第9話 迷夢 その四



 強い思いは利用されやすいのだと、ガブリエルは言った。

 なつきのために快楽の玉を得たいと願うアルバートのその気持ちが、今はただ快楽の玉が欲しいという、それだけの欲求になりさがっている。

 誰のためにとか、なんのためにとか、そんなことはもう彼の意識にはないようだった。


 ふつうの人間ならとっくに失神しているだろう重傷を負いながらも、アルバートは機敏な動きで切りかかってくる。フェンシングの心得があるのかもしれない。するどい突きで龍郎の胸をまっすぐ狙う。


 しかし、龍郎のなかには薬丸自顕流の達人がいる。ずっと力を貸してくれているあの侍の魂のおかげで、矢継ぎ早にくりだされるアルバートの突きを、すべて紙一重でかわすことができた。まるで静止画のように剣の切先が止まって見える瞬間がある。


 左から来る刃を軸足で半回転し、右によける。

 そうしながら、カウンターで左手を伸ばす。剣を持つアルバートの手首をガッチリ、にぎった。


「アルバート! いや、黒川水月! 目をさませッ」


 苦痛の玉の浄化の光を浴びせれば……だが、それではアルバート自身が滅却されてしまうかもしれない。彼は悪魔だ。組成はアンドロマリウスの肉体と同質なのだから。


 アルバートの手から剣をもぎとろうと、つかのま、もみあった。アルバートは怪我と出血のせいで本調子ではない。力でのこぜりあいが続くと、ただの人間の龍郎相手に、かなりふらつく。


 これなら楽勝だ。

 そう思い、剣をもぎとろうとした瞬間、龍郎の手の下で影が這った。

 ぬるっとしたものが龍郎の腕にまといつく。吸盤だ。タコの足のようは触手がどこからか生えてくる。いっきに二十、三十と増える。龍郎の胴体や首に巻きつき、しめあげようとする。


「やめろッ! アルバート……」

「よこせ……二つの目……増える。それさえあれば無尽蔵に増え続けるのだ……」

「アルバ……ト! それはおまえの思いじゃないだろ——」


 アルバートは快楽の玉のみならず、龍郎のなかの苦痛の玉も求めているようだ。そのために龍郎を殺そうとしている。


 触手が増殖し、アルバートの体が膨張してきた。クトゥルフの精神は去ったが、まだアルバートのなかにはその能力が残っている。ふたたび、邪神の分身化しようとしている。


 龍郎は右手で首に巻きつく触手を焼き落とした。


「アルバートッ!」


 叫びながら、なんとか彼を正気に戻す方法を模索する。

 アルバートはクトゥルフにあやつられているが、完全に自我を失ったわけではない。龍郎のことをおぼえていた。


 それに、岩礁で戦ったとき、彼は青蘭から快楽の玉をぬきだし、なつきに与えた。あの行動は無意識だったのかもしれないが、アルバートの本心からの願いが起こした行動だった。

 なつきを……妹を生かすために、クトゥルフの支配を超えて、彼の心をつき動かした。


「頼む。おまえの意思はまだ、おまえのなかにあるはずだ!」

「ムダだよ」と言ったのは、青蘭だ。なつきに乱暴したときのような目をしている。


「そいつ、もうすっかり。頭のなかまで破壊されてるんだ」


 青蘭はかけよってきて、龍郎の手をにぎった。快楽の玉の鼓動が伝わる。


「早く! 倒してしまおう。龍郎さん」


 冷たい目をした青蘭を見ると、なんだか出会ったばかりのころを思いだす。世界に絶望し、誰のことも信用せず、自暴自棄の強さで、たった一人で生きてきた青蘭。

 やはり、青蘭にこんな目をさせるアルバートをゆるすことはできない。


 龍郎は右手に力をこめた。天使の剣を呼びだす……。


 ブクブクとふくれていくアルバートの口から尋常じゃない量の血がこぼれおちる。このままでは龍郎たちが何もしなくても、まもなく彼は死ぬだろう。膨張しながら他方では崩れていく。


 すると、そのときだ。

 教会のなかの空気が変わった。清澄な香り。邪神の瘴気をふりはらう清涼感がある。



 ——お願い。龍郎。兄さんを助けて。



 光の帯のようなものが一瞬、天井あたりをよぎった。

 その光はおぼろにまたたき、アルバートのかたわらを周回する。アルバートを止めようとしているのだ。


(そうだった。クトゥルフの夢の世界からつれだしてくれるとき、頼みがあると言ってたっけ)


 アルバートをクトゥルフの支配から解放してほしい——

 それが、なつきの願いだったのだ。


「……わかった。やるよ」


 だが、龍郎は武器である剣をすてた。天使の剣は龍郎の手を離れると形を失い、苦痛の玉に吸われる。


「龍郎さん?」


 いぶかしむ青蘭にうなずきかけ、龍郎はその手をギュッとにぎった。


 アルバートをゆるせない気持ちは変わらない。でも、それをやるのは今ではない。彼には自分のしたことを自覚し、心から悔いてほしい。こんな何も認識できない状態で浄化だけしてしまうなんて、かえって生ぬるい気がした。


 青蘭の手をにぎりしめると、いつもの快楽の玉とつながる感覚が押しよせてくる。

 龍郎は右手をひらき、そこに意識を集中した。憎しみではなく、アルバートを救いたいと願う。なつきの思いを叶えてあげたいと、強く念じる。


 蒸気機関車の汽笛のような叫びをあげながら、アルバートは巨大化していく。

 しかし、龍郎の右手が輝き渡り、その巨体を包む。

 一瞬、時間が静止したかのようだった。

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