第5話 翼ある蛇 その四



 しばらく、右手のみでの攻防が続いた。片手をにぎりあっているので、間合いが近い。いつ致命傷を負っても不思議はない体勢だ。


 少女の攻撃をくりだす速度がだんだん速くなる。

 受けきれなくなって、龍郎はつかんでいた少女の手を離した。つきとばすようにして、バックルームから外へ出る。

 そのさい、青蘭のことは背中でかばった。


 客室へ出れば、少しは広くなる。フレデリック神父も気づくだろう。

 そう思ったのに、いつまでたっても少女が追ってこない。剣のさきでカーテンをめくると、なかには人影がなかった。少女が消えている。襲撃に失敗して帰っていったのだろうか?


 いや、違う。

 とうとつにコックピットから激しくさわぐ声が聞こえてきた。機長たちが叫んでいる。英語だが、かなり緊迫した状況であるとわかる。


(そうだ。天使は空間を移動できる。あの子がとつぜん、機体のなかに現れたのも、その力だ。だとしたら——)


 機体の壁を通りぬけて侵入したのだ。同様にコックピットのドアも、少女にとってはあってないようなものだろう。龍郎や青蘭をじかに殺すより、機長たちを殺して飛行機ごと墜落させたほうが容易だと考えたに違いない。


「機長が危ない!」


 龍郎はコックピットにむかって走った。が、当然のことながら鉄の扉には鍵がかかっている。


「あけてください! 機長! 副操縦士!」

「どいて! 龍郎さん!」


 急に青蘭が龍郎を押しのける。ドアノブを両手でにぎりしめると、全身の体重をかけた。信じられないことに、メリメリと音を立てて、ノブがまわった。


 龍郎でさえ、素手で航空機の、それもコックピットのロックがかかったドアをこじあけるなんて不可能だ。人間の力で開閉できる代物じゃない。力というよりは、封印をやぶる能力なのかもしれない。


(青蘭も天使だから、翔ぶ力を持ってるってことか?)


 とにかく、急いで操縦室へかけこんだ。機長は胸から血を流してうめいている。少女は今まさに副操縦士にも、かぎ爪をつきたてようとしていた。


 龍郎が体当たりすると、少女がよろめき、副操縦士は彼女の手から離れる。


 龍郎は少女の心臓めがけて退魔の剣をつきだした。たとえ浄化はできなくても、心臓をつらぬけば肉体的な破壊はできる。

 気合いの一刀だ。あたっていれば確実に少女を倒していた。


 まるでそれを予測したように、少女の姿はかき消えた。水たまりのなかに落とした綿飴のように姿がにじみ、影も形もなくなる。


「逃げられた……」


 今度こそ、あきらめて帰っていったようだ。


 龍郎は腰をぬかしている副操縦士の頬をかるくはたいた。


「大丈夫ですか? 操縦をお願いします」


 コクコクうなずくので、今度は機長のようすを見る。

 胸から血を流してはいるが、まだ脈がある。呼吸もしている。急所を外れているようだ。とは言え、放置しておけば命に危険がある。

 龍郎はドアの陰からのぞいているキャビンアテンダントに気づいて命じた。


「医者をここへ。すぐに治療しないと」


 待つあいだ、傷口を両手で押さえていた。しばらくして医者がやってくる。緊急のオペが必要だと、あたりまえのことを言う。


 どっちみち、すでにボストンの上空まで来ていた。最初の予定どおり、ローガン国際空港へ着陸することになる。


 そのころになって、神父はようすを見にきた。たしかに時間にすれば、わずかに数分のことだが、できれば手助けしてほしかったなと、龍郎は思う。


「悪いな。変な夢を見ていた」

「夢ですか……」

「誰かに呼ばれていた。水音がして……」


 たしかに顔色は悪い。

 ただの夢ならいいのだが。


 あわただしい空の旅は終わった。天候など、他のコンディションは悪くなかったため、副操縦士の操縦で、ぶじに滑走路へ着地した。


「機長は助かりますか?」

「ええ。なんとか。急ぎますので」


 空港に救急車が待っていて、機長はそれに乗せられていった。どうにか救われることを願う。


 しかし、被害は最小限にとどめたものの、青蘭はボロボロ涙をこぼしている。


「あいつが……僕の玉を……僕の——僕の心臓を……」


 以前なら、人間のままでいいじゃないか。二人でいられたら、それでいいと言えた。

 でも、セントラルパークでのあの幻影を見たあとでは、それも言えない。


 人であるということが、青蘭にとって、いかに残酷なことなのかわかった。あんな人生をこれからも何度もくりかえしていくことは、いたたまれない。


 きっと、その身におびる天使の香りが、周囲の人間たちを惑わせるのだ。手に入れたいと思わせたり、そうならないのならいっそ殺したいと考えさせる。あるいは嫉妬のあまり、狂気におちいらせる。


 現に今の青蘭だって、ふつうの人間ならとっくに死んでいるだろうほど過酷な運命を歩んできた。

 そこから青蘭が逃れるすべはないように見える。


「必ず、とりもどそう」


 そう言ってなぐさめるほかなかった。

 でも、もし青蘭が天使として転生したら、龍郎のもとにとどまってくれるのだろうか?

 いや、そのときには龍郎の存在も消えている。

 だとしたら、青蘭はひとりぼっちになってしまう。

 未来永劫、一人でさまよい続けるのだろうか?


 それは、ひどく悲しい幻想だ。




 了

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