第八話 激闘のインスマス

第8話 激闘のインスマス その一



 インスマス——

 またはインスマウスとも訳される。

 ラブクラフトの小説のなかでも、ことに有名な話で、その町の住人は古い昔からクトゥルフを崇拝する奉仕種族だった。クトゥルフの奉仕種族をインスマス人と称するのは、この小説から来ている。


 だが、それは現実に存在する町ではない。


「インスマスじたいは存在しないが、インスマスのとなり町として描かれるアーカムのモデルはセイラムらしい。我々が移動した距離から考えると、セイラムからここにたどりついても不思議はない」

「でも、それは距離の問題であって——」


 すると、ガブリエルが口をはさんだ。


「教会の地下階段をおりているとき、途中でゲートをくぐる感覚があった。おそらく、我々はあのとき次元を飛んだのだろう」

「……ということは?」

「ここはクトゥルフの作る結界のなかだ。あるいはアルバートの」


 つまり、知らず知らずのうちに、悪魔の結界のなかへ呼びこまれてしまっていたというわけだ。


「これが結界? まるで本物の町だ。こんなに広大な結界、今まで見たことがない」

「魔界へ行っただろう? ルリム・シャイコースの結界も」

「そう言えば、あそこも広かったな。でも、あれは地下の閉鎖空間だった。魔界のほうは大勢の魔王が力を出しあって造った共同住宅だし」

「結界はそれを作る者の力が強いほど広く強固になる。ここを作った者がひじょうに強大だということだ」


 クトゥルフがとんでもなく強いのだろうということは、スリーピー・ホローの工場のことで、イヤというほど痛感していた。


 丸々一つの町を結界のなかに作ってしまう敵を相手に、まともに戦えるのだろうか。


 不安になったが、ここまで来たら逃げるわけにはいかなかった。少なくとも、快楽の玉をとりもどすまでは。


「とにかく、あの子を見つけよう。ここが結界なら、あの子もこの町のどこかに来てるはずだ」

「匂いをたどればいい。君たちは得意だろう?」と、ガブリエルは言うものの、少女の気配はまったくつかめない。


「おれは青蘭ほど悪魔の匂いに敏感じゃないんだ。それに、あの子は悪魔というより天使の匂いがする」


 ガブリエルや青蘭がそばにいるから、ほかの天使の匂いをかぎとることはまず不可能だ。まぎれてしまって、少女の匂いを特定できない。


 やみくもに歩きまわっても発見できるとは思えないし、困りはてていると、ガマ仙人が目を覚ましてきた。


「はて、ここは懐かしき匂いのする地よのう。大いなるものがおる」

「ガマ仙人。わかりますか?」

「うむ。もちろんじゃ。血が脈打つ。あそこにおるのう」


 ガマ仙人が水かきのある手で示したのは、沖合いの岩礁だ。

 龍郎だって、邪神と戦うようになってから、あわててクトゥルフ神話は読んだ。うろおぼえだが、『インスマスの影』のなかで、クトゥルフがいたのは沖の岩礁を越えた海底あたりだ。


「海底まで行かないと戦えないのかな?」


 スキューバダイビングでもしろと言うのだろうか。

 考えていると、ガマ仙人が今度は町の中心部のひときわ大きな建物を指さした。


「あっちからは蛇の匂いがするのう」

「えっ? ほんとですか?」


 龍郎たちは今、クトゥルフと戦いたいわけではない。いや、いつかは倒さなければならないが、今はそれよりアルバートやその妹を探し、快楽の玉をとりもどしたいのだ。何よりもそれが優先だ。


「蛇……きっとアルバートだ。そこへ行ってみよう」


 古い映画に出てきそうな歴史的な建物のあいだを通っていく。ガンマンが早撃ちの決闘をしそうなバーや、水車のついた粉ひき小屋。石造りの橋。重厚な建物は銀行か役所だろうか。


 あいかわらず無人としか思えないほど人の気配がない。しかし、それでいて、どこからか何者かのうなるような重低音が耳の底にとどろく。


 住人はあいかわらず姿を見せない。しきりに奉仕種族を作っているのに、結界のなかに住まわせてはいないのか。いや、さっき一瞬だが人影があった。いるにはいるのだ。きっと、龍郎たち侵入者のようすを遠くからうかがっている。


 ひなびた町並み。

 ときおり空き地もあるが、おおむね、二階建てくらいの住宅が続く。道路は碁盤目状だ。

 中心部にある大きな建物は教会のようだ。


「また教会だ」


 近づいていくと、セイラムの町で見たのとまったく同じ外観だった。レンガ造りの薄気味悪い教会。


 龍郎は表の両扉に手をかけた。施錠されているわけでもなく、難なくひらく。

 セイラムのときと同様に採光にとぼしい薄暗い内部。

 ただ一つ違うところがあった。祭壇の前に人が立っている。


 あの少女。

 背中に白い翼と、全身に真珠色の鱗を持つ、翼ある蛇。

 そうだ。たしか、アルバートが『なつき』と呼んでいた。


 少女は扉の前に立つ龍郎を、つかのま、悲しげな瞳で見つめた。二人のあいだの距離はかなりあったが、なぜか龍郎にはそれが見えた。苦痛の玉、快楽の玉の共鳴が彼女の感情を運んでくるせいかもしれない。


 しかし、それはほんの一瞬だった。

 少女も戦うつもりで待っていたのだ。戦いになれば、もう容赦はしない。おたがいに。それがわかっているから、寸刻、感傷の残滓にひたったのだ。


 言葉はいらなかった。

 次の瞬間、少女の身長が天井の高さまで伸びた。ワンピースのスカートの下から長い胴体がのぞいている。

 大蛇だ。

 蛇神の本性をあらわにしてきた。

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