第8話 激闘のインスマス その十一



 少女の体が焼けた紙のように消えたあと、一瞬、声が聞こえた。


 ——さよなら。龍郎……。


 龍郎は何度も、なつきを殺そうとした。青蘭を守るために。二人の利害は相反していた。

 それなのに、なぜ、少女はこんなにも純粋に龍郎を慕ってくれたのだろうか。

 龍郎にはそれが不思議でならない。


 人形のような体に閉じこめられた不自由な生涯のなかで、恋することは唯一、少女にとっての憧れだったのだろうか?

 それとも、少女もまたアスモデウスの一部だったのか?

 これまで大勢の人間に幾度も幾度もくりかえし転生してきたように、そのなかの一つのアスモデウスの生だったのかもしれない。


 だとしたら、少女もまた“青蘭”だった。

 同じ一人の生の表現体の違いにすぎなかった。


(もっと優しくしていればよかった……)


 何をどうやっても共存は難しい相手だったが、それでも後悔の念がやまない。


 しかし、考えこんでいる時間はなかった。

 入れ物を失った快楽の玉は、まっすぐに青蘭にむかって飛んでくる。やはり、玉じたいに意思がある。青蘭のなかにあるアスモデウスの魂に呼びよせられているのだ。


 アスモデウスの心臓——


 真紅の光を放ち、キラキラときらめきながら、それは青蘭の体内へと還った。


 青蘭の長いまつげが数度またたき、魅惑的な瑠璃色の瞳を現す。


「龍郎さん」


 ギュッと龍郎の胸にしがみついてくる。


 青蘭の全身が赤く輝いていた。愉悦の光だ。本来の持ちぬしのもとへ帰ってきたことに、快楽の玉が喜んでいる。

 龍郎の放つ青白い光と赤い光がからみあい、膨大なエネルギーがこみあげてきた。


 いつのまにか、ガブリエルの手が離れている。天使の彼でさえ、苦痛の玉と快楽の玉が共鳴したときの輝きには、まともに向きあえないのかもしれない。それほどに強い浄化の光だ。


 ガブリエルに支えられていないのに、龍郎は空中に浮かんだままだった。


(二つの玉の力?)


 いや、青蘭の背中にうっすらとだが翼が見える。

 光でできた翼。肉体的には持たないが、能力的には、やはり青蘭も天使の力を有している。天使の飛翔の力を。


「龍郎さん。今なら、やれるね」

「ああ。行こう」


 天使の剣を二人でにぎりしめる。息はピッタリだ。

 クトゥルフに、まっすぐ剣をつきおろす。


 無数の赤黒い糸ミミズのようなものが絶えず出入りしている不気味な眼球に、刃をつきたてた。片目だけでも龍郎たち二人より巨大だが、どまんなかをつらぬいた。

 ギャアアアアーッという甲高い音波があたりじゅうをゆるがし、緑色の何かがビュービュー噴きあげる。


 無数の触手がやみくもに襲ってきた。一度に数百だ。いや、それ以上。通常なら、いくら龍郎が剣の達人でも、とうてい、すべてを切りふせることなどできなかった。


 だが、今ならできる。

 これまでも苦痛の玉と快楽の玉は共鳴して強い力をもたらした。今はいつも以上にその力が強い。強烈な、酔うような力の奔流。

 そして、天使の剣。

 すべての好条件がそろっていた。龍郎が剣をひとふりしただけで、数十本の触手がポロポロ落ちる。切りすてても、切りすてても、数えきれない触手が虫のように押しよせる。それもすべて剣圧だけで切りはらう。


 ——よし。やろう。ヤツを倒す!

 ——うん。やろう。


 二人の意識が溶けあい、一つに融合していた。まるで、元来、一個の存在だったかのように、どこからが自分で、どこからが青蘭なのかもわからない。


 龍郎が右に移動したいと思えば、指示するわけでもなく、自然に青蘭がそこまで飛んでいく。


 きっと二つの心臓が重なったときの感覚は、こんな感じなのだろう。

 もしそうなら、とても幸福だ。

 愛する人と、切り離すことのできない完璧な“一”になる。

 これ以上の至福があるだろうか?


 青蘭がそれを望むのは、しかたのないことだ。

 それほどまでに愛したミカエルと、一つの存在になりたいと願うことは……。


 迫りくる触手の勢いが弱まってきた。さしもの再生力に、かげりが見える。攻撃の間隔がゆるやかになる。動きも、のろい。

 クルクルと踊るようにかわしながら、龍郎は青蘭とともに、巨魁きょかいのふところにつっこんでいく。


 二人を包むまばゆい光球がふれるだけで、クトゥルフはふるえる。ザワザワと表面をゴカイのような何かが波のように退いていく。


 天使の剣を鍔元つばもとまで突きとおす。

 次元をつらぬいて、の本体のいる世界まで衝撃が走った。いくつもの空間の層を退魔の光が焼きつくす。


 その瞬間、たしかに龍郎は見た。クトゥルフの真の姿。そして、その内深くに巧みに隠された、かすかな輝きを。


(ある!)


 苦痛の玉のカケラだ。

 最後の一つのカケラが、そこにある!


(苦痛の玉のカケラを持ってるのは、クトゥルフかッ!)


 そのカケラをとりだそうとした。が、そのときには、クトゥルフの気配は去っていた。

 邪神は勝負を放棄した。

 まだ、決戦のときではないと判断したのだ。

 ヤツにはまだ切り札が残っているのかもしれない。出なおして、勝機をうかがう算段だ。


「……行ったな」

「うん。もう、ここにはいない」


 空気が清浄にもどり、狂気のゆらめきが消えた。

 なんとか打ち勝つことができた。少なくとも今は……。




 了

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