第8話 激闘のインスマス その九
「ガブリエル。おろしてくれ。あの子を助けないと」
「敵に情けをかけるのは感心しない。それに、死にかけている」
「そうかもしれないけど、頼む」
ガブリエルは嘆息しつつ、少女のかたわらで着地した。
急いで確認すると、息をしている。溺れてはいない。さほど水を飲んでいるようすもない。ただ、快楽の玉をえぐりだしたことで体に負担がかかっているようだ。
いや、よく見ると、手足のさきなど、端々が壊死を起こしかけている。さっきの戦闘の傷にしては反応が早すぎる。おそらく、戦闘前にすでに、ひそかに進行していたのだ。
快楽の玉の力は強大だ。少女にとっては生来の体内に持たない臓器を一つ余分にとりつけられたようなもの。そのことで体に負荷がかかっていたのかもしれない。
「だいぶ、危ないな。どうしたら助かるんだろう?」
「この娘は実験により人工的に造られた。魂を持たずに生まれた異形だ。万物の創生の理から外れている。助けることはできまい」
「そうかもしれないけど、でも、息をしてる」
「アスモデウスの器として用意されたのだろう? ただの肉のかたまりだ」
ガブリエルはアスモデウスを嫌っているから
「つれていこう。外科的な手術のほうが有効かもしれないし」
「まったくのお荷物だ」
「そうかもしれないけど、たのむよ」
「……しかたないな。スピードは遅くなるが」
龍郎は少女を抱きあげようとした。そのとき、少女の目がひらいていることに気づく。じっと龍郎を見ている。まばたきもしないが、意識はあるのだとわかった。しかしもう二つの玉を通しての共鳴がなくなった。少女が何を言いたいのか伝わってはこない。
(魂はないけど、感情はある。とても原始的なものかもしれないけど)
肉体にそなわる反射神経のようなものなのだろうか?
それとも、生きているだけで魂というものは、あとから生成されていくのだろうか?
龍郎にはよくわからない。
とにかく抱きあげる。
少女は戦闘の役には立たないし、ガブリエルの言うとおり、むしろ守らなければならない対象が増えただけだ。マルコシアスか、せめてフレデリック神父と合流したい。
ちょうど、そんなことを考えていたときだ。
「龍郎」
タイミングよく男の声がした。龍郎は神父だと思い、つい、ふりかえってしまった。
その瞬間、視界いっぱいに広がる信じられないくらいバカでかい顔とぶつかりそうになった。口が接するかどうかというほど、きわめて近い。そのせいで視野のピントがうまくあわず、その顔は膨張して見えた。
でも、それでよかったのだろう。ハッキリ見えないことが幸運だった。
それはなんとも言えず気味の悪い、生理的に嫌悪感をもよおす、ヌルヌルした何かだったから。
それが顔だということは、かろうじてわかった。むしろ、理解できなかったほうが、ここまで不快に感じなかった。人間の美的センスから言えば壊滅的な、しかし、まぎれもなく顔貌だ。
「うわぁーッ!」
思わず叫んだとたん、それはニタリと笑って、龍郎の足をつかんだ。無数にある触手がからみつく。
龍郎はどこか暗い果てへとひきずりこまれた……。
「龍郎! 龍郎ー!」
ガブリエルの声がしだいに遠くなる。その間、わずかに一秒にも満たない。
海中のような、空中のような、ふわふわしたところを通り、やがて、龍郎はそいつの前に立っていた。
目の前に邪神がいる。
クトゥルフ——
まちがいなく、ヤツだ。
漆黒の闇のなか、巨体をゆるゆるとよこたえている。
龍郎に見えるのは、ときおり、どこかからあたる光に、ところどころ反射する鱗のようなもの、妙な突起、吸盤のある触手……そんなものだけ。
暗闇に溶けこんで全体が見えないことを、龍郎は神に感謝すべきだったのかもしれない。
これまでに幾度か、クトゥルフの分身には出会った。そのたびに吐き気のするような見目に耐えた。たぶん、それでさえ、一般人ならひとめ見ただけで発狂していただろうが、苦痛の玉に守られた龍郎には、なんとか耐えきれた。
だが、今回は厳しい。
直視しないよう、龍郎は視線をよこにズラし、目の端でそれをとらえる。
これまで以上にヒドイ代物だと、本能でわかる。
これまでのものは大ダコやイカなど、海棲生物にクトゥルフの意識が憑依したものだった。今回は本体だ。だからこそ、脳髄を破壊する力が圧倒的に強い。
そこにいるだけで狂気を吹きこんでくる……。
そして、途方もなくデカイ。
これまで見た分身は大きくても十数メートルだった。
今のそれは視界に入りきらない。
ズズズ——と地鳴りのような鳴動がとどろいた。触手だ。触手の一本が動いただけで地面がゆれる。
姿勢を低くし、龍郎はバランスを保とうとした。
そのとき、地響きにまじって声が聞こえた。
甘い……うめき?
だが、どこか調律の狂った楽器のような。
それにはイヤというほど覚えがある。
声のするほうをふりあおぐ。
やはり、そうだ。
思ったとおり。
虚空に青蘭が浮かんでいる。
空中浮遊の魔術のようによこたわり、なかば眠っているようだ。
よく見れば自力で浮かんでいるわけではない。両手と両足を太い触手につかまれ、高々と持ちあげられているのだ。
暗闇に白く浮かびあがって見えるのは服のほとんどをまとっていないせい。やぶりとられたように一部がまといついている。
白大理石のようなそのすべらかな両足のあいだで蠢いている触手を見て、龍郎はカッとなった。
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