第2話 ガストンのねじれた部屋 その二
「しッ。青蘭、ちょっと黙ってみて」
「うん」
龍郎は耳をすました。
ガストンのすすり泣きのむこうに、異様な物音を聞いたような気がした。
「何か聞こえる」
「うん。水音じゃない?」
たしかに、そうかもしれない。
ピトン、ピトンと水のしたたるような音がしている。それに重いものをひきずるような音も。
「…………」
なんだろうか。
イヤな感じがする。
青蘭にかわって佐竹も呼びかけた。
「ヘンリー。なかへ入れてくれないか。ゆるしてくださるとおっしゃっているんだ。最後のチャンスだぞ。もう一度、やりなおしたほうがいい」といった内容を早口の英語で訴えかける。
すると、なかからも、かぼそい英語が応えてきた。
「ソーリー。おれはもうダメだ。なんでこんなことになってしまったんだろう。おれが愚かだった……」
そんなことを言っている。
「佐竹さん。なかで何か起こっているかもしれない。管理人か誰かいないんですか? 鍵をあけてもらうことは?」
ドアの鍵はカードキーのみのようだ。それらしきセンサーがついている。
しかし、鍵を紛失したときのために、必ず予備のキーがどこかにあるはずだ。カードキーだと複写はできないから、簡単に合鍵を作ることはできないものの、最初に不動産屋と契約したときにスペアキーも渡されているはず。
「お待ちください。確認してみます」
そのあと十五分ばかり、佐竹はあちこちへ電話をかけ続けていた。最終的にマンションの管理会社と話をつけたようだ。
「少々、お待ちを。鍵を持ってくるそうです」
それはいいのだが、なんだか室内が静かになってしまった。インターフォンが切れたようだ。
ガストンは無事なのだろうか?
イライラしながら待っていると、ようやく配達人が階下までやってきたらしい。佐竹が電話で呼びだされ、いったんエレベーターへ乗りこんでおりていった。五分後、カードキーを手にして帰ってくる。国際弁護士で共同出資者の佐竹でなければ、この鍵は手に入らなかったに違いない。
立会人として管理会社の男もついてきていた。大柄のアメリカ人だ。青蘭に視線が釘付けになっているが、まあこれは普通の男の反応だ。
「鍵をあけます。よろしいですな?」
佐竹はそう告げると、センサーにカードキーをあてた。頑丈な鋼鉄の扉が音もなくひらく。
そのときすでに不快な感じはしていた。強烈な悪魔の匂い。
(強い。これは……魔王クラスの……)
アルバート・マスコーヴィルだろうか?
彼はアンドロマリウスの細胞から造られた人造の悪魔だ。おそらく能力的にはアンドロマリウスと同等。つまり、魔王だ。
だが、それどころではなかった。
「おい、ヘンリー」
声をかけながら一歩、なかへ入りかけた佐竹弁護士が絶句する。そのまま、ぺたんと腰をぬかした。
「佐竹さん? どうしたんですか?」
胸騒ぎが激しくなる。
龍郎は急いで室内へ入った。
そこで佐竹と同様に硬直する。
いったい、これはなんだ?
こんなことがあるのか?
自分の目に映るものが信じられない。
映画のセットだろうかとさえ思う。
「龍郎さん? なか、どうなってるの?」
龍郎のあとを追ってきた青蘭が背中にぶつかって、うッと声をつまらせる。
管理会社のアメリカ人は雄叫びをあげ、オーマイゴットだかなんだかとわめきちらした。
それほど、これは異常な事態だ。
きっと、以前は豪奢をきわめた室内だったのだろう。
しかし、今、そこがもともと、どんな部屋だったかなんて、まったく知りようがない。
部屋中がねじれている。
まるで頭が雲をつきぬけそうなほどの巨人が両手でしぼったように、すべてが破壊され、室内の中心に一つのかたまりとなり、排泄物のように螺旋を描いていた。絨毯も、カーテンも、スタイリッシュな家具も、柱や床材も、そして人間も。
「ガストン……」
ガストンがとっくに息がないことは見ただけでわかった。体が渦巻きのようになって、平たくかたまりの上に伸ばされている。その上につぶれかけた頭部が乗っかっていた。血の気のない顔色を見れば、半日以上前に死んでいたのではないかと思う。
ねじれたケーキのようなそれから血がしたたり、ピトン、ピトンと音を立てている。
何もかもが人間の仕業ではなかった。
たとえ魔王のせいだとしても、こんなふうに力を行使した現場を見るのは初めてだ。これまで悪魔たちが悪さをするときは、つねに自身の結界のなかに犠牲者を呼びよせてから行っていた。人間に自分たちの存在を知られないように用心してのことではないだろうか。
でも、今のこの部屋のありさまは、まるで——
(宣戦布告だ)
何者かは知らないが、龍郎たちの無力を思い知らせ、嘲笑うために、あえて強大な力を見せつけたように見える。
今日はなんだか普通じゃない。
ノーデンスは現れるし、魔王は暴れるし、急に悪魔たちの動きが活発になった。
「な、な、なんで……ヘンリーは……だって、さっき話していたんじゃ……」
佐竹は自分が見ているものを悪夢だと信じたいかのようにつぶやく。
たしかにインターフォンで話していた人物は英語だった。聞きとりにくかったが、彼をよく知る佐竹がヘンリーの声と認識したのだから、そうだったのだろう。
霊か。あるいはもっと別の現象。
ここでは何もかもねじれている。たとえば、時間も。
あの瞬間には、インターフォンの向こうのガストンは、まだ生きていたのかもしれない。時空を超えて、最期の声を聞かせたのか……。
(アルバート? いや、違う。アルバートはアンドロマリウスと同等の力を持ってはいる。だが、それもこれほどの力じゃない。こんなにも圧倒的な……アルバートには相対したから、それくらいはわかる)
だとしたら、これは何者の仕業だろうか?
了
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