第5話 翼ある蛇 その三



 眼下には雲海がひろがっている。

 雲の上には青空が。

 とくに怪しいものなどない。


「なんだ。見間違いか」


 龍郎は安心して、窓から目を離した。だが、そのとたんに視界の端で何かがチラついた。急いで視線を戻す。そのときにはもう不審なものは見あたらない。


「龍郎さん?」

「ああ……気のせいだったかな?」


 いや、錯覚ではないという確信がある。なんとなく胸がザワザワするのだ。何かがいる。龍郎の胸をさわがすような何かが。

 とは言え、現に目に見えるものはないので、緊張しつつも、ほかにどうすることもできなかった。


 と、そのときだ。

 とつぜん、前のほうで悲鳴があがった。

 龍郎はあわてて声のしたほうへ向かう。身がまえていたので反応は早い。


 キャビンアテンダントが床に尻もちをついて口をパクパクしている。


「どうしましたか?」


 龍郎が声をかけると、ふるえる手でカーテンのかげを示した。どうやらスタッフルームのようだ。

 龍郎は急いで、カーテンに手をかけた。サッとひくと、そこに人が立っている。クルーの誰かなら不思議はない。だが、それは搭乗員ではなかった。


 いや、厳密には人でもなかった。

 白く全身の発光するような美しい少女。

 しかし、そのおもては真珠色の鱗に覆われ、背には一対の翼があった。白銀に輝く翼は天使のようなのに、白いワンピースから現れた肌の部分の多くは鱗で装飾されている。

 その姿はまるで、翼ある蛇だ。


「君は……」


 知っている。

 龍郎はこの少女と幾度か遭遇したことがある。アルバートがまだ黒川水月と名乗っていたころ、彼と行動をともにしていた。アルバートの妹だ。


「君の名前は? アルバートの妹だろ?」


 少女は答えない。答えることができないのかもしれない。彼女は以前も自身の意思がないかのようだった。生まれながらに魂を持っていなかったと、彼女を人工的に造った穂村は語っていた。

 やはり彼女はなのだ。


 龍郎がそう思案したときだ。

 波動を感じた。

 快楽の玉の波動。

 すぐそばにある。


(あっ、この子……)


 まちがいない。

 アルバートの妹であり、青蘭の姉にあたる、アスモデウスの遺伝子から生まれたこの少女の体内に、


 青蘭もそれを感じたようだった。龍郎の背中ごしに少女を見て、悲鳴のような声をあげる。そして、そのままロザリオを手にとびかかっていく。

 もちろん、少女は今の青蘭に太刀打ちできる相手じゃない。攻撃しても、かるくいなされて終わりだろう。


 少女はそれを待ちかねていたようだ。口辺にほんのわずかだが笑みのようなものが刻まれた。


(この子、感情があるのか?)


 そう思ったが、次の瞬間にはそれどころじゃなくなった。

 少女はあきらかに青蘭を殺しに来たのだ。

 少女がうなり声をあげると、両手の指さきから、するどいかぎ爪がとびだした。ちょっとしたナイフくらいはある。その爪で青蘭の胸をえぐろうとする。


 とっさに龍郎は青蘭の腕をとり、自分の背後にひきもどした。もう片方の手で少女の手首をつかむ。


 龍郎の右手が少女にふれると、そこから鼓動が波のように押しよせる。


 ——生きたい!——


 まるで言葉で発されたように、ハッキリと少女のを感じる。


 ——生きたい。わたしだって生きたい!——


 それはほとんど低級な獣に等しい本能的な叫びだった。


(蛇……)


 少女には魂はない。

 だが、意思はある。

 おそらくは快楽の玉を持ったことで、以前はないに等しかった感情が芽生えたのではないだろうか。快楽の玉を通して、それが龍郎には伝わってくる。


 龍郎は念じた。


 ——だから、青蘭を殺すのか? 青蘭のなかにあるアスモデウスの魂を奪うために?——


 ——そう——


 その意思はゆらぎそうになかった。生まれてきたからには誰だって生きたい。その気持ちはわかる。しかし……。


 ——……なら、おれは君を殺す——


 龍郎にとって、もっとも大切なのは青蘭だ。青蘭を生かすためになら修羅にでもなる。たとえ、相手が青蘭の姉でも、ためらわない。


 一瞬、少女の感情に悲しみの色が浮かんだ。少女の本能に近い単純な感情で表せる最大級の複雑な思考のさざなみが、暫時、その表面をさわがせた。


 ——……あなたと生きたかった——


 龍郎に自分を選んでほしかったというのだろうか?

 しかし、それは苦痛の玉との共鳴があるからだ。少女自身の心ではない。

 青蘭がそうであるように。

 青蘭が愛しているのも、苦痛の玉の本来の持ちぬし。

 でも、それでもいい。

 青蘭を守りたいと願うのは、龍郎の本心なのだから。


 龍郎が右手に力をこめると、退魔の剣が形成される。

 青く輝く刃を見て、少女の瞳から感情が消えた。戦う機械となったかのように、かぎ爪で襲いかかってくる。


 左手は龍郎が押さえたままだ。

 右手の五本の指を一つにまとめ、爪を一本のナイフのように強化して、脇腹を下からえぐろうとする。もし突き刺さって、そのまま指を体内でひらかれたら傷口がいっきにひらく。殺傷力の高い攻撃だ。


 龍郎は必死に右手の剣で打ちはらった。固い金属のような音がして、かぎ爪を受けとめる。爪を大きくよこに払うとき、剣の切先が少女の手の甲にあたった。が、焼けない。悪魔なら退魔の剣にふれれば肉が焼ける。少女が魔王クラスの魔力を有しているから——というより……。


(天使、だからか。天使の肉体を浄化することはできないんだ)


 アルバートを攻撃したときは皮膚がただれていた。同じ研究所で造られた卵から生まれた兄妹でも、その組成には違いがある。アルバートは悪魔、妹は天使なのだ。


(青蘭も天使だ。つまり、アルバートだけが魔王の肉体を持って生まれたってことか)


 退魔の剣で祓えない。

 それはこの場での龍郎の劣勢を示している。

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