第1話 セントラルパークの悪魔 その三



 なんだか急にあたりが薄暗くなってきた。まだ日がかげるころではないはずだが、歩きまわっているうちに思いのほか時間が経っていたのだろうか。


 間近で見ると、ほんとに古い。中世に迷いこんでしまったかのように思える。周囲に観光客の姿もない。


「もしかして穴場なのかな?」

「二人きりだね。貸し切りみたい」


 青蘭がはしゃいでいるから、よしとして、龍郎は古城のなかへ入った。正面の大きな両扉はあけっぱなしになっている。観覧受付のようなものはない。無料で拝観できるようだ。


 グーグルで手早く調べてみると、ベルヴェデーレ城というお城が園内にあるらしい。おそらく、それだろう。


「展望台があるんだってさ。行ってみよう」

「うん……」


 なかへ入ると広いホールがあった。西洋のお城でよく見る大理石のチェッカーの床だ。白と黒が交互に配置された市松模様。正面にホールをかこむように両側に広がる大階段がある。そのよこの壁には、いかめしい顔つきの貴婦人の肖像画が飾られていた。


「……なんか、本物の貴族のお城みたいだな」

「龍郎さん。なんだか変な感じがする」

「そうだね」


 急にあたりが冷んやりした。薄手のコートでは寒いくらい。


 すると、奥から悲鳴のようなものが聞こえてきた。それも、食器を足の小指の上に落としちゃったよ、と言ったていどの苦痛ではないようだ。かなり深刻な……それこそ拷問にでもあっているかのような叫び……。


 龍郎は青蘭と顔を見あわせる。


「聞こえた?」

「聞こえた。殺されそうになってる人がいる」

「だよね」


 大都市のまんなかの憩いの公園で、聞くとは思われないたぐいの声だ。

 用心しながら、龍郎は声のしたほうに近づいていった。もしかしたら何かのアトラクションかもしれないと願いながら。


「……こっちのほうだったよね?」


 大階段のわきにある廊下が奥へとつながっている。そこを歩いていくと、また悲鳴が響く。背筋がゾワゾワする。ただごとじゃない。人間が生きながらバラバラにされているときの苦悶の声だ。


 同時に匂いも強くなった。

 血の匂いにまじって、ハッキリと悪魔のそれが漂う。


 廊下のさきに木の扉があった。鉄格子の小窓がついていて、なかをのぞくと暗い室内になっている。その奥から異質な匂いがする。


「青蘭……」

「うん。いるね。嫉妬の悪魔だ」


 イヤな予感しかしないが、思いきって、龍郎は扉をあけた。鍵はかかっていない。ギイッと恨めしいほど派手に軋みながら、扉はひらく。


 ツンと鼻をつく匂い。

 肉の焦げる匂いだ。それに、大量の鉄サビのような……血の匂い。


 ギャアーッと獣の雄叫びのような悲鳴が、弱々しいくせに、やけにくっきりと耳に突き刺さる。


 室内はまるで屠殺場だ。

 床が血でぬれている。壁や天井にまで返り血がはねあがり、どす黒く変色している。


 天井に滑車がとりつけられていた。滑車に通したロープに人間がくくりつけられ、ぶらさがっている。その真下には、おそらく油だろう。大鍋いっぱいに煮えたぎって泡立っている。


 くくりつけられているのは、もう男だか女だかもわからない。全身が焼けただれている。真っ赤に肉がただれ、すでに生きているとは思えない。


「な、なんだ……これ……」


 これじゃまるきり中世だ。

 拷問の現場である。


 ロープをにぎっているのは数人のシスターで、どれも嫉妬に狂った目をしていた。

 もっとも権威のあるらしいシスターが、一人だけ油の煮える大鍋の手前に立ち、詰問していた。


「さあ、正直に言いなさい。あなたは魔女ですね? 淫欲の悪魔アスモデウスに取り憑かれた魔女です」


 ふいに、龍郎の腕のなかで、青蘭がよろめいた。龍郎の胸にもたれかかり、自分の足では立っていられないほど脱力している。


「青蘭。大丈夫か?」

「……イヤ。見たくない」


 青蘭の双眸から大粒の涙がこぼれおちてくる。小鳥のようにおびえる。


 龍郎は悟った。

 これは、過去の青蘭だ。

 青蘭は何度も人として転生をくりかえしている。そのあいだ、ほとんどは不遇をかこち、無残な死にかたをしたのだと、アンドロマリウスが語っていた。


(いつの時代の青蘭かわからない。魔女狩りの餌食にされて……)


 おそらくはそのあまりの美貌が、女たちの嫉妬を買ったせいだ。言われない罪を受け、残忍すぎる責め苦を負わされ、息絶えた……。

 青蘭はそのときの痛みを思いだしたようにふるえている。


「イヤ……もうこんなふうに生きるのはイヤ。僕は天使……天使に戻るんだ」


 だからなのか。

 龍郎は、青蘭が永遠のように長い歳月を孤独にさまよってきたことはわかっているつもりだった。でも、それはやはり、真の意味での理解ではなかったのだ。

 人間の儚い生を何万回、何百万回と流転しながら、そのたびにこれほどの苦痛や苦悶にさらされていたのだということを。

 青蘭がもう二度と人間の生を続けたくない、天使に戻りたいと強く望むのは、当然のこと。


 青蘭にとっては、今の生はさほど重要じゃない。これからさき、未来永劫のほうが、はるかに大切なのだと、このときやっと実感を持って認識できた。


(だから、快楽の玉が必要なんだ)


 龍郎は腕のなかでふるえる青蘭を見つめた。

 青蘭を助けるためだったとは言え、ルリムとかわした取り引きは、青蘭には龍郎の裏切り行為としか思えないだろうと考えながら。

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