悪魔の系譜
館西夕木
第一章 血裔たち
第1話 夢
1
女の人が僕を見下ろしている。彼女はとても背が高く、まるで巨人のようだ。
彼女の大きな手には鋭利な包丁が握られていて、その切っ先がてらてらとした赤色に染められている。
血だ。
僕ははっきり直感する。
トマトジュースでもケチャップでもなければ、赤いペンキでもない。
あれは血の赤だ。
滴る血のしずくは、まるでスローモーションのようにゆっくりと地面に降下し、やがて弾ける。
僕は地面に寝そべったまま巨大な女を見上げている。女の顔はよく判らない。顔の位置があまりに遠すぎて、その造形がはっきりと認識できないのだ。
不思議と恐怖はない。ただ奇妙なのは、顔も知らない彼女に対して、以前どこかで会ったことがあるような奇妙な懐かしさを感じるのである。
刃物を持った女に対して、こんな気持ちになるのはなぜだ……?
ふと鋭い痛みを感じて、僕は自分の右手を見た。二の腕の辺りがぱっくりと口を開け、どくどくと鮮血を吐き出しているではないか。
血は絶えず溢れ出て、地面に赤い水たまりを広げていく。視線を上げれば、またあの女が視界に入る。彼女が握る血濡れの包丁も。
間違いない。彼女が斬ったのだ。僕の右手を。あの包丁で……
だから、あの包丁から滴り落ちる血は、僕の血なのだ。
(彼女はいったい……)
疑問は、遅れてやってきた再認識によって上書きされる。
ああ、またか。
またこの夢か。
そうだ、これは夢なのだ。何度も見た……異様な。
ようやく僕は、自分が夢の世界にいることを認識した。
それはそうだろう。
考えてみれば当たり前だ。
こんな二階建ての家よりも大きな女が、現実に存在するわけがない。
薄ぼんやりとした意識の中で唯一鮮明なのは、彼女に斬り付けられた右手の痛みだけ。激しい痛みだが、まるで人ごとのように感じてしまうのは、ここが夢だからに違いない。
やがて、じっと見下ろすだけだった彼女が包丁を構えた。また僕の体を切り刻もうというのか。それとも、今度は突き刺すのか?
いずれにせよ、僕は全く恐怖を感じてはいない。ここが夢の中の世界だから、という理由ではない。
何と言ったらいいのだろうか。
全てをゆだねてしまいたくなるような安心感。この巨大な女に対する信頼感。それらが僕の心を落ち着かせていた。
自分でも不思議だった。
こんな状況にあって、僕はなぜ安らぎを感じているのだろう。
彼女は今まさに僕を傷つけようとしているのに。
彼女はいったい何者なのだろう。
次第に意識が朦朧としてきた。視界に靄がかかってしまったように、目に映る全てが輪郭を失っていく。
巨大な女も、彼女が握りしめる包丁も、全てが曖昧なものへと変わっていく。
意識が僕の本体へ舞い戻ろうとしているのだ。
――覚醒。
「またあの夢か」
そう呟いて、僕はゆっくり体を起こした。全身にびっしょりと寝汗をかいている。額の汗を手で拭い、起き抜けの不鮮明な頭で今見た夢を反芻する。
何度あの夢を見ただろう。一年近く前から、あの不思議な夢を見るようになった。
細かいところに差異はあるが、その夢のおおまかな内容は共通している。
夢の中で、僕は仰向けに寝そべっている。そして右手の二の腕にはできたばかりの切り傷があり、湧き水のように血が流れ出している。
僕の目の前には巨大な女が仁王立ちの恰好で立っており、片手に包丁を握ったまま僕を見下ろしているのだ。
状況を客観的に分析すれば、あの巨大な女が僕の右手を斬りつけたということになるのだろうが、その直接的な場面が夢の中で描かれることはなく、また僕は彼女に対して恐怖を抱くこともない。どころか、まるで我が家にいるかのような安心感に包まれているのだ。
なぜだろうか。
夢の内容を考察することほど不毛なことはない。あれは脳が作り出した一夜限りの幻想に過ぎないのだから。
けれど、僕はこの夢を一年ほど前から何度も繰り返し見てきたのだ。そこに何かしらの意味が含まれていると考えるのは自然なことだろう。ただ、つじつまの合う完璧な答えは一年経った今でも見つかってはいないのだけれど。
ベッドからおりて北向きの窓に歩み寄った。カーテンを開け、窓を全開にすると容赦のない朝日が風と共に侵入してきた。
光が目に沁みる。
窓の外には朝の陽射しに照らされた
季節は夏。八月六日の朝である。
大紋家の敷地はほとんどが青々とした林によって埋め尽くされている。そのため、建物はその頭――屋根の部分しか見えない。
向かいに建つ本館もだから、そのくすんだ赤い屋根だけがぽつんと見えるだけである。
距離はざっと百メートルくらいだろうか。僕が今いる別館と本館を結ぶ道は、深い木々によって隠されている。
汗が風で冷えたのか、少し寒くなってきたので、窓を開けたままその場を離れた。寝室に隣接した浴室に入り、シャワーを浴びることにした。
判ってはいたが、寝間着を全て脱ぐと、再びあの夢について考えざるを得なくなった。というのも、僕の右手の二の腕にはあの夢と同じような切り傷があるのだ。
違っているのは、夢の中の傷が斬りつけられたばかりの新しいものであるのに対し、現実のこの傷はいつ負ったかも判らない古傷であることだ。
肩から肘の手前にかけて、ざっくりと切ったであろうこの傷。果たして、痛々しいこの傷痕とあの夢には何か関係があるのだろうか。偶然にしてはできすぎているから、あると考えるのが妥当だろうが。
もしかすると、あの夢はこの傷を負った際の記憶なのかもしれない。
ただ、いつ、どのようにして負傷したのかは判らない。残念ながら僕の記憶の中にはこの傷に関連した出来事はなにもないのだ。
おそらく、物心つく前にできた傷なのだろうと想像するが、それも想像の域を出ないのだった。
汗を流すとだいぶさっぱりした。
青い半袖のポロシャツとジーンズに着替え、ソファーに腰を下ろす。時刻は午前八時ちょうど。テレビをつけ、朝のニュース番組を観ていると、こんこん、とノックの音がした。
「はい、あ、
ドアの前には、大紋希愛の愛らしい顔があった。栗色の長い髪をポニーテールにしている。ひらひらとした薄いワンピースに身を包み、大きなたれ気味の瞳がまっすぐ僕を見上げていた。
恋人の笑顔を目にすると、それだけで元気になれる気がした。あんな夢のことなどすっかり忘れて、僕は顔をほころばせる。
「おはようございます、
小鳥がさえずるような可憐な声が、僕の名を呼んだ。
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