第8話 激闘のインスマス その三
龍郎の剣が少女の腹の下側をつらぬいた瞬間、快楽の玉が反応した。
泣いている。
正しい居場所に戻りたがっている。
快楽の玉の泣きむせぶ声が波動となって伝わった。
——おまえはアスモデウスの心臓だ。だったら、青蘭を苦しめるな。頼む。
苦痛の玉を通して語りかける。
それがアスモデウスの心そのものであるかのように、快楽の玉は龍郎の意思に従った。
少女の変化が瞬時に解ける。蛇のような髪ももとにもどり、毒霧は晴れた。大蛇のような少女の下半身が消えていく。
「そうか。大蛇の姿は、快楽の玉のなかに封じられたアンドロマリウスの力か」
少女は背中の翼をはばたかせ、どうにか床に着地する。腹部の四カ所から出血していた。うめき声をあげながら、なんとか立ちあがろうとする。が、もう戦う力がないことはひとめでわかる。
「マルコシアス! おろして」
青蘭が叫び、マルコシアスはようやく降下した。
つまさきが床についたとたん、青蘭は走りだし、少女の体を足げにした。傷口を押さえる少女の手をふみつける。
そんな青蘭を初めて見た。
怖いほど冷酷な目をしている。
たとえ悪魔を倒すときでも、復讐や暴力衝動にかられることなく、これまではつねに冷静だったのに。
「返せッ! 僕のものだ!」
青蘭はガブリエルから受けとった短剣をにぎり、少女の胸にふりおろす。
そこに快楽の玉があることを知っている動きだ。本来の持ちぬしである青蘭には、その正確な場所を感じとれるのだろう。
とっさに龍郎は青蘭の手をにぎり、ひきとめた。
「龍郎さんッ? なんでジャマするの?」
青蘭の声が裏返っている。
相手が龍郎であることも忘れて、美しいおもてを憎しみでゆがめた。
「その子のほうが大事なの? 僕のことはもうどうでもいいの?」
「そうじゃないよ。おれがやる」
青蘭にこんな顔をさせたくない。憎悪のままに相手の命を奪うようなマネを。
もしも、それをしてしまうと、青蘭のなかで何かが変わってしまいそうで怖かった。
龍郎が断言すると、青蘭の表情がやわらぐ。龍郎はうなずきかけ、青蘭の手から天使のナイフを受けとった。
ほんとは龍郎だって、こんなことはしたくない。快楽の玉をとりだせば、今度は少女のほうが魂のない、もとの状態に戻る。人形のように動かない肉体だけのぬけがらだ。
——やめて。
声が聞こえた。
少女の両眼から涙がこぼれおちてくる。
それでも、やめるわけにはいかない。
——ごめん。
青蘭か、少女か、どちらか一人しか選ぶことができないのなら、答えは決まっている。
龍郎は右手で少女の胸をさぐり、快楽の玉の位置をたしかめた。指さきがふれただけで、ドクン、ドクンと熱く脈打つ場所がある。
さっき、その泣き声が聞こえた。
快楽の玉——
スッとナイフをさしこみ、切り口に右手の指を数本つっこむ。丸い玉がふれた。まるでふれあうことを喜ぶように、龍郎の指に吸いついてくる。
少女の体内から、ゆっくりと現れる、血のように真紅の玉……。
「青蘭。これは君のものだ」
さしだすと、それは光を帯び、自然に青蘭の腹部へと入りこんでいった。
青蘭は恍惚の表情でうめき声をもらす。生まれつきの造作も美しいが、快楽の玉を宿すと、ますますその美貌が艶麗に輝く。
歓喜のあまりだろうか。
青蘭のまなじりからも涙があふれた。
「龍郎さん……」
「青蘭」
よかった。
青蘭のおもてに笑みがもどった。
青蘭に修羅のような顔は似合わない。いつも、いつでも、幸福に微笑んでいてほしい。
それが龍郎のただ一つの願いだ。
抱きあう二人の足元で、快楽の玉を失った少女は、身動きしなくなった。呼吸が止まったわけではないようだ。かすかだが胸は上下している。以前の彼女に戻ったのだ。
龍郎は鞄からガーゼと包帯をとりだした。傷口を押さえ、簡易だが応急処置をしておく。
「龍郎さん。そんなやつ、ほっとけばいいのに。生きてたら、また僕を狙ってくるよ。トドメを刺したほうがよくない?」
「この子自身は動けないよ。狙ってくるとしたら、アルバートだ」
アルバートのことは許せない。きちんと決着をつけなければならない。だが、少女に罪はない。
それにしても、肝心のアルバートはどこにいるのだろうか?
「変だな。この子が危地に立っても、まったく姿を見せない。アルバートにとって一番大切な人のはずなのに」
少なくとも龍郎が青蘭のピンチを見ていれば、必ず助けに行く。出てこられなかったということは、アルバートはここにいないということだろうか。
「おい。快楽の玉をとりもどしたのだから、一刻も早く、ここから出るぞ」と、思案に沈む龍郎をガブリエルの声がさます。
アルバートを倒していないことが心残りだが、不在ならばいたしかたない。
そう思っていたやさき、外から神父がかけこんできた。
「大変だ!」
「フレデリックさん。どうかしましたか?」
「外を見ろ」
「外?」
アルバートがこの場にかけつけてきたのかもしれないと思い、急いで窓から外をのぞく。
愕然とした。
窓の外にズラリと人が立っている。いや、人のように服をまとっているものの、人間ではない。よく見れば、それは人魚。インスマス人だ。
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