8 受粉

 黄薔薇の口の中に、静雄が手を突っ込む。指やピンセットなどを使い、口の中に生えた雄しべをむしる。黄薔薇は痛そうに顔を歪める。それでも抵抗したりはせず、静雄が手を引き抜いて雄しべを捨てるとすぐに口を大きく開いて作業を待つ。雄しべを捨てないと、黄薔薇は自家受粉してしまう可能性がある。より丈夫な薔薇を作るには、他の薔薇との交配が必要なのだとわたしは知っている。黄薔薇の雄しべは普通の薔薇より大きくて、黄色い花粉も充分についている。

 わたしと白薔薇はそれぞれ別の場所で二人を眺めていた。わたしは、辛い。白薔薇はもっと辛いと思う。彼の花粉が彼女を死に追いやるのだから。

「白薔薇、来て」

 静雄が呼ぶ。白薔薇は黄薔薇のいる池の外に立ち、動かない。静雄が苛立ったようにかすかに声を荒らげる。

「白薔薇」

 ようやく、白薔薇は二人の元に行く。ゆっくりと。静雄は白薔薇がたどり着くのも待たず、こう言った。

「黄薔薇の柱頭に花粉をつけてくれ」

 大丈夫だと言うかのように微笑んだ黄薔薇のそばに着くと、白薔薇は目を伏せて彼女の肩に両手を置く。そして、口づけをする。黄薔薇が白薔薇の頭を抱え、白薔薇の口の中に自らの白い舌を差し入れる。舌は、雌しべだ。雌しべの先に柱頭があり、ここに花粉をつけることで彼女は受粉する。彼女は何度も何度も白薔薇の口の中を撫でた。彼らの顔に喜びはない。黄薔薇は使命感を、白薔薇は虚無感を抱いているだけだ。

「もういいよ、二人とも。次は明日だ」

 静雄が二人の肩に手をかけ、二人はようやく離れた。白薔薇の口から黄薔薇の舌が引き抜かれる。

「明日? もう受粉したのではないのですか?」

 黄薔薇が笑顔で訊く。静雄はにこりともせずに答える。

「薔薇は受粉しにくいものなんだ。君の雌しべが許す限り、これをやるよ」

 白薔薇は池に足を入れ、がっくりと首を垂れた。わたしは彼に何と言っていいかわからない。

 黄薔薇たちと別れ、わたしと静雄は一緒に家のほうに向かう。言葉はない。わたしは、どうして彼が黄薔薇たちの交配を決めたのか、訊きかねたままだ。静雄は急に冷徹な人間になった気がしてならない。言葉が通じなくなってさえいるように思える。

「沙良はおれが酷い奴だって思ってる?」

 静雄は、ためらうように切り出した。わたしは何も答えることができない。

「おれもそう思うよ。でも薔薇は命を繋がなくてはいけないんだ。感情を持っていようと、いまいと」

 わたしは彼をちらりと見、目を伏せた。そのまま自分の家に向かう。彼が立ちどまり、わたしを見つめているのがひしひしと伝わってくる。わたしが静雄の表情に見た気がしたのは、狂気だった。生母と同じ、狂気。


     *


 二度目の受粉作業も済み、わたしと黄薔薇は相変わらず仲良くしている。黄薔薇はわたしの髪をいじるのが楽しいようだ。リングから出した流行のまとめ髪の画像の真似をして、黄薔薇は器用にやってのける。わたしはリングの鏡機能を使って、黄薔薇がまとめてくれた髪を、よく見る。自分の顔には、あまり慣れない。今まであまり見たことがなかったから。やはり醜いと思うが、このコンプレックスを美しい黄薔薇にぶつけるのは、間違いだとわかっている。わたしは黄薔薇を好いている。黄薔薇の受粉が失敗していればいいと、心から思う。

 白薔薇は、わたしに近寄らなくなった。わたしが来ると、森の中に入ってしまう。わたしは寂しく思う。白薔薇とも、仲良くなりたかったから。

「沙良さんの髪は素敵ですね。わたしの髪はしおれてしまって、もうあまり美しくありません」

 黄薔薇が言う。わたしは思わず振り返って、黄薔薇の腰まで伸びた長い花弁を見る。確かに色あせて、張りがなくなっていた。彼女の花は枯れかけていた。わたしは何も言えなくなって、彼女の寿命のことを思う。あと半年。

「咲き、しおれて、子孫を作り、死ぬ。子孫も咲き、しおれて、子孫を作り、死ぬ。その繰り返しです」

 何と返事をすればいいのかわからない。けれど黄薔薇は笑っている。

「知っていますか? わたしは白薔薇を愛しているのですよ。彼の子供を得ることは、かけがえのない幸せです」

「あなたたちはわたしたちが勝手に受粉させたのよ」

 わたしが思わず言うと、黄薔薇は大人びた、優しい笑みを浮かべた。

「与えられたものでも、愛は愛です。白薔薇と出会い、彼が育てば育つほどわたしは愛しました。彼は素敵な薔薇です」

 でも、と続けようとしたが、そうしなかった。黄薔薇の微笑みがそうさせなかった。彼女は自信に満ちた表情をしていて、わたしの言葉がそれを揺るがすのは難しいであろう気がした。

 わたしは黄薔薇に次々と物語を読んだ。長い児童文学も読んだ。「あしながおじさん」や「秘密の花園」などを。黄薔薇は喜んだ。わたしは彼女の喉が、次第に膨らんでいることに気づかないふりをしながら、日々を彼女と過ごした。


     *


 雨だ。梅雨の季節は湿気と驟雨に始まり、それらは次第に強くなり、雨は豪雨となる。屋根を持たず、森で暮らしている黄薔薇たちはどうしているのだろうと、わたしは思った。

 父は何か書き物をして過ごしている。彼は義母の死から未だに立ち直れていない。わたしはできるだけ彼と話をする。彼の話は義母の話に終始する。時にはお腹にいた子の話も。

 その子がいたら、この家も賑やかだっただろうと父は言う。わたしも何度もそれを聞かされている内に、それがありありと想像できるようになってきた。ふくふくとした小さな子。男か女かわからない子。その子がわたしたちの、つまりわたしと父と義母の日々を華やいで見せてくれていたであろうことを、父は語った。わたしは笑ってそれに応じながらも、底知れない悲しみが父を包んでいることを実感していた。父は、一人で耐えていた。わたしはできるだけ彼が立ち直る手助けをしようと、努力した。

「お前の薔薇は、実ったようだね」

 不意に父が言った。わたしは驚き、目を見張って黙った。

「楽しみだよ。子供が生まれてくるのはいつだって」

 でも、その前に黄薔薇は死んでしまうのよ。わたしはそう言おうとして、口をぎゅっとつぐんだ。


     *


 雨がやんだ蒸し暑い日、わたしは黄薔薇に「嵐が丘」を読み聞かせしていた。彼女は大人向けの小説を好むようになっていた。途中で、息が詰まる。どうしたのですか? と黄薔薇が訊く。真ん丸な喉の上にある、小さな頭から。彼女の喉はかなりふくらみ、体は変形してきていた。特に顔。彼女の顔は丸い実の表面に溶けかけていた。頭にあった花弁はしおれてちぎれ、無残な姿となっている。どうしたのですか? 黄薔薇がもう一度訊く。

「辛いのよ」

 わたしは泣いている。無責任な涙だと知りながら。

「辛いのですか? 大丈夫。わたしは何も辛くないのだから沙良さんは泣かなくてもいいのですよ」

 黄薔薇がわたしを慰める。

「あなたをこんな姿にした自分が嫌なの。それに、白薔薇はわたしを嫌っているし」

 わたしに泣く資格はない。けれど言葉も涙も流れ出してくる。

「酷い白薔薇ですね。あとで言っておきますから」

 黄薔薇は実に体を乗っ取られてしまったかのような姿で、わたしに微笑みかけた。

「沙良さん。泣いている時間はないのです。読んでください。わたしは人生を楽しみたいのです」

 人生を楽しむ。それは黄薔薇が最近よく使う言葉だった。わたしには人生が終わりかけた者の言葉であるかのように感じられた。わたしは黄薔薇の言うとおり、本を読んだ。声が震えた。わたしは泣きながら「嵐が丘」を読んだ。

 帰りがけに、森を見た。白薔薇がじっとこちらを見ながら立ち尽くしている。涙は枯れ果てたのだろうか。そう思わせる姿だった。頭の白い花弁はしおれ、端正な顔は汚れている。表情は、険しい。わたしを恨んでいるのだろう。そう思うと、涙が出た。

 静雄の薔薇園に寄った。薔薇は全て散り、実ったものは丸く頭を膨らませていた。黄薔薇のように。静雄は薔薇の世話をしながら、酔っ払ったかのような上機嫌で――おそらく本当に酔っぱらっていたのだろう、日に日に彼は酒の臭いを濃く匂わせるようになっていた――、来月には薔薇の剪定だ、とわたしに言った。わたしはまた泣いた。静雄は困った顔をしたが、沙良、彼らの命を無駄にしないためには黄薔薇のことは仕方ないことなんだよ、と呂律の回らない声でわたしを諭した。

 わたしの涙は梅雨の間中、枯れることはなかった。


     *


 一年で一番暑い時期が来て、そのころにはわたしはもう泣かなくなっていた。強くなったからではない。泣くのに疲れただけだ。だらしないくらい汗が出て、黄薔薇について考えすぎた頭が煮詰まってしまったような気がする。

 黄薔薇の頭は、どこにあるのだろう。もう、わからなくなってしまった。けれど彼女の声は聞こえる。

「沙良さん、続きを読んでください」

 と。ボイスレコーダーが体中を巡っているという話を思い出した。

 わたしは読んだ。「ブラームスはお好き」だっただろうか。主人公の最後の台詞を聞き、黄薔薇はくすくす笑った。

「おばあさんだからと何もかも諦めては、いけませんよね。わたしは愛するものを諦めたりしませんよ。人生も」

 完全に実となった黄薔薇の頭頂を見ると、唇が見えた。ああ、これが今の黄薔薇の唇か、とわたしはぼんやり思った。

「わたしは白薔薇を愛しているし、愛されています。静雄さんも、沙良さんも、この場所も、愛しています」

 体は人のようで、頭ばかりが肥大した白い塊となった黄薔薇は、そのあとも何かを言っていた。わたしは聞いていなかった。話し終えたら次の本を選ばなければ。そう思っていた。

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