6 和解

 昼になって、わたしと父は二人きりで家に戻った。その直前、静雄が肩を叩いてくれた。わたしは不安だったが、何となく父とうまくやっていけそうな気がしていた。

 父は書斎にわたしを招いた。ここ数年入っていなかったその部屋は、わたしが幼いころとそう変わりがなく、右側の壁に取りつけられた本棚に飾りでしかない本が並び、色あせない緋色の絨毯が敷かれ、大きな机と、絹張りのソファーセットがあった。わたしと父は向かい合ってソファーに座り、しばらく無言だった。

 わたしは周りを見渡した。ふと見ると、机に写真立てがあった。父はわたしの視線を追ってそれに気づくと、手に取って表を見せてくれた。義母と父とわたし。わたしたちを映した動画をキャプチャーしただけではこのように三人が正面を向いて並ぶことはない。このような写真を撮った記憶がないので、わたしは不審気な顔をしただろうと思う。

「覚えてないか? 結が家に来たときに撮った写真だよ。全員、不安げな顔をしてるね。そうだな。いきなり家に他人がやって来たんだから、戸惑うよな」

 父が笑いながら説明した。わたしはようやく納得した。今より二歳ほど幼いわたし。怒ったような顔をしている。義母は泣きそうな顔。父はどうしていいかわからない顔。

「朝起きたら結がベッドの隣に寝ていた。驚いて公式サイトを開いたら、わたしの妻だと説明してある。そうなのか、と納得はできない。しばらく呆然とした」

 わたしは意外に思い、そのあと納得した。父はわたしと同じ人間なのだから、そうなるのは当然だ。今となってはどうしてそんなに当たり前のことがわからなかったのかと思う。

「しばらく結を置いて大広間に行った。お前がいた。わたしはお前に、新しいお母さんが来た、と言った」

 覚えている。わたしは父の言葉を不愉快に思い、自分の部屋に逃げたのだ。

「お前はいつの間にかいなくなって、わたしは困って隣の敬子さんにリングの通信機能を使って相談した。彼女は、何を言っているの、必ず迎え入れて親切にしてあげなさい、と言った」

 敬子さんは敏夫さんという夫を迎え入れた側の人だ。きっと気持ちがわかったのだろう。

「わたしはそうしようと思った。ここでは受け入れることをしないと、誰もが苦しい思いをする」

 わたしはぎゅっと唇を噛んだ。

「結のほうは目覚めたあとも、わたしたちを警戒していたね。わたしもそうだった。けれど、わたしがまず彼女を受け入れないといけない。そうでないと、彼女は孤独になる。記憶もなく、頼る人もない。そんな状況を、わたしは想像もできないけれど、辛いだろうと思って彼女と接した。彼女は徐々に態度を和らげ、わたしを受け入れた。わたしたちはいつの間にか寄り添うようになっていた。幸せになったよ。受け入れることで、幸せになった。今は失ってしまったけれど。結も、子供も」

 わたしは、と言おうとして、唇をつぐんだ。わたしは、あなたのように簡単に受け入れることはできない。そんな安易な選択はできない。そう言いたかったけれど、義母を失った父を攻撃することは控えた。すると父はこう言った。

「受け入れないといけない。沙良。お前はそうしたくないだろうけれど、そうしなければ。真希は受け入れなかったからここから出されてしまったんだよ」

 真希? 生母の名前だ。わたしは信じられないものを聞く思いで父を見た。父は軽々しく口にしたのではないことを示すように、わたしの目をじっと見つめていた。生母は義母のように死んでしまったのではないのか?

「真希は会社に管理されることを嫌がっていた。何度も抵抗し、そうだね、お前のようにカメラを叩いたりしていたし、堂々と会社を悪く言っていた。わたしたちはとめたものだよ。わたしや、隣の敬子さんたちは。でも、やめなかった。公式サイトのトークルームで視聴者と口論をしたし、会社に自分をここから出すように要望を出したりした。最初は面白がっていた視聴者も、次第に彼女を厄介な登場人物として嫌っていった。視聴者から彼女をここから消すように声が上がって、会社はその通りにした。彼女は別のチャンネルで別の登場人物として生きているよ。わたしたちが彼女のことを話さないのは、そのせいなんだ」

 わたしは心臓が破裂しそうになった。生母は生きている。わたしを置き去りにして。わたしの記憶をなくして。

「お母様はどこのチャンネルにいるの?」

 わたしが訊くと、父はわかっていたかのようにすぐに教えてくれた。わたしは父がわたしのリングに送ったゲートに触れた。画面には、気の遠くなるような数の本が並んだ書架が無数にある、広大な部屋が映し出されている。図書館だ。わたしは生母が図書館にいると知って涙が出そうになった。活字が好きな生母。わたしに同じ趣味を植えつけた生母。彼女が見当たらないので公式サイトのトップページに行く。公式サイトは地味な茶色い立方体で、このチャンネルは様々なルーツを持つ子供たちが集まる寄宿学校を舞台にしたものだとクリーム色の平たい文字で説明してあった。生母はそこの図書館で司書をしていた。生母のカメラが映し出す映像を観るため、彼女の顔写真をクリックする。写真で見る彼女は少し老いていたが、確かにわたしの生母だった。改めて見ると、思っていたのとは違って普通の顔立ちだ。わたしは彼女がわたしに似て醜いものだと思っていた。

 映し出される生母は無言で本を読んでいた。ただただページをめくっている。静雄くらいの年齢に見える茶色い肌の少年が近づき、何事か話した。言語が日本語ではないのでわからない。公式サイトの説明文を日本語にすることはできても、リアルタイムで話される言葉を翻訳するのは少し面倒だ。わたしは静観する。生母は少年と向き合うと、彼と同じ言葉で何か言い、少し笑った。

 わたしたちは環視されているのよ。

 そう言った気がした。わたしは何故だかとても悲しくなった。生母は何かに囚われて、とうとうおかしくなってしまっているようだった。その笑顔は少し歪んでいた。

「これでいつでも真希を見られるから、安心しなさい」

 父の声は優しかった。わたしは立ち上がり、父のほうに向かって歩き出す。父は戸惑ったようにわたしを見、わたしが抱きつくと強張った。しかしすぐにわたしを抱きしめて、泣いているわたしに、大丈夫、と言った。

「受け入れるんだ。受け入れれば、辛さは減る。それに、真希も結もお前を愛していたよ。それだけは変わらない事実だ。大丈夫だ。大丈夫」

 落ち込んでいるはずの父は、わたしを励ますのに精一杯の優しさをわたしに見せてくれた。わたしと父のわだかまりは。これで解けた。わたしは、生母を失ったわたしを励ますために明るく振舞う父を憎んだことを恥じた。父が義母を盲目的に愛していると思い込んでいたことを恥じた。わたしが子供であることを恥じた。わたしは受け入れて大人になることに決めた。

 次の日の朝、わたしは義母が用意した淡いピンクのワンピースを着た。長いまま放っておいた髪も、頭の上のほうでまとめてお団子にした。わたしは義母の言葉を思い出し、義母の言葉に素直に従うことにした。


     *


 わたしが池に向かうと、黄薔薇と白薔薇は戸惑ったようにお互いを見た。わたしはこの間の苛立ちを思い出したが、態度には出さずに二人に近づいた。黄薔薇は珍しく笑顔がなく、白薔薇は陰鬱な顔をしている。どうしたの、と訊く。二人はもう一度顔を見合わせると、白薔薇がこう言った。

「わたしたちは知っているんです。わたしたちが死ぬ時期を」

 わたしは驚いて彼を見た。彼はその端正な顔立ちをわたしに向け、そうだ、と言わんばかりにうなずいた。

「十二月には死んでしまいます。わたしたちは完成品の第一号に過ぎませんから」

 わたしは何も言えなかった。彼らに言葉を与えるとして、何を言うことができるだろう。わたしは彼らより長い人生を生きているし、これからも生きるのだ。

「沙良さん」

 黄薔薇が口を開いた。その声はやはり正確だったが、不安がにじんでいた。

「わたしたちが死んだら、同じようにしてもらえますか?」

「同じようにって?」

「お葬式です」

 白薔薇が黄薔薇の代わりに答える。わたしは少し泣きそうになる。素直な感情が、漏れ出してくる。

「あなたたちの体は、きっとこの場所で土になるわ。ちゃんとお葬式もする。あなたたちのことも忘れない。大丈夫。大丈夫だから」

 黄薔薇は目を丸くしていた。しばらくして、にっこり笑った。ありがとうございます。そう言った。

「でも、どうして知ってるの? あなたたちの寿命を」

「白薔薇は、覚えているんです。昔のことを。研究所にいたことも、仲間の薔薇たちのことも、体をばらばらにされたときのことも、全て」

 黄薔薇が答えた。表情が曇っている。白薔薇はいつもの顔だ。いつもの、憂鬱そうな顔。

「わたしたちは人の手で作られているし、管理されています。それは何となく、不思議なことです」

 少し笑う黄薔薇。彼女は大人びていた。この間の一言も、子供ではなく少女らしいからかいだったとやっとわかった。

「わたしたちは同じなのね」

 静雄がこの間言いかけていたことを思い出した。あれはまるでおれたちだよ。そう言いたかったのではないだろうか。わたしもヒト薔薇も一緒だ。同じように人の手が加わっている。

「沙良さん」

 黄薔薇がいつもの明るい笑顔を見せた。

「沙良さんの今日の格好、素敵ですね」

 わたしははにかみ、声を漏らして笑った。

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