7 黄薔薇と白薔薇
静雄の薔薇園に行く。わたしは革靴で芝生を踏み、その柔らかい感触に驚いた。こんなに当たり前のことに気づくのは、わたしが身なりを変えて自意識過剰になっていたからだと思う。静雄の家の敷地に入るのが、こんなに勇気のいることだとは思ったことがない。
静雄の薔薇園は広い。何坪あるだろうか。わたしにはわからない。わたしは静雄の頭を見つけると、ワンピースにかぎ裂きを作らないよう用心しながら歩いた。横顔の静雄は満開の薔薇をじっと見つめ、ぼんやりしている。いつもは手をとめずに作業しているのに、どうしたのだろう、と思った。
「静雄さん」
そばに行って声をかけると、静雄は驚いて肩を一瞬上げてからわたしを見た。不思議そうに、わたしを見つめる。わたしは見られることを恥ずかしく思いながら、それでも見てほしい気持ちに駆られて目を逸らさず見つめ返した。静雄はしげしげとわたしを眺めたあと、わたしのほうに手を伸ばして、はっとして引っ込めた。その手を薔薇の茂みに入れる。目の前の白い薔薇が傷んでいないか、点検しているのだ。静雄が訊く。
「どうだった? 昨日は」
わたしは静雄が服装について何も言ってくれないことにがっかりしながらも、昨日のわたしと父を心配してくれている彼に感謝した。
「お父様とは、仲直りできたの」
「そう、よかった」
作業しながら静雄が微笑む。
「静雄さんからもらった薔薇は、お義母様のイメージにぴったりだったわ。明るくて華やかで、赤い薔薇のような方だったから」
赤い口紅がとてもよく似合う人だった。わたしはちくりと胸が痛むのを覚えた。今更彼女が選んだ服を着ても、手遅れかもしれない。信じる宗教のないわたしは。静雄のように魂を意識したり、極楽浄土や天国を考えたりすることなどない。輪廻転生もわからない。死んだ人間が形を変えてどこかにいて、わたしを見守ってくれていると思うのは、わたしにはできないことだ。だから、悲しい。
「沙良はピンクの薔薇が似合うね」
不意に、静雄がわたしを見て言った。彼はすぐに目を逸らして白い薔薇から隣のピンクの薔薇の前に移った。内側から外側に向かって花弁のピンクが淡くなっていく薔薇。かわいらしい色で、わたしはこの薔薇が初めて咲いたときから気に入っていた。
「この薔薇は、沙良の薔薇だと決めてるんだ」
今度は静雄の顔が見えない。わたしはじっと静雄の後頭部を見、ピンク色の薔薇を見、次第に顔が熱くなっていくのを感じた。風が吹く。薔薇園の薔薇たちが揺れている。わたしたちを見て、噂しているように見える。ピンク色の薔薇が恥じらっているように思える。恥じらっているのはわたしで、噂しているのはカメラの向こうの人々だとわかっている。しかし、そう感じた。
歩けば歩くほど、風景が変わる薔薇園。昨日見た色々な薔薇たちが、打って変わって明るく見える。昨日は毒々しい色だったが、今日は鮮やかな色彩だ。これが、わたしの待っていた薔薇園だ。わたしは清々しい気持ちで出口にある蔓薔薇のアーチをくぐった。前を歩いていた静雄は手洗い場に向かい、手を水でごしごし洗った。石鹸も使った。いつもならそこまでしないのに、と思っていると、その手をタオルで拭いてからわたしのほうを向き、
「髪の毛、触っていい?」
と控えめに訊いた。わたしは驚いたが、うなずき、静雄に近づいた。静雄はそっと手を伸ばし、わたしの後頭部のお団子に手を伸ばした。何だ、髪型が珍しかっただけじゃないか、と思って笑ったら、静雄はこうつぶやいた。
「きっと見られてるよな」
多分、カメラの向こうの人々のことだ。わたしはそれを聞くと、怒りよりも嬉しさのこもった恥ずかしさを覚えた。頭の上のお団子が、ぽん、と優しく触れられたあと、わたしと静雄は見つめあい、くすりと笑った。
*
スラブ人向けチャンネルの少女がどうしているのか、わたしは考えなかった。「ロミオとジュリエット」も読まなかった。わたしは静雄と会い、散っていく薔薇たちを眺め、黄薔薇たちに物語を読み聞かせしていた。
静雄はあれ以降わたしに対して特別なことを何もしない。髪に触れることもないし、あのピンクの薔薇について何か言ったりもしない。ピンクの薔薇は少しずつ散っていく。次に咲く時期に備えて、眠る準備を始めている。わたしはあれ以来この薔薇が愛おしい。わたし自身であるかのように思える。散っていく薔薇を、惜しいと思う。
静雄は何か考え込んでいる様子で、ぼんやりすることが増えた。何を考えているのか、わたしは訊かない。お互いの異変を言葉で伝え合うのは、互いに苦手だ。いつか行動に起こすなり話すなりしてくれると思う。
薔薇園は次第に彩を失っていく。静雄は新しい種を得るために、薔薇を受粉させる。彼は薔薇にオリジナリティーを求めない。丈夫であり、親の美しさを継承していれば充分だと考えている。そのせいか、彼は弱い青薔薇を育てようとはしない。
「今日は何を読む?」
わたしはリングの画像ではなく、図書室の本を用意して黄薔薇たちに訊く。一度リングから出した物語を読み聞かせたことがあるのだが、味気ない気がしてやめたのだ。リングの活字は一人で楽しむものであるように思う。紙の本は指を乾かしてしまうし、時には切る。最初は、活字を読むために実在する本をめくるという行為が不思議でならなかった。
「とびきり美しい話を読んでほしいです」
黄薔薇が笑顔で答える。白薔薇は黄薔薇が腕に絡みつくのをうるさそうにはせず、少しだけ微笑む。彼らは水耕栽培の池の中に足を浸し、クローバーに足を投げ出したわたしの言葉を待つ。
「それじゃあ、『いばら姫』にするわ」
わたしは本の目次を見て、そう答える。美しい話ならいくらでもある。黄薔薇が喜びそうな話がたくさん。
黄薔薇は物語が好きだ。それも美しくて複雑ではない物語が。一度ポーの「黒猫」を読んだら、恐ろしいからと途中でやめさせられた。彼女は怖い話が嫌いだ。
白薔薇は何でも聞く。黄薔薇がつまらないと言ってやめさせる話も、その間際まで少し微笑んで聞いてくれる。本当は楽しくないのかもしれない。白薔薇は感情をあらわにしないから、それがわからないだけかもしれない。多分黄薔薇が楽しいのなら何でもいいのだろう。
「いばら姫」の物語の豪華さに、黄薔薇は心惹かれたようだった。出だしの無邪気な微笑みは、終わりのころにはうっとりとした表情に変わっていた。王子がいばら姫に会いに来ると、いばらは次々に道を開き、導く。王子がいばら姫に口づけをすると、城全体が目覚める。いばら姫と王子は、末永く幸せに暮らす。
「美しい話ですね」
黄薔薇がわたしに笑いかける。「白雪姫」のときも、「灰かぶり姫」のときも、「千びき皮」のときも、「親指姫」のときも、「ナイチンゲール」のときもそう言っていた。「青い鳥」などはこれらの童話に比べて時間がかかるのだが、読み終わると長い時間考え込み、最後にはやはり「美しい話ですね」と微笑んだ。ペローは残酷だから気に入らないようだった。グリムもものによってはまあまあ気に入った。アンデルセンは手放しに喜んだ。しかし一番好きなのは、ワイルドの童話のようだった。耽美なワイルドの童話は、黄薔薇の趣味に合うようだった。黄薔薇は度々言った。
「ワイルドの『ナイチンゲールと薔薇の花』はとても素敵です。心を鷲掴みにされます」
と。「ナイチンゲールと薔薇の花」は、赤い薔薇をほしがる青年のために、ナイチンゲールが白い薔薇を自らの血で赤く染めて贈るものの、無駄に終わってしまうという内容だ。黄薔薇は悲しい話も好きだ。何より薔薇が意思を持って出てくるのが嬉しいのかもしれない。
「いばら姫」が終わってすぐに、黄薔薇は次の話をせがんだ。
「薔薇の話を聞きたいです」
黄薔薇はてのひらを合わせ、白薔薇に視線を送った。白薔薇は微笑んだ。
「それじゃあ、アンデルセンの『薔薇の花の精』は?」
「素敵ですね。『ナイチンゲールと薔薇の花』より美しいですか?」
「そんなのわからないわ」
わたしと黄薔薇はくすくす笑い合う。わたしたちはここ数日で随分仲良くなった。年の近い少女と一緒に過ごしたことのないわたしは、黄薔薇とじゃれあったりするのが新鮮で面白い。わたしたちが騒いでいるのを、白薔薇はかすかに笑って眺めている。
「じゃあ、始めるわよ」
「待ってください。静雄さんが来ました」
黄薔薇の言葉に振り向くと、確かに静雄が薔薇園から近づいてきていた。わたしたち三人は、じっと待つ。彼は強張った表情で歩いている。わたしたちをひたと見つめている。
彼は黙ったままわたしたちの元に来た。
「どうしたの?」
わたしが訊くと、静雄は淡々と言った。
「黄薔薇と白薔薇を交配しようと思う。黄薔薇の雌しべに白薔薇の花粉を受粉させる。沙良、いいよな」
わたしは黙った。呆然としていた。封印していた呪いが、突然噴き出してきたようだった。静雄は険しい顔のまま、黄薔薇と白薔薇のほうを見た。
「二人とも、大丈夫だろう?」
黄薔薇はきょとんとしていたが、やがて大きく笑った。白薔薇がそれを見て悲痛な顔をし、次に黄薔薇に勢いよく抱きついた。
「駄目だ、黄薔薇。決してうなずいては駄目だ」
初めて訊く、白薔薇の感情的な声だった。わたしは胸をえぐられる思いでいる。黄薔薇は白薔薇の背中に腕を回し、声を上げて笑う。
「どうして? わたしたちは子孫を残せるのよ」
「君がわたしの仲間のようになるのが辛いんだ。喉が腫れ、顔がなくなる。君が醜くなってわたしよりも早く死んでしまうなんて嫌だ」
「わたしは子孫がほしいわ」
「子孫のために早死にしたいのか?」
「薔薇とはそういうものだわ。受粉して、子孫を残し、次の世代の体の中に生きていく。それが薔薇ではないの?」
「わたしたちは薔薇ではない。ヒト薔薇だ」
こちらが息を飲む勢いで白薔薇が叫んだ。わたしは泣きそうになりながら静雄の顔を見た。何かを決意した顔だ。
「ヒトと同じように感情を持ち、自由に動くことのできるヒト薔薇だ」
「それでも薔薇の運命を受け入れなければならないわ。薔薇であってもなくても、わたしはその運命を受け入れると思う」
「君がヒトでも?」
「ええ」
黄薔薇は相変わらず笑っていた。白薔薇は、苦悩する顔を隠さずにわたしを見、静雄を見、つぶやいた。
「黄薔薇の意思が固まっているようですから、わたしはその通りにします」
「わたしはいつでもいいですよ。雌しべが成長してきているから」
黄薔薇が笑って言う。でも、とわたしが言う。
「黄薔薇と白薔薇はわたしの薔薇なのよね。わたしが駄目だと言ったらしないのよね」
静雄に笑いかける。静雄は目を逸らし、答える。
「黄薔薇に受粉させたいと言ったのは沙良だ。おれはそれからずっとそのことについて考えてきた。それに黄薔薇たちに訊いてみるといいよ。沙良の意見を必要としているかどうか」
「でも」
「沙良さん、わたしは子孫がほしいです。命を繋ぎたいのです」
黄薔薇が白薔薇の腕を離れ、わたしのむき出しの首筋にひんやりとした手を触れた。見ると真剣な目をしている。
「お願いです」
命を無駄にするのは酷いことだよ。という言葉を思い出した。静雄が言ったのだ。わたしは混乱した頭の中で、その言葉だけを拾い上げたのだった。
「あなたたちをただ生きさせるだけでは、命の無駄遣いなの?」
「ええ」
わたしの問いに、黄薔薇が答えた。わたしは息の上がる思いをしながら、わかった、と答えた。五月の末。薔薇の受粉に適した時期だった。
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