第9話 迷夢 その三



「洞窟がない。これじゃ、もとの世界に戻れない」


 龍郎はあせった。

 が、ガブリエルやマルコシアスは落ちついている。


「ゲートはある。さきほどより隠蔽の力が弱い。もともと構造的にほどこされた仕掛け以外は消えたようだ。やっかいなお荷物がいなくなったのだから、飛んで帰ろうか?」


 そう言うので、龍郎は考えた。


(クトゥルフがいなくなった。つまり、この結界のなかにいるのはアルバートだけ。アルバートが相手なら、一方的に負けることはない。もちろん、容易に勝てるわけでもないだろうが)


 そして、夢のなかで清美が言っていた最後の言葉を思いだした。


「教会だ。教会へ戻ってくれと清美さんは言ってた。それに最初にここへ来るとき、行きは右、最後には左と。あの教会の左の扉が出口につながってるんじゃないだろうか?」

「なるほど。それはあるかもしれないな。いいだろう。隠されたゲートをムリにやぶるより、正規のルートからのほうが出やすい」


 ガブリエルが賛同したので、一行は教会へひきかえすことになった。


 岩場はあいかわらず穴だらけで、いつ海に落ちるかわからないのだが、東の空が白み始めている。夜明けが近い。数時間ものあいだ、龍郎は夢の世界に囚われていたらしい。ザザザ、ザザザとさわいでいた波音がやわらいできたのは朝凪か。


「またインスマス人が襲ってくるだろうか?」

「だとしても行かないわけにはいかない」


 逃亡したとき、町はインスマス人であふれていた。一体ずつは弱いのだが、あまりにも大量に集まってくると、その重量で押し流されるし、そのたびに浄化しなければならない。疲弊した龍郎の体力を奪っていくことになる。苦痛の玉の力は無尽蔵ではないのだ。


 が、身を隠しながら防波堤をのぼり、町のなかをのぞいてみるものの、人影はなかった。初めに見たときのように、無人の町並みだ。


「インスマス人たちも寝てるのかな?」


 否定されるだろうと思ったのに、意外にもガブリエルは首肯した。


「そうかもしれないな。奉仕種族はけっこう人に似たところがある。少なくとも、ヤツらも生物だ」


 建物のなかに閉じこもっているのか、それともクトゥルフが去ったから奉仕種族も去ったのか……。


 とにかく、無人の街路を歩いていく。まだアスファルトの敷かれていないころの土の道路。その上に転々と黒いタールのようなものがこぼれている。


 龍郎がしゃがんでたしかめると、鉄のようなサビっぽい匂いがした。


「これ、血だ……」


 まるで何者かが傷つきながら、そこをよろめき歩いていったかのようだ。


「罠かな?」と、青蘭は首をかしげるが、龍郎はそうではないと思っていた。


「教会に続いてる。行ってみよう」


 血のあとをたどるように町の中心へと急ぐ。赤と黒と青銅色の教会が、朝日のなかで、いっそう血ぬられたように不吉に輝いている。

 両扉の前にはベッタリと血がこぼれていた。何かをひきずったような跡だ。


 扉をあけると、礼拝堂の奥に男が一人、立っている。いや、祭壇にもたれるようにして、体を支えている。

 黒くシルエットになっていたが、近づいていくと、容貌が見てとれた。

 濃いブラウンの髪に青い瞳。

 若かりしころのアンドロマリウスを彷彿とさせるおもては、アルバートである。


 が、その整ったおもてには深い傷が残されている。右目がない。刃物で突かれたようにつぶれているのだ。それだけではなかった。腹部に大量の血がにじみ、手足にも切り傷があった。

 すでに誰かと戦ったかのような惨状だ。


「アルバート……」

「やっと来たか。龍郎。待っていた」


 アルバートは静かな口調で言い、祭壇奥に立つ天使の像の手から剣をとった。それは飾りではなく、本物のようだ。


「よせ。アルバート。なつきは死んだ。おまえにはもう、おれたちと戦う理由はないはずだ」

「理由? そんなものはいらない」


 アルバートのつぶれた目から、ボコッと何かがとびだしてくる。触手だ。吸盤のついたそれが眼窩がんかから這いだし、舌のようにアルバートの顔面の血をぬぐう。


「……やっぱり、そうだったんだな。おまえはクトゥルフと取引きした。力を得るかわりに従属したのか? 岩礁の地下で戦ったクトゥルフは、おまえだったんだ」


 これまでのクトゥルフは深海のイカやタコなどに乗り移って分身を作っていた。しかし、岩礁でのクトゥルフはそれらとはくらべものにならないほど桁外れに強かった。憑依する母体がそもそも魔王だったからだ。クトゥルフはアルバートに取り憑いていたのだ。


「アルバート。おまえは妹のために快楽の玉を欲していた。なつきが死んだ今、おれたちと争う必要なんて、どこにもないじゃないか」


 重ねて説得しようとするのだが、アルバートの口元には歪んだ笑みが浮かびあがる。残った左目が熱に浮かされたように虚空を見あげている。

 ようすがふつうじゃない。


 神父がつぶやいた。

「正気じゃないな」

「おそらく、あやつられている」と言ったのはガブリエルだ。


 たしかに常軌を逸している。

 龍郎はうなずいた。


「さっき気絶してるあいだ、おれはクトゥルフの悪夢の世界に囚われてた。そのとき戦ったクトゥルフの分身は、アルバートだ。彼が何かの目的でクトゥルフと取引きしたんだと思った。けど、もしかしたらクトゥルフと接触しようとしたときに、一方的に乗っとられたのかも……」


 うなるように、ガブリエルがささやいた。

「強い望みを持つ者は、その欲望を利用され、憑依されやすい」

「なつきを守りたい気持ちを逆手にとられたのか……」


 アルバートはクトゥルフに心をあやつられ、気がふれている。

 自分の意思でなく戦おうとしている。

 これ以上、戦えば、彼自身だって命をおびやかされるといいうのに。


「アルバート。おまえは実の兄だというのに、青蘭が生きるために重要な快楽の玉を卑劣な方法で奪いとり、身も心も、はなはだしく傷つけた。おまえだけは絶対にゆるさない。そう思っていた。でも、それは今のおまえじゃない。自分の心をなくしたおまえを殺したって、なんの意味もないからだ。頼む。正気に戻れ。そして、あらためて正々堂々と決闘したい!」


 アルバートが聞いているふうはなかった。

 剣を手に切りかかってくる——

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