第九話 迷夢
第9話 迷夢 その一
クトゥルフが去り、あたりは異様なほどの静寂に包まれた。
いや、これがふつうなのだ。邪神の毒々しさがあまりにも強烈だったため、それがなくなることによって平穏を得た精神が、邪気の不在を静けさのように感じる。
それほどに禍々しく歪曲した瘴気だった。
ようやく息がつけたようすで、ガブリエルやマルコシアスたちが近よってくる。
「龍郎殿ぉー。青蘭殿ぉー。ご無事で何よりじゃった。よくぞ大いなるものを退けられたぞよ」
マルコシアスの背中からガマ仙人が手をふっている。戦闘の役には立たないが、癒される。つれてきてよかった。
「退けた? 倒したのではないのか?」と言ったのは神父だ。
ゲートを感じることのできるガブリエルはかすかに首をふっている。
「最後の瞬間に逃亡したようだな? 龍郎」
たずねられたが、なんと答えていいのか、龍郎は迷った。確信はないが、次元をつらぬいたときの感覚がまだ残っている。
「ヤツは本体じゃなかった。ここにいたのは偽物だ。本体はいくつもの次元の彼方にいた」
そして、その本体が苦痛の玉のカケラを持っていた……が、それは胸の内にとどめておく。
「そうだったのか。しかし、ただの分身にしては強すぎた。古代の戦のときにも、あれほど苛烈な邪気を感じたことはなかった」
「それは……」
その理由を、龍郎は知っている気がする。
「……とにかく、ここから逃げだそう。ここはどこだろう?」
洞窟のようだ。
まだ沖の岩礁の内部だろうか?
「ゲートがある」と、ガブリエルが断言した。
「以前の位置に戻っている。おそらく、分身が傷ついたことで、ゲートを隠蔽するだけの余力がヤツに残っていないのだ。今なら脱出できる」
龍郎には感じられないが、飛翔できる者には容易にわかるものらしい。マルコシアスばかりか、青蘭もうなずいた。
「洞窟の遠いところから光がさしこんでる。あれかな?」
ガブリエルは小憎らしそうな目で、青蘭をにらんだ。天使の能力をとりもどしていく双子の片割れが忌々しいのだろう。どうやら大天使ミカエルをはさんで三角関係だったらしいから、なおさらなのかもしれない。
龍郎はあえて明るい声を出した。
「えーと、じゃあ、そこにむかって進もう。今のうちに逃げるんだ」
「いいとも。私が導いてあげよう」
「いらないよ。僕だってわかる!」
両側から、色違いのビスクドールみたいな、とびっきりの美青年に腕をつかまれ、重い空気がズッシリ両肩にのしかかってくる。
邪神とは違う緊迫感……。
「せ……青蘭はどこも痛くないの? アイツに快楽の玉、むしられてたけど」
「今はもう痛くない」
「そうか。ならいいけど」
快楽の玉が青蘭のケガを治してくれたようだ。これなら移動することに問題はない。
龍郎たちは天井の高い暗闇のなかを進んでいく。
鍾乳洞のようだが、ところどころ海水が入りこんでいる。海岸付近の岩場のように、油断すると大きな穴のなかに落ちてしまいそうだ。
そればかりではない。洞窟のなかは最果てがないのかと思えるほど、行くさきざきで枝わかれしていた。むやみに進むと完全に自分の居場所がわからなくなる。
「あっ、ダメだ。ゲートの方向はこっちなんだけど、壁だね」
「うーん。まわりこんで行くしかないか。それにしても、なんでこの結界は消えないんだろう? ふつうはそれを作ったぬしを倒せば結界も消える」
答えたのは、ガブリエルだ。
「結界を作った者がまだいるからだ」
やはり、そうだ。
クトゥルフは倒した。しかし、クトゥルフと組んでいるはずのアルバートには、まだ一度も出会っていない。彼はこの世界のどこかにいるのだ。
暗闇のなかをさまよう。
鍾乳石と石筍がぶつかって柱になったものが広い空間に点在するホールのような場所に出た。この一つ一つの分岐点を試してみなければならないと思うと気が滅入る。
このまま、一生、このなかをさまよい続けなければならないのだろうか?
「こっちは?」
「ダメ。袋小路」
「じゃあ、次は反対に行ってみよう」
「待って。龍郎さん。僕、疲れたよ。もう歩けない」
地下迷宮のなかに閉じこめられて、すでに数時間。青蘭が疲れはてるのも当然だ。
「私が乗せてやろう。乗るがよい」と、マルコシアスが言うので、青蘭は魔王の背中にすわりこむ。
「清美さんが言ってた長丁場って、この迷路のことだったかな」
「おなか減ったよ。清美のプリンが食べたい」
「ごめん。プリンはないけど、チョコレートならあるよ」
しかたないので、しばらく休むことにした。青蘭は荷物をなくしてしまっているので、龍郎と神父が飲み物やお菓子を提供する。
物欲しそうな目をしているので、ガマ仙人とマルコシアスにもわけあたえた。すると、気をよくしたガマ仙人が板チョコをバリバリかじりながら言った。
「龍郎殿。清美殿から、これを預かってまいった。困ったときに用いよと申しつかっておる」
着物の袖から出してみせたのは、ガラケーだ。
「そういえば、清美さんはスマホとガラケーの二台持ちだったっけ」
しかし、海中を通ってきたガラケーが使えるのだろうか?
疑わしく思いつつ、龍郎は渡された携帯を手にとった。ポチポチとボタンを押すと、なんと、通じる。
「ああ、はいはい。キヨミンですよ〜。待ってました」
暗い地下にはそぐわない、やけに明るい清美の声。
「このガラケー、防水ですか?」
「まさか。これは地元の友達と長話するときのための携帯です」
「じゃあ、なんで今、つながったんですか? これ、海水につかったはずなんですが」
ふふふと清美は変な笑いかたをする。
ほぼ半日の時差があるから、むこうは真っ昼間なのだろうか? だからこんなに元気がありあまっているのか……。
そんなふうに考えていたのだが、返ってきた答えは意外なものだった。
「龍郎さん。前にも魔界に行ってたとき、わたしと電話がつながりましたよね? つまり、そういうことですよ——もうわかりますよね?」
「清美さんと電話が……」
もしかして、ルリム・シャイコースの世界へ行ったときのことだろうか?
たしかに、あのとき、清美から電話がかかってきて助言してくれた。しかし、あのときは清美が夢巫女の力で、龍郎の睡眠中の意識に語りかけてきたから……。
「なッ……まさか?」
「そうです。そのまさかです」
「でも、そんなバカな……」
「クトゥルフって、人間に夢を見せてあやつるらしいんですよ」
夢を見せ、あやつる——
「そうか。おれはずっと……」
ぼうぜんとしつつも確信する。
そうだ。まちがいない。
そう考えれば、いろいろと納得できる。
「おれは……夢を見ていたんだ」
気づいたとたん、世界がゆれた。
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