第一話 セントラルパークの悪魔

第1話 セントラルパークの悪魔 その一



 九月三十日。

 この日が黒川水月こと本名アルバート・マスコーヴィルの起こした訴訟の開廷日だった。

 場所はニューヨークにある家庭裁判所。


 だが閉廷まで待っても、アルバートは現れなかった。


 自分は青蘭の実の兄であり、したがって祖父アーサー・マスコーヴィルの遺産を半分相続する権利があると主張して、青蘭の銀行口座を差しとめ、提訴していたのだが、当日、本人はやってこなかった。それどころか、弁護人のヘンリー・ガストンすら姿を見せなかった。


 おかげで裁判は一方的に青蘭の勝訴となった。このためにこっちは青蘭に兄弟などいないという法的証拠を集め、さらにはアンドロマリウスを呼びだし、青蘭に全財産を譲るという音声を録音までして準備していた。生前に遺された肉声だとして公表するつもりだったのだ。青蘭の祖父はアンドロマリウスだから、証拠を新しく作ることはいくらでもできる。

 だが、その必要もなかった。

 これで晴れて青蘭の銀行口座は解凍され、以前どおり使えるようになる。


 嬉しいはずなのに、裁判所を出る青蘭の顔は浮かない。

 それはそうだろう。

 青蘭はこの場所にアルバートが現れることに、いちるの望みをかけていたのだから。


 青蘭が財産よりも命よりも大切に思う快楽の玉を、アイツは奪っていった。青蘭のお腹からえぐりだして。


 もしも、ヤツが裁判所に現れれば、人前でもなんでもいい。とにかく龍郎の苦痛の玉の力で退魔してしまうつもりだったのだが……。


 もちろん、アルバートもそれを予測しているからこそ、来なかったのである。彼のほんとの目的がアンドロマリウスの遺産ではなかったという何よりの証拠だ。彼はただ、快楽の玉を欲していた。生まれつき心臓を持たない双子の妹のために。


「青蘭。気を落とすことない。まだチャンスはある。ヤツらの教団の本拠地は、このアメリカのどこかにあるはずだ。それに、おれのこの苦痛の玉が必ず呼びあうから」

「うん……」


 青蘭はかわいそうなほど、うなだれている。

 近ごろ、青蘭は精神的に不安定だ。

 この前、アルバートの魔術で魂をぬかれてから、アスモデウスだったころの感情を抑えられなくなっているようだ。

 寸刻でも龍郎が離れると泣きだすので、青蘭のそばから、かたときも離れられない。


 この状態の青蘭に、とても言うことはできない。龍郎がルリムとかわした、あの契約を。

 青蘭を助けるために、どうしてもルリムの力が必要だった。協力してもらう代償として、三つのうちいずれか一つを支払わなければならない。


 快楽の玉。

 苦痛の玉。

 龍郎自身。


 この三つのどれかである。

 どれをとっても青蘭を悲しませてしまう。

 快楽の玉は現状でさえ、これほど執着している。苦痛の玉も快楽の玉の対のものだから同様だろう。だとすれば、残るは龍郎自身なのだが……。


(青蘭が……アスモデウスが愛してるのは、苦痛の玉の持ちぬしだった天使。今はもう存在していない、かつての恋人だ。おれが苦痛の玉を持っているから、思い出と重ねているだけ)


 龍郎はため息をつきながら、裁判所をあとにした。

 青蘭の第二弁護士の佐竹が二人のうしろからついてくる。佐竹弁護士はかなりの高齢だ。きれいな白髪で黒いスーツを着ているので、外国映画に出てくる執事のようである。


「サー・マスコーヴィル。どうぞ、お車にお乗りください。今後の法的な措置について、私の事務所で話しあいましょう」


 青蘭が乗り気でないのはひとめでわかった。が、龍郎はまだ佐竹弁護士の線からガストンをたどれるのではないかと考えていた。青蘭の肩を抱いて、佐竹が勧める彼のマイカーに乗りこむ。黒いロールスロイスだ。運転手もついている。雇い主の青蘭が日本で乗っているのは中古の軽自動車なのに、雇われている佐竹がロールスロイス。弁護士というのは、よほど儲かる商売らしい。


「事務所へやってくれ」という佐竹の言葉で、東洋人の運転手は車を出した。


 家庭裁判所はニューヨーク州のリッチモンド郡にあった。ニューヨーク市のすぐ下ではあるが、自動車での移動にはそれなりに時間がかかる。


 青蘭は無言のまま、ただ龍郎の肩にもたれかかっている。

 このまま、青蘭が空気になって消えてしまいそうな気がして心配でならない。一刻も早く、快楽の玉をとりもどさなければ。


 佐竹の法律事務所はミッドタウンのなかにあった。落ちついた十八世紀の建物だ。なかに入ると、らせん階段があり、三階に佐竹の事務所がある。黒い鉄の枠が装飾的な花模様になったガラス扉に、『G&Sfirm』と金色の文字が入っている。Sはたぶん、佐竹のSだろう。ということは、Gは裏切り者の第一秘書、ガストンのことではないだろうか?


 龍郎の視線に気づいたのか、その金色の文字の入ったドアをあけながら、佐竹は説明した。


「そのGは逃げたガストンの父のことですよ。共同出資者でしたが、先年、引退して息子にあとを譲ったのです。ヘンリーは若くてガッツはあるが、なにぶん経験不足でしてねぇ。まさか、こんなことをしでかすとは」


 なんと、ガストンが共同出資者だったとは。しかし、それならなおさら、佐竹はただの仕事上のパートナーというより、もう少し深い関係性を持っていそうだ。ガストンが子どものころからの家族ぐるみのつきあいと言った。


「ヘンリーをどうされますか?」とたずねる佐竹に、龍郎は青蘭に代わって答えた。


「もちろん、今のままならクビにします。しかし、その前に彼にじかに会って話がしたい。なぜガストンが裁判所に現れなかったのかわからないが、あなたなら、どうにかして彼の居場所をつきとめることができませんか? 佐竹さん」

「ヘンリーと何を話したいのですか?」

「まあ、釈明ですか。彼の行動について弁解の機会を与えたいと、青蘭は考えています」

「ふむ」


 しばらくして、佐竹はうなずいた。

「いいでしょう。それなら、私はこれからヘンリーの父トミーに会ってきます。家族になら連絡をつけることもできるでしょう」


 ほんとうはヘンリーに聞きたいのは、青蘭の兄の行方だ。しかし、嘘も方便である。こう言っておけば、ヘンリーも気をゆるして謝罪に現れるかもしれない。むしろ、そうなってくれることを望んでいた。

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