第4話 スリーピー・ホローの怪異 その六
敵は触手だけで十メートル以上もある巨体だ。
だが、幸いにして、触手が天井いっぱいまで持ちあがれば、床面の根元があらわになる。そのすきを狙い、触手をよこになぎはらう。
触手はブヨブヨして手ごたえがなかった。かんたんに輪切りにできる。
やはり、たやすい。
勝利を楽観したときだ。
ふいに確信はゆらいだ。
切りおとしたばかりの触手がジュクジュクふるえたと思うと、断面が歪み、ニュッと肉が盛りあがる。ニュルニュル伸びて、すぐにも新しい触手になる。
「龍郎さん! 危ない!」
青蘭がロザリオをかかげ、つきさす。一瞬だけ動きが止まったものの、触手には傷もつかない。
「青蘭!」
龍郎は青蘭をかかえて、とびすさった。間一髪で触手の攻撃をさける。二人でかさなったままころがり、壁にあたって止まった。
いや、木箱だ。おそらく、さっき運びこまれた原材料の人魚が入れられているのだろう。龍郎たちがぶつかると、ゴトゴトとゆれ動く。
「青蘭。ケガはない?」
「平気。だけど……」
そう。これは窮地だ。
いつもは退魔の剣が切りさくと、その切り口から浄化の炎がかけめぐり、邪神の体を燃えあがらせた。一刀でも入れば、致命傷をあたえる。だから、楽勝だったのだ。
しかし、今はそうではない。
触手の一本ずつを切りおとしても、またたくまに再生する。龍郎の攻撃がほとんど効いていないということだ。
(なんでだ?)
いや、考えるまでもない。
快楽の玉との共鳴が絶たれているからだ。苦痛の玉は欠けている。完全ではない。欠落していると、本来の力の十分の一も発揮できないと、以前、誰かから聞いた。
これまでは欠けた力を青蘭の快楽の玉に補ってもらっていたのだと、今になって知る。
(どうする? おれの力じゃ、まだ邪神を倒せない。苦痛の玉が完全じゃないと……)
苦痛の玉のカケラは、あと二つ。
その一つはフレデリック神父が持っている。だが、あとの一つは行方不明だ。どこにあり、誰が所持しているのかもわかっていない。
この急場でどうしたらいいのか?
青蘭にアンドロマリウスを呼ばせる?
だが、それでもクトゥルフは倒せないかもしれない。
アンドロマリウスは以前、言っていた。青蘭が悪魔を倒す力そのものは、快楽の玉から得ていると。それを発動させるために、アンドロマリウスとの契約が必要なだけだと。
ということは、今の青蘭にも、邪神を倒す力はない。
進退きわまった。
(逃げるしかない。フレデリックさんには悪いけど)
今は青蘭を守ることが精一杯だと、龍郎が考えたときだ。ゴトゴト音を立てていた木箱から人の声が聞こえた。
「——あけろ! 龍郎、そこにいるんだろ? 私だ。早く、ここから出してくれ!」
信じられない。フレデリック神父だ。苦痛の玉のもう一人の持ちぬし。
龍郎は木箱にとびついた。が、ふたが重い。一人ではあけられない。
「青蘭。手伝ってくれ」
「うん!」
左右にわかれて、ふたを持ちあげようとする。それを見すましたように、触手が大きくふりかぶり、二人の上でうなる。
触手は龍郎を狙っていた。
攻撃してくるイヤなヤツから排除するつもりだろう。
龍郎は木箱をあけるために、いったん退魔の剣を消していた。気を集中して刃を形成しようとするが、まにあわない。
「龍郎さんッ!」
急に青蘭がとびだしてきた。
龍郎の前に立ちふさがるようにして両手をひろげる。
「やめろ! 青蘭!」
青蘭が傷つくのは、自分が苦しむことよりもツライ。片腕をもぎとられるよりも、腹をえぐられるよりも、身体的な痛みをおぼえる。
すると——なぜだろうか?
触手は急に動きを止めた。
そればかりか、やんわりとおりてきて、青蘭の頬から首すじを愛撫するかのように、ヌメヌメと先端でなでた。キュウッと音がするくらいキツく吸いついた吸盤の跡が、青蘭の耳の下あたりに赤く残った。
青蘭がゾッと身ぶるいするのが見てとれる。
龍郎は逆上し、木箱を思いきり、けりあげながら、形をとった剣で切りつけた。
ぶるんとふるえながら、触手はバカにするように床のヒビ割れのなかへ逃げこむ。入れかわりにで龍郎の背後から別の触手が這いだし、素早くムチのように風を切る。
空気のゆれる感触で、龍郎は本能的に跳んだ。
触手は龍郎の足元を狙っていたようだ。すぐ足の下を触手が通りこし、
跳躍でいったんはかわしたものの、龍郎の前方で触手は角度を変えた。ラケットでスマッシュされたようにハタきおとされ、木箱の上に叩きつけられる。木箱のふたがメリメリと悲鳴をあげ、陥没する。
龍郎は衝撃を感じたが、思ったよりもやわらかかった。箱のなかにクッションになるようなものがある。少なくともコンクリートの床に激突するよりは、遥かに痛みをやわらげてくれた。
それもそのはずだ。
木箱のなかには、フレデリック神父が閉じこめられていたのだから。
さっき、あれほど持ちあげるのに苦労した箱が運よくひらいた。
神父は手足をロープで縛られている。が、龍郎のにぎる退魔の剣を両手のあいだに通し、自力でロープから脱出した。
「ずいぶん、乱暴な助けかただな。龍郎」
「単純にアイツにやられただけです。あなたを狙って落っこちてきたわけじゃない」
「君ならラクに倒せるはずだろ?」
「…………」
龍郎の顔を見て、神父は事情を察したようだ。とにかく、ここから逃げだそうという目で、裏口へ向かう廊下へアゴをしゃくる。
二人で箱をとびだすと、直後に触手がふりおろされた。箱は粉々に崩れる。
(クソッ。こんなことなら、ナイアルラトホテップの言うとおり、苦痛の玉のカケラをもっと真剣に集めとくんだった)
木箱をこわした触手がイラだたしげに伸縮し、龍郎たちのほうへ迫る。このままだと、龍郎も神父も巨大な肉塊にプレスされて圧死確実だ。
退魔の剣をつきだすが、切断された触手がそのまま落下してくれば、けっきょくは下敷きになる。
思わず目を閉じたとき、ふうっとため息が聞こえ、剣をにぎる龍郎の手に、誰かの手が重なった。一瞬、青蘭かと思う。これまでもずっと、そうやって二人の力で戦ってきた。
だが、青蘭の手にしてはデカイし、固い。
目をあけると、フレデリック神父が自分の左手を龍郎の右手にふれている。
鼓動が聞こえた。
苦痛の玉の鼓動。
脈動が高まり、いっきに光がほとばしる。
時空を裂く雄叫びが遠のいていった。数十本も蠢いていた触手がすべて消えている。
クトゥルフが去ったのだ。
(苦痛の玉の力が倍増した。手を重ねていたあいだだけ)
やはり、これは一つのものなのだ。玉が渇望していることがわかる。もとの形に戻りたいのだと……。
了
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