第1話 セントラルパークの悪魔 その二
ヘンリーからアルバート・マスコーヴィル——龍郎にとっては黒川水月と言ったほうがしっくりくる相手の居場所をつかむことができれば、快楽の玉をとりもどせるかもしれない。
少なくとも何か手がかりがあれば。
佐竹弁護士にヘンリーとの橋渡しを頼み、龍郎と青蘭はファームをあとにした。
「青蘭。お腹へらない? カフェでも行こうか?」
「うん……」
「佐竹さんから報告があるまで、ニューヨーク観光してようか?」
「うん……」
ダメだ。何を言っても元気がない。
今の青蘭には活気のある場所を歩きまわるゆとりはないようだ。
「そうだ。この近くにセントラルパークがあったね。広い公園のなかなら、のんびりできるよ。なかに屋台やカフェもあるって話だし、行ってみよう」
「そうだね」
青蘭がちょっとだけニコリとしたので、龍郎は胸が弾んだ。青蘭の笑顔にはこれほどの力があるのに、どうしてそれだけではいけないのだろう。
快楽の玉と苦痛の玉、二つの玉を重ね、新たな天使を誕生させること——それが、そんなにも大事なことなのだろうか? 少なくとも青蘭にとっては、自身の命よりも重要らしい。
(おれは、ずっと青蘭に生きて、そばにいてほしいけど……)
公園じたいにはすぐに入れた。しかし、なかは思っていた以上に広大だ。日本人の思う公園の広さじゃない。あとで調べたら東京ドーム七十個ぶんの敷地とのことだった。ニューヨーカーがジョギングやサイクリングをしているイメージだが、自転車に乗って移動するくらいがちょうどいいのかもしれない。
園内には見所も多いようだが、龍郎はただ青蘭を休ませてあげたいだけだったので、最初に見つけた店でサンドイッチを買い、近くのベンチにすわった。
「池があるね。キレイだ。ほら、青蘭。見てごらんよ。リスがいる」
「あっ、ほんとだ」
「可愛いね」
うっすらと紅葉した緑と黄色の濃淡のついた樹木のあいだを、ちょこちょこと走りまわるリスの無邪気な仕草に、しばし癒される。青蘭はふだん小動物が苦手なのだが、このときは喜んで見ていた。都会のどまんなかとは思えない濃い自然のなかにいると、いくらか気持ちがリラックスするようだ。
「そうだ。青蘭。たしか公園のなかに動物園があるよ。行ってみようか?」
「うん」
サンドイッチを食べ終わり、カフェ・オ・レを飲みほすと、紙袋の処理に困った。どこかにゴミ箱がないだろうかとあたりを見まわしていると、とつぜん、チョロチョロしていたリスがビクッとはねあがり、全力疾走で遠ざかっていった。
何事かと驚いたが、人間だ。さっきまで周囲に人のいる気配は感じなかったのだが、いつのまに近づいていたのか、老人が木の陰から現れた。ひとめでホームレスとわかる。グレーの髪が伸びほうだいで顔は口元しか見えない。たぶん、三ヶ月くらい風呂に入っていない。
ああ、困ったな。デートのジャマをされたくないと思っていると、老人は片手をさしだしてきた。
物乞いだろうか?
金を渡してしまったほうが早く行ってくれるに違いないと思い、龍郎は五ドル札を渡した。
すると、老人は札をポケットにつっこみ、さらに手を伸ばす。
「えーと?」
「eating rubbish」と、老人は言った。不要のゴミを食いますと言っている。なんかヤバイ人とかかわったのかとあわてふためいたが、老人は龍郎の手にした紙袋を指さしている。
なるほど。ゴミをかわりに始末してきてあげますよという意味だ。食うというのはアメリカンジョークなのだろう。きっと、この公園で観光客を相手にこうやって小銭を稼いでいるのだと解した。
「thank you」と返し、龍郎は紙袋を渡した。
老人は紙袋を持って、おとなしく立ち去っていく。
「よかった。どうしようかと思った」
「なんか、あの人、すごい匂いしたけど……」
ヒスパニックかネイティブアメリカンだろうか。いろんな人種のいる国は貧富の差も激しいようだ。とは言え、顔の半分が見えなかったから、それも自信がない。
「じゃあ、動物園行こうか。リスも行っちゃったし」
「そうだね」
龍郎の地元のM市は、東京にくらべて冬の寒さがきつい地方だ。まだ早いかなと思いつつ、薄手のトレンチコートを着てきたのだが、ニューヨークではそれでちょうどよい気候だった。黄色くなりつつあるイチョウの並木道を青蘭と手をつないで歩いているだけで幸福な気分になれる。
平日だというのに、周囲にはけっこうな人影があった。芝生の上にすわりこむ人たちであり、小さな子どもを遊ばせる親であり、モザイクの広場でパフォーマンスをする人であり。
それにしても、広すぎて迷ってしまったようだ。いっこうに動物園に行きつかない。何度か現地の人らしき通りすがりの男女に場所を聞いたのだが、それっぽい建物が見つからない。
「変だなぁ。さっきの人、こっちって言ってたよね。けっこう歩いたんだけどな」
「僕、別にいいよ。歩いてるだけでも楽しい」
「そう?」
「ずっと龍郎さんとこうしてたい」
「そう?」
なんて可愛いことを言ってくれるのだろうか。野生のリスの数百倍は可愛い。
園内をさまよっていると、お城を見つけた。
「お城だね」
「うん。公園のなかにお城がある」
日本の公園では絶対にないものだ。しかも、本格的な石の城。テーマパークのなかにある不自然にデコレーションされた代物ではない。ヨーロッパからそのまま運んできたようなふんいきだ。
「入ってみる?」
「入れるのかな?」
「どうだろう。行ってみようか」
デートにはピッタリの古城。
龍郎は青蘭の手をひいて歩いていった。
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