第8話 激闘のインスマス その十



 クトゥルフは淫欲の悪魔だ。

 それはこれまで遭遇したときも必ず、そうだった。

 おそらくは子孫を増やす、増殖するということじたいに対する、あくなき欲求の強烈さからなのかもしれない。

 宇宙の始まりに近い原初的な生物であるからこそ、増えることに、どこまでも貪欲なのだ。


 だが、これは許せなかった。

 愛する人が触手に辱められて歓喜に悶えている。


 頭が真っ白になった瞬間、右手が熱くなった。これまでにないほど苦痛の玉が沸騰している。そして龍郎の全身を白銀の炎で包んだ。


 天使の剣が意識する前に手の内に現れていた。

 龍郎は少女を地面によこたえると、にむかっていった。人間が山に突進していくようなものだ。存在の大きさが違いすぎる。

 だが、剣を振っただけで巨体が裂ける。触手がぶるぶる、ふるえる。

 の怒りが波動のように大気をゆらす。


 それが、なおさら腹立たしい。怒っているのはこっちだ。恋人をこんなタコのような蛇のようなナメクジのような、醜悪きわまりない化け物に穢されて、怒り狂わないでいられるわけがない。


 激昂することで正気が保たれた。に対するバリアの役目を果たす。真っ向からにらんでも、忍びよる狂気の渦をよせつけない。


 次の瞬間、龍郎はさらに激怒することになった。


 は龍郎の身の丈より太い、大蛇のような触手を伸縮させ、少女をつかんだ。最初は犯すためかと思ったが、違う。


 同時に青蘭のうめきに苦痛がまじった。はらわたを炙られるような絶叫をあげる。


 何をしているのか、やっと龍郎にもわかった。

 ヤツはただ青蘭を凌辱しているのではない。そうしながら、快楽の玉をぬきだそうとしている。


(なんのためにだ? 快楽の玉が魅力的だからか?)


 そんな思考が一瞬、脳裏をよぎる。が、ともかく今は、青蘭を救うことが先決だ。

 龍郎は剣を縦横無尽にふるい、自身が刃のようにの至大な体躯につっこんでいく。

 たしかに攻撃は効いている。しかし、デカすぎる。

 あまりにも極大で、多少の傷はそれにとって針に刺されたようなものでしかないのだ。の動作を止めることができない。


「くそッ! くそッ! 青蘭を離せ!」


 目の前の肉塊を必死に切りさく。どす黒くにごった緑色の何かが、そこからドロドロあふれだす。血のようだ。


 は鬱陶しげに触手をふりあげ、龍郎をふりはらう。巨木が頭上に落下してきたようなものだ。直撃を受ければ、当然、命はない。よけようにも跳躍でかわせるようなサイズではなかった。


 ここで、こんなところで死ぬのか。

 まだ青蘭を助けてないのに……。


 龍郎があきらめかけたとき、白い影が迫ってきた。


「龍郎!」


 ガブリエルだ。

 龍郎をよこから抱えて、山のような触手の下をくぐりぬける。いっきにの頭上にまで移動した。

 上部に来たことで、青蘭の状態がいっそうよく見えるようになった。


 はたったいま、青蘭のなかから光り輝く赤い玉をぬきだした。触手のさきにひっついて赤く発光するそれが、右から左へ移っていく。


 あるいはそのつもりなのかと予測してはいたが、それでもやはり意外な気がした。

 は青蘭のなかから出した玉を、なつきの体内へ埋めこんでいる。


 なぜ、クトゥルフがそんなことをするのか?


(おかしい。ヤツがあの子に執着する要因なんて一つもないはずだ。快楽の玉の所持者を変えて、アイツになんの得があるっていうんだ?)


 それをしようとするのは、龍郎が知るかぎり一人しかいない。


 まるでそれを証明するかのように、クトゥルフはとうとつに、青蘭への興味を失ったようだった。支えていた触手が離れ、青蘭は中空になげだされる。


「ガブリエル。青蘭のところまで飛んでくれ」


 ガブリエルは本意ではなさそうだが、落下する青蘭に急降下で近づいてくれた。

 龍郎がつかまえると、青蘭は失神していた。


 そこへマルコシアスが現れる。ガマ仙人と神父を背に乗せていた。


「すまぬ。遅くなった」

「青蘭をたのむ!」


 気絶した青蘭をマルコシアスの背中に乗せる。龍郎はガブリエルにつかまって、さらに飛んだ。


 快楽の玉をとりもどさなければ。やっと青蘭のもとに戻ってきたのに、また失ってしまった。青蘭の意識がさめれば、どれほど落胆するだろうか。今度こそ心が壊れてしまうかもしれない。


 だがもう、それは少女の体内に入りこんでいた。赤い光が少女の胸のまんなかへ沈んでいく。

 もう一度、あれをとりだすためには胸を裂くしかない。そのとき、さすがに少女は生きていないだろう。

 でも、それはしなければならないこと……。


(すまない。何度も君を傷つける。おれを憎んでくれていい。それでも、おれは青蘭が大切なんだ!)


 降下の勢いのまま、少女の真上に剣をつきだす。

 でも、その必要はなかった。


 龍郎の前で少女が目をひらく。まっすぐに見つめて微笑む。

 そのおもてが、じょじょに黒ずんできた。腕がもげ、足が膝下から崩れおちていく。


「なつき……」


 思ったとおりだ。

 快楽の玉の強烈なパワーに、少女の肉体は耐えられない。受けとめるだけの器としての強度を持たない。


 龍郎の剣がふれるより前に、少女は儚く塵と化した。口元に、かすかな笑みを残して……。

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