第8話 激闘のインスマス その七



 暗い海中へ没していく……。

 まだ浅瀬の岩棚にあいた穴にすぎなかったはずなのに、ずいぶん深くまでもぐっている。


 息が続かない。

 このままでは溺れてしまう。

 だが、龍郎たちをひきこむ力はまったく弱まらない。

 かすかにきらめく鱗が、まわりじゅうに見えた。インスマス人の集団にかこまれ、海底のどこかへとつれさられようとしている。


 龍郎は必死で右手に力をこめた。黒い水中に光球が生まれ、爆発する。まわりの鱗は消しとんだ。

 そのすきに青蘭をかかえて浮上しようとする。


 ——龍郎! 青蘭!


 海中を飛ぶように巨大な狼が近づいてくる。マルコシアスが追ってきたのだ。


 ——青蘭を……青蘭をたのむ!


 マルコシアスは泳いでいるわけではなく、飛翔能力で移動しているようだ。海水の抵抗を受けないのか弾丸のように水をつきやぶってくる。


(早く……たのむ……)


 呼吸を止めていることが難しい。だいぶ海水を飲んだ。このままだと、まもなく意識を失ってしまう。

 龍郎が何より恐れているのは、そうなったときに青蘭の手をにぎりしめていることができるかどうかだ。


(青蘭……青…………指に力が…………)


 気絶する寸前、マルコシアスが龍郎の肩に食いついた。強い力でひきあげられていく。


(助かっ……)


 だが、そのときだ。

 急激に青蘭の体が重くなる。

 違う。青蘭が重くなったわけではない。何かが青蘭の足をつかんだ。ひきよせる力がまた増す。


 それがなんなのか、龍郎はたしかめることができなかった。そのあとすぐに意識がブラックアウトした。


 次に気づいたときには、龍郎は岩場に戻っていた。あたりは真っ暗だが、固い岩の上に寝かされている感触がある。


「青蘭——!」


 とびおきるが、そこに青蘭の姿はない。

 目の前に立っているのはガブリエルだ。


「青蘭は……?」

「マルコシアスが追っていった。マルコシアスとカエルだ」

「…………」


 やはり、気を失ったとき、龍郎の指が離れてしまったのだ。

 龍郎は悔しさをこらえかねて、目の前の岩盤をこぶしでなぐった。その手をガブリエルがつかんで止める。龍郎が見あげると、そっと首をふった。


(そうだ。悔やんでる場合じゃない。そんなヒマがあるなら、青蘭を探さないと)


 うなずいて、龍郎は立ちあがった。


「すまない。すぐに、おれたちも行こう」


 すると、ガブリエルはそれにも首をふった。


「海中にひきこまれたのは君たちだけではない。あの場にいた全員だ。ただ、マルコシアスとカエルは飛べるし泳げるので問題ない。私は君の手をつかむのがやっとだった。そのあと、ともかく近くの空気のある空間へ飛んだのだが、どうやらそのときに迷いこんだらしい」

「迷いこんだ?」


 どこへ?——とたずねようとすると、ガブリエルは人差し指を口元にあてて、龍郎を制止する。

 ピトン、ピトンと水のしたたる音がかすかに聞こえた。

 それにまぎれて、ふうふう、ふうふうと妙な音がする。

 風だろうか?

 いや、風にしてはもっとこう生物的な……まるで何者かが背後にいて、荒く息をついているかのようだ。


 龍郎がふりかえろうとすると、ガブリエルがとどめた。


「見てはいけない」

「えっ?」

「見れば、おそらく、最深部へひきずりこまれる」

「何に?」

「それは君だって気づいているだろう?」


 ふうふう、はあはあと呼吸音が聞こえる。その息吹にこもる熱まで感知できそうだ。

 背中にベッタリ、とてつもなく大きな毒蜘蛛がへばりついているような不快感と、腹の底がチリチリする焦燥感がこみあげてきた。


(邪神……)


 おそらくはクトゥルフ。

 結界のぬしの気配だ。


「……そこにいるのか?」

「いや、ここは沖にあったあの岩礁だろう。このなかでは、どこにいてもの気配がうかがっているのだと考えられる」

「うかがってどうするんだ?」

「すきを見て、つれさろうとする」


 たしかに、そんな感じはしている。

 名状しがたいほど悪意に満ちた邪念が、油断なくこっちを見つめている。

 そして龍郎がその気配に気づいていることを察すれば、なんらかのカマをかけてくる——そんな気がする。


「……じゃあ、どうするんだ?」

「やつの本体はどうやら眠っているようだ。刺激しないように気をつけながら、とりあえずフレデリックやマルコシアスたちを見つけよう。もし邪神と対峙したとき、私と君だけでは心もとない」

「そうだな」


 それにしても青蘭は大丈夫だろうか?

 どうして、あのとき手を離してしまったのだろう。

 どうして、あとほんの数秒、気をしっかり保つことができなかったのか……。


 青蘭もこの岩礁のどこかに迷いこんでいるのかもしれない。

 きっと、一人でさみしがっているはずだ。早く見つけてやらないと。


 あせる気持ちをおさえつけて歩きだす。

 さっき海中にひきこまれたせいで、懐中電灯をなくしてしまった。リュックはかろうじて背負っているものの、なかみはどれもこれも水びたしだろう。海辺の町だから用心して、スマホをジップロックに入れておいてよかったと心から思う。


「まわりがよく見えないな」

「そうか? 人間の体は不便だな」

「待ってくれ。スマホを出して、ライトをつけるから」


 リュックをおろすと、思っていたほど、ずぶぬれではなかった。バックじたいが耐水性だからだ。


「よかった。これなら非常食も無事かな」


 スマホを出して、照明がわりに点灯する。

 周囲が見えた。

 岩礁にいるとガブリエルは言ったが、龍郎が想像していた風景ではなかった。海面から突出した岩場の部分にいるのだろうと思っていたが、そこは地下鍾乳洞のようだ。この世界に来るときに通った洞窟とよく似ている。


「これ……地下へむかってる」

「そうだな」

「海底へだ」

「そう。この海のもっとも深い場所へ」


 海底。もっとも深い場所。

 それはつまり、この結界のぬしのいるところ……。

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