第1話 セントラルパークの悪魔 その四



 油のはねる音と肉の焦げる匂いが鼻を打つ。くぐもった悲鳴が、もはやが瀕死であることを告げている。


 龍郎は目の前でくりひろげられる惨劇に我慢ならなくなった。

 陰湿に笑いながら、過去の青蘭をしつように大鍋に突き落とす女たちを見て、龍郎は全身の血が熱くなるのを感じた。


「青蘭。ここにいて」


 龍郎が念をこめると、右手に青白い刀身が現れる。退魔の剣。苦痛の玉の魔を滅する形態。


 声にならない叫びをあげ、龍郎はシスターたちのなかへ切りこんだ。

 一同に命令していた女の首を一刀で切断する。キャーキャーと女たちがわめき、ロープを手放して逃げまどう。生きているのかどうかもわからないが、過去の青蘭は当然、また鍋にむかって落下する。


 龍郎はその体が鍋に落ちる前に受けとめた。焼けただれて無残な残骸となった青蘭。血と焦げた匂いのなかに、ほのかに天使の香りがかぎとれた。


「……ごめん。おれは、いつも遅い。君を守れない」


 この青蘭も、ほかの青蘭も、どの時代の青蘭も、すべて救うことができたら、どんなによかっただろう。

 今からでもそうできるのなら、龍郎の持つ何をさしだしてもいいのに。


 焦げた肉塊となった、過去の青蘭のつぶれた目から涙がすべりおちた。


「ミカ……君なの?」


 信じられないことに、まだ生きている。


「青蘭……」

「…………」


 ハッキリとは聞こえなかった。

 誰かの名を呼んだようだった。

 その瞬間に腕のなかの体が重くなる。命の火が消えたことを悟った。


「くそッ!」


 龍郎は怒りに燃えて、逃げまどう嫉妬の悪魔どもをまとめて切りふせた。どれもこれも退魔の剣で裂かれると、青く燃えて塵となる。


「魔女はおまえたちのほうじゃないか!」


 女たちは消えた。

 しかし、あたりの景色は戻らない。あいかわらず過去の幻影のなかだ。


 すると、いつのまにか、龍郎のとなりに人影が立っていた。


「ここはアスモデウスの記憶の世界だ。青蘭の心が不安定になっておるので、幻影を呼びやすい」


 驚いてよこを見ると、さっきのホームレスの老人だった。

 汚いかっこうをしたヒゲも髪もぼうぼうの老人。

 だが、間近なせいで、髪のあいだから目が見える。その目には深い叡智が宿っていた。


(人間じゃない)


 それはもう、ひとめでわかる。

 人ではない存在。

 だからと言って、悪しきものとも見えない。なんというか、たいていの人がサンタクロースを見て感じる大いなる安らぎのようなものを発散している。


「あなたは、何者ですか?」


 たずねたが、老人はそれには答えなかった。うずくまる現在いまの青蘭に話しかける。


「アスモデウス。これはそなたの望んだこと。わしは引き止めたではないか。それをふりきって、そなたは旅立った」


 青蘭はぼんやりした目で老人を見あげる。なぜか自然なようすで応えていた。


「……わかっています。わたしは楽園にとどまることもできた。でも、わたしのつがいの相手は、ミカエルしかいない。ほかの誰かとなんて考えられない」

「つらい道だと諭したぞ?」

「はい。それでも……」

「では、自身の使命を思いだすのだな」

「わたしの使命……」


 青蘭の気持ちが落ちついたからだろうか。

 急にあたりの風景が歪む。

 蒸気でくもったガラスから水滴が流れおち、その向こうが鮮明に見えてくるかのように、幻影が溶けていく。


 気づいたとき、龍郎たちは石の城のなかにいた。ただし、さっきまでの暗鬱な中世の城ではない。もっと清潔で最近に造った生活感の感じられない建物だ。そう。テーマパークのような。

 同時に周囲にたくさんの人が現れた。いや、もともと彼らはそこにいたのだろう。

 現実のベルヴェデーレ城に戻ってきたのだ。


 老人はいなくなっていた。

 あれはいったい何者だったのか。

 まるで青蘭を——アスモデウスを知っているような口ぶりだった。


「青蘭。大丈夫?」


 青蘭の顔色はまだ青い。が、瞳のなかに少し力が宿っている。

 使命……おそらくはアスモデウスが神から受けたという密命のことか。


(使命を思いだせと言った、あの老人。だとしたら、あれこそが……)


 アスモデウスたちの仕える神とはジーザスのことではない。ノーデンスだ。天使たちの生みの親であり、北欧神話のオーディーンのことでもあると、マダム・グレモリーは言っていた。


(あれがノーデンスなら、彼が天使を使って何をするつもりなのか問いただすことができたのに)


 龍郎はあわてて周囲を見まわしたが、もちろん、今さら見つかるわけもない。


 屋上へ行けば展望台があるようだが、観光気分ではなくなっていた。

 城内を歩きまわる観光客の流れに逆行して外へ出た。


「あッ! あそこ!」


 信じられないが、まだいた。

 ノーデンスだ。

 あの小汚い老人がいくつも袋を持ってウロウロしている。

 龍郎は急いで老人のもとへ走りよった。


「待って。龍郎さん」


 青蘭の声も聞かず、龍郎は老人にかけよると、その肩に手をかけ、ふりむかせた。


「ノーデンス!」


 しかし、かえりみた老人の目には、あの叡智の光はなかった。


(違う……ノーデンスじゃない)


 これはただの人間だ。

 姿形は似ているが、幻影のなかに現れたあの存在ではなかった。

 ノーデンスが老人の体を借りたのか、あるいはもともと幻にすぎなかったのか……。


 神は去った、ということだろう。


 老人は何かしゃべっていたが、龍郎はもう聞いていなかった。


 少なくとも、一つだけわかったことがある。

 ノーデンスの密命は、まだ続いているということだ。

 アスモデウスは堕天してもなお、ノーデンスの支配下に置かれている。




 了

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