、僕は素早く顔の部分のシーツをめくってみた。




「うっ……」




 廊下に出ると、青夜はひどく緩慢な歩みで食堂の方へ歩き始めた。


 僕は茜が息絶えた現場を一瞥する。


 今しがた目にしたものが網膜にこびりついて離れてくれない。見なければよかったと、本気で後悔している。

 押し寄せる悪心に耐えながら、悲愴な情念が立ち上るその背中を追いかけた。



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