6 キス

 バイクに乗りながら、おれとオリビアは無言だった。お互い何か質問を抱えている気がして、おれはもどかしい気持ちだった。

 途中でバイクを停め、地図を見る。この場所からはいつもとは別ルートで目的地に行けるようだった。目的地をリングに登録し、バイクのエンジンをかけようとする。

「ねえ、どう思う?」

 ずっと黙っていたオリビアが、声を上げた。おれは振り向き、「何が?」と訊いた。

「わたしの母親。変な人じゃない?」

「どうなんだろう。ちょっと変わってるとは思うけど」

 おれは正直に答えた。オリビアはそれが不満らしく、じっと考え込んでいる。そして、顔を上げて言った。

「植物学の博士なんだって。家ではいつも変な植物を育てて指なんかいつも泥だらけだし、その手で料理するのよ。わたし、料理なんて自動調理機が作ったものしか食べたことないから、どうしても汚い感じがするの。どうして自動調理機を使わないのかしら? ちゃんと設置してあるのよ」

 おれは返答に困った。おれの家でも自動調理機を使うことはないからだ。そのことをおずおずと言うと、彼女は驚いた顔をした。

「どうして? 旧大陸では誰でも自動調理機を使うわよ。便利だし、早いじゃない」

「自動調理機で栄養素を無理矢理足した不自然なものを食べるよりも、自然に育った食物を、人間が調理して食べるほうが体にいいっていう研究結果があるんだよ。そのほうがアレルギーにもなりにくいし、食欲が出るらしいんだ。君のお母さんは、君に健康的なものを食べてほしいんじゃないかな」

「そうかしら。でも、新大陸人ってやっぱり皆いい暮らしをしてるのね。自然に取れた食物が当たり前なんて、贅沢もいいところだと思うわ。それに、あなたの家にはコックがいるんでしょう?」

 うなずくと、彼女はため息をついた。

「贅沢な暮らしが当たり前なんて、狂ってるわ。母はそれが嫌いらしくて、その点では考えが合致してるの。自分で育てた野菜を自分で料理する母は贅沢にほど遠いし、家も粗末だし、母は案外まともなのかもしれないわね」

 それだけ言うと、彼女は黙った。おれは彼女がおれの胴体にしっかり抱きついているのを確認し、出発した。オリビアと密着している感じは、恥ずかしいし、嬉しくもある。

 目的地は、湖だ。森はどんどん野性的になるが、道は一応続いている。小石や小枝を踏んでよろけてはバイクを立て直す。彼女の家から十五分くらいで、道は終わり、視界が突然開けた。

 透明な湖が、入道雲の下に広々と落ちていた。白い砂地の向こうの湖は、銀色の波で光っている。遠くに桟橋があり、ボートが見えた。

「いいところね」

 バイクから降り、オリビアは気持ちよさそうに伸びをした。おれはバイクを木の根本に停めて彼女の元に行った。彼女は振り返り、微笑んだ。それが嬉しくて、ため息が出た。

「まだここに来てひと月なの。でも、あの家はあなたたちと違って別荘ではなくて本宅で。だけど知らなかったわ。こんな素敵な場所」

 彼女は歩き出した。ぴったりとしたパンツスタイルの彼女の後ろ姿は、何よりもきれいだった。波打ち際で水に手を浸し、遠くを見つめる。その横顔も、黒い艶のある髪も、長い手足も、見ているのはおれだけで、それが信じがたかった。

 桟橋に行き、ボートを借りる。ランダムに湖を進むように設定し、おれとオリビアは乗り込んだ。不安定なボートの揺れが、おれとオリビアを近づけた。お互いに落ちそうになって、手を掴み合って笑って、そっと座った。彼女は真っ青な空に浮かぶ雲を眺めるため、首だけふちにもたせかけて船底に寝ころんだ。そんな無防備な姿を、おれはどきどきしながら見つめる。

「天使の名前、三つ言えって言ったけどさ。どういう意味だったの? 未だにわからない」

 おれが彼女を見下ろしながら言うと、彼女は気乗りしない様子で「ああ」と返した。

「わたし、今はオリビアって名前だけど、それはひと月前に母がつけたのよ」

「……そうなの?」

 驚いて、彼女をじっと見る。

「わたし、去年まで父と旧大陸で暮らしてたの。でも、父が亡くなって……。いい父親だったわ。優しくて、陽気で。母親がいなくたって気にならない、いい家庭だった。でも、わたしは家族を失って、どうしようもなかったの。母がすぐに来て、一気に色んなことを教えられて、即席の新大陸人になったの。名前も変えましょ、って母に言われたわ。嫌だった。わたしは元々の名前が大好きだったから。天使の名前だったのよ」

「ガブリエル?」

 おれが言うと、彼女は笑った。

「そう。正確にはガブリエラ。オリビアなんて、木の実の名前じゃない。全然嬉しくない。天使から木の実に格下げ。そう思ってたけど……」

「名前、結局は君の目の色から決まったの?」

「ええ。この間確認したの。生まれたときからオリーブ色で、それがずっと印象的だったんですって。なら、まあいいわ」

「君のこと、何て呼べばいい? ガブリエラ? オリビア?」

 おれは少し慎重に訊いた。でも彼女は面白そうに笑い、

「オリビアでいいわよ。もう今更ガブリエラなんて呼ばれても混乱するもの。それに、あなたは天使の中でもガブリエルを選んでくれたしね。それがわたしの名前の最後の華々しい瞬間だと思っておくわ」

 大事な思い出を語ってくれている。それだけで胸が一杯になった。おれはオリビアを見下ろし、この思いをどう表現すればいいのかと考え込んでいた。オリビアはそれをじっと見返して、微笑んだ。

「何? キスしたいの?」

 いたずらっ子のように笑い、体を起こす。おれは動揺し、首を振る。そんな大それたことは思っていなかった。

「女の子を好きになったことある?」

 彼女は顔を近づけ、おれに訊く。おれは目を合わせられない。そのまま首を振る。

「わたしが最初?」

 うなずくと、彼女は歯を見せて笑った。真っ白なきれいな歯。

「かわいい」

 頬に、キスされた。柔らかい湿った感触が左の頬に残り、おれは顔が一気に赤くなるのを感じた。彼女はそれを見て嬉しそうに笑い、

「明日は湖で泳ぎましょうよ」

 と言った。


     *


 世界がきらきら輝くようだった。彼女にキスされたというだけで、何もかもがまぶしく、優しく見える。彼女が年下の少年に好かれてかわいく思っているだけだと、わかっている。でも、おれの目に映る空も、白い積乱雲も、群を成す小鳥たちも、ソメイヨシノの幹を這う毛虫も、全てが愛おしく美しく感じられるのだ。それは魔法のようだった。彼女がおれにかけたのだ。

 何が何だかわからないままボートから降り、オリビアを家まで送り、家でぼんやりと熱に浮かされたような時間を過ごし、食事を済ませた。夜はうまく眠れず、朝が来たらベッドから飛び降りた。朝が待ち遠しいのは初めてだった。オリビアにまた会えるのだと思うとわくわくした。

 どうにか時間を潰し、約束の十時に間に合うように家を出た。オートバイクを飛ばし、憑かれたようにあの瞬間を思い出した。どうかしていると思いながらもやめられなかった。彼女の顔が近づき、一瞬にして唇が頬に触れたときのその熱さ。おれはにやけた。そして、森の中を走り抜けながら喜びを意味のない言葉に託して叫んだ。

 彼女の家に着くと、バイクを停めてから落ち着くために深呼吸をした。表情筋を引き締め、もう大丈夫だ、と思ってから彼女に通信しようとリングを目の前にかざす。ちょうどそのとき、門の向こうのハーブ園からがさがさという葉の擦れる音がした。出てきたのは、オリビアの母だった。

「面白いわね、あなた」

 真顔でそう言うと、門を開いてくれた。おれは先ほどまでのにやけた顔と深呼吸を見られていたことを知ってショックを受けていた。おれは今まで周りから落ち着いていて大人びた少年だと認識されていて、それをわかった上で完璧にその役割をこなしていたからだ。でも、本来のおれはこういう人間なのかもしれない。あるいはオリビアがおれを狂わせているか。どっちにしても、あまり悪い気はしないが。

「娘は寝てるわ。暑いからだるいみたい。起きるまでお茶でも飲んでなさい」

 サンダルの足でゆっくりと進みながら植物の手入れをするオリビアの母の後を、おれはじりじりと焦りながらついて行った。オリビアがおれとの外出をさほど楽しみにしていないのが残念だった。

 植物は畑に生い茂り、背の高い木に囲まれるように紫蘇やルッコラなどの雑草に見えるハーブが生えている。大小の鉢植えが木のそばに置かれ、植えられた植物は地面に向かって緑の枝を垂らしていた。植物がそこかしこにひしめいていた。小道はしっかりと踏み固められているが、石やコンクリートで舗装はされておらず、自然な感じがした。様々な草の香りがした。オリビアの母がぷつり、ぷつりと緑色の葉をちぎっている。草の香りの中に強い清涼感のある香りが混ざってこちらに届く。

「全部あなたが育てられているのですか?」

 おれは思わず訊いた。これだけの農園を、一人で管理するのは大変そうだ。庭師も雇わず野菜まで育てるのは、仕事をしながらなら凄まじい労力が要ると思う。

「そうよ」

 彼女は振り返らずに歩き出した。

「知るためには必要なことだと思っているの。新大陸人は土を知らないわ。自然を愛するように見せかけて、自分を守る盾にしているだけ。庭に植物を植えて促成剤を与えるだけで役目を果たしたと思ってる。自然が自分に何かをお返ししてくれて当然だと思ってる。でも、植物も動物も、人間が管理してどうにかなるものじゃないし、必ず恩恵を与えてくれるとは限らないの。わたしたちはその力をたまたま借りられているだけ。生き物は、強いわ。得体の知れないものでもある」

 彼女はゆったりと歩き、おれをバルコニーの椅子に座らせると、草を手に中に入っていった。

 オリビアの家は、何もかもおれの家とは違う。バルコニーからの景色は、鬱蒼と生い茂る植物の強烈な緑色で埋め尽くされている。所々に花が咲いていて、その白や紫が印象的だ。

 しばらくしてから、オリビアの母はガラスのティーセットを手に出てきた。

「さあ、メリッサのお茶よ」

 草の葉が浮かぶポットから、氷のたくさん入ったカップに淡い黄色のお湯が注がれる。氷がぱちぱち鳴って割れる。飲んでみると、味はあまりなく、涼しげなレモンに似た香りがする。

「鎮静効果があるのよ。娘に会うときは紳士的に振る舞ってね」

 彼女は笑った。その頬の膨らみがオリビアそっくりだった。おれはうなずき、庭をもう一度見た。

「植物は、必ずしも人間にとっていいものではない?」

 おれは訊いた。彼女は少し考え、答える。

「そうね。植物は、必ずどこかで人間にひどい仕打ちをするでしょうね。促成剤によって無理矢理成長させられた木々。あれは大きすぎる」

 思案している彼女の向こうから、オリビアが眠そうな顔をドアから出した。あくびをしながら体を出すと、乱れた髪を整えながら背伸びをする。

「今着替えるわ。待ってて」

 オリビアはのろのろと家の中に入っていった。オリビアの母はおれを見て、眉を上げた。おれは笑い、先ほどよりは冷静な気分で待っていた。

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