5 白い壷

 ヒト薔薇について、ウェブで調べた。発売されたばかりの品種だからか、情報が少ない。わたしたちの庭に黄薔薇たちがやってきたのは、視聴者への宣伝のためなのだろう。しかしヒト薔薇の開発会社のウェブサイトには、受粉の仕方がきちんと載っていた。リングの上に浮かぶ赤い立方体をくるくると回し、ほしい情報が飛び出してくるのを眺める。何だ、普通の薔薇と一緒じゃない。わたしはそうつぶやき、立ち上がった。深夜二時。ぬるいココアが飲みたかった。

「あら、沙良さん。どうしたの?」

 ドアを出た途端、廊下の向こうにいる義母に見つかった。わたしは腹立ちまぎれに「別に」と答えた。最近のわたしは彼女の親切さに応えたがらない自分に苛立ちを覚えていた。それがますます彼女への怒りとなり、理不尽にぶつけることとなった。そう、理不尽だとは自分でもわかっていた。

「育ち盛りの女の子が、こんな時間まで起きていては駄目よ。何をしてたの?」

「何でもないわ。お義母様こそ、赤ちゃんがお腹にいるのに夜更かししてもいいの?」

 義母は不安げな顔になった。それを見て、わたしはふとおかしな気分になったが、それを彼女への心配だとは認めなかった。

「お腹が、痛くて」

「え?」

「何故か少しお腹が痛くて、心配で眠れないの。お父様は眠っているし、どうしようかと思って」

 わたしは一瞬、おろおろした顔になっただろう。しかし薄暗くてわたしには義母の顔が見えないように、義母にもわたしの顔が見えていない。

 今、「お腹が痛い」と言ったから大丈夫。明日の夜中には会社があなたを「病院」に連れて行ってくれるはず。心配しないで。

 それだけの言葉をわたしは頭の中に積み上げた。それを彼女に発するのは勇気がいる。わたしは一瞬黙り、

「どうにかなるわ」

 と答えた。わたしは焦った。言葉を続けなければ。しかし義母は、そうね、と諦めたような声を出し、次に明るい声でこう言った。

「そうだわ。沙良さんのために新しい服を用意したのよ。今度は着てくれるといいわ」

 わたしは彼女がわたしに与えた服を一枚も着なかったことを少し申し訳なく思った。今度の服も、きっと着られない。彼女への意地のために着られない。

「ええ、じゃあ、おやすみなさい」

 わたしはそれだけ答えて、自分の部屋に戻った。わたしは義母に優しくするように言った静雄に、恨みがましい気持ちを持った。義母は廊下にしばらくいたあと、部屋に戻ったようだった。

 翌朝、義母はいくらか元気そうに見えた。わたしはさりげなく義母の持とうとした皿を手に取り、運んだ。義母は気づいていないと思う。気づかれたら、何となく困る。

「あなた、昨日は少し大変だったの。お腹が痛くて」

 父がぎょっとした顔で義母を見る。それに対し、義母は微笑んで言う。

「でも、沙良さんが励ましてくれたから助かったわ。もう、痛くないのよ」

「そうか」

 父はほっとしたように笑った。わたしはいつものように腹を立てながら食事をした。わたしが言ったのは、励ましの言葉ではなかった。わたしにはもっと言うべき言葉があった。

「沙良さん、ありがとう」

 義母の笑顔から、わたしは目を逸らした。自分でも、冷たい仕草だと思う。

 昼に義母がわたしを彼女のウォークインクローゼットの中に呼んだ。これはよくあることなので、わたしは何の期待もせずに中に入った。ウォークインクローゼットは父と義母の寝室に備わっている。だから必然的にその部屋を通ることになるので、それだけが嫌だった。

 ウォークインクローゼット内の両側に並ぶ、義母の華やかな服。それらは全てウェブでの通信販売で買ったものだ。服を買って贅沢をするのは自由なのに、わたしたち自身は自由ではない。いつもおかしなことだと思っている。わたしがものを買わないのはそういう理由もある。買い物が許されているのはきっと視聴者を楽しませるためなのだろうが、見る側の自分勝手さから生まれた矛盾に体を浸しているわたしは、義母が買い物をするのが好きではない。

 そういうことを考えているわたしをよそに、義母はクローゼットの中から彼女が取り出した。淡いピンクのワンピースだった。フリルやレースこそないが、色と形が少女趣味な感じがして嫌だった。これも、着ることはない。わたしは気まずく黙る。

「沙良さんはいつも地味な色の服を着ているから、女の子らしい服を着ているところを見てみたいの。きっと、可愛いわ」

 可愛くなんかない。わたしは苛立ち、ますます仏頂面になった。義母は戸惑ったようになり、どうして? と言った。

「沙良さんは女の子として一番素晴らしい時期に入ってきているのよ。どうして自分のよさを認めようとしないの? わたしは沙良さんのよさを知ってるわ。あなたは、とても思慮深くて可愛い女の子よ」

 わたしと義母の間に、沈黙が落ちた。義母は真顔でわたしを見ている。若くて美しい義母。彼女にそのように言われると、わたしは上から見下ろされているような気持ちになり、不愉快になった。ウォークインクローゼットから出た。義母は取り残され、わたしは去った。

 夜、麻酔剤が撒かれた。そのころわたしはベッドの中にいた。新しく戯曲を読んでいた。「ロミオとジュリエット」。どうしてもわたしは恋愛ものばかり読んでしまうらしい。

 眠気を感じた。それから、一気に眠った。このとき、わたしの家族は全員眠っていただろう。義母は「病院」に連れて行ってもらえるのだろうし、新たなヒト薔薇が来たりするのかもしれない。わたしが眠る直前にそう考えたと思ったのは、のちに作り上げた偽の記憶のためだろう。麻酔剤は考える暇も与えてくれないから。

 朝、やってきたのは義母とその子の遺灰が入った白い壷だった。わたしは数年ぶりにわたしたちの公式サイトを見、白い立方体の中から飛び出す黒い文字によって、大袈裟に、悲劇的に、彼らの死が喧伝されているのを見た。


     *


 薔薇が満開だった。赤い薔薇、白い薔薇に加え、紫色の薔薇、二色の薔薇、黄色い薔薇、緑の薔薇、ピンクの薔薇、原始的な一重の薔薇など様々だった。わたしはその中をゆっくりと歩き、薔薇の芳香に包まれていた。たくさんの薔薇。競うように咲いている。薔薇の花弁に触ると、より繊細なビロードのようで、感動したわたしは唇を噛み締めなければならなかった。感動してはいけない、と自分に命じていたからだ。待ちに待ったこの日が、こんな日になるとは思っていなかった。重苦しい気分に、自分を押し潰してしまいそうだ。

 静雄が無言でわたしに近づいてきた。そして、訊く。

「何色がいい?」

「赤。鮮血のように明るい赤がいいわ」

 再び歩き出す静雄に、わたしはついていく。今日の静雄からはあまり妙な匂いがしない。

 薔薇の通路は狭くて、棘がわたしの喪服に絡みつく。薔薇を傷つけないようにそっと進む。静雄は薔薇園の中央で立ちどまると、剪定ばさみを枝の隙間に入れ、一番見事な赤い薔薇を切った。花びらが程よく中に詰まっていて、また、わたしが言った通りの色をしていて、この日のために誂えたかのようで、美しいけれど何だか悲しかった。

 静雄も喪服を着ていた。黒い背広に細い黒ネクタイ。いつも作業着に身を包んでいる静雄に、それはしっくり来なかった。それに、痩せているしまだ十七歳だから、背広が似合わないのだろう。私たちは子供だ。改めて思った。

「行こうか、沙良」

 一輪の薔薇を傷だらけの手に持ち、静雄はわたしを呼んだ。わたしはうなずき、彼と一緒に歩き出した。鶯が鳴いていた。わたしは何とも思わなかった。もしかしたら以前から鳴いていたのかもしれない。

 静雄の両親とわたしの父が石畳の庭に立っていた。わたしと静雄を見ている。静雄の両親は普段ならば明るい人たちなのに、仮面を被らされたように表情が固まっていた。背の高い静雄の父が、わたしたちを手招いた。大きな目をした静雄の母が、振り向いてわたしの父の肩を叩いた。父がわかっていると言うかのように、うなずいた。悄然としている。わたしは父を見てそう思った。父のその姿を見たのは二度目だと、わかった。

 近づくと、父は静雄に軽く頭を下げた。

「静雄君、ありがとう。君の大切な薔薇なのに」

 声がかすれていた。今にも崩れ落ちそうな震える膝を見てわたしは驚き、次にやっと父もわたしと同じように血の通った人間なのだと認識した。お父様。声に出そうとして詰まった。静雄がわたしを見てから言う。

「選んだのは沙良さんです」

「沙良が?」

 父がわたしを見る。わたしは目を逸らした。それから、父をもう一度見つめた。父は、義母を愛していたのだ。強く。失ってこんなにぼろぼろになってしまうほどに。わたしは無言でうなずいた。

「ありがとう、沙良」

「いいの。わたしはお義母様に優しくしていただいたから、いいの」

 父の唇がひくひくと動いた。多分微笑もうとしている。わたしと父はうろたえていた。言葉をまともに交わすのは数ヶ月ぶりだった。静雄がわたしの背中をぽんと押した。励まされたわたしは、ようやく声を出す。

「お義母様に、優しくすればよかったわ」

 父はやっと微笑み、言った。

「結はお前を愛していた。親だから、そうできただけで充分だと思ったはずだよ。結はよくしてくれただろう?」

 わたしはうなずいた。声を出したらかすれてしまいそうだった。

「わたしもお前にそうできたらよかったけどね。何となくうまく行かなくなってしまった」

 下を向く。

「ごめんな」

 涙目をしばたたかせた。父の思いはそれだけで十分に伝わってきた。わたしは、父を嫌っていたことを後悔した。わたしこそ、ごめんなさい。そう言えばいいのだが、できなかった。生母の影が頭の中をよぎったからだ。

「今から結たちの灰を撒くよ。沙良も一掴み持って。敏夫さんも敬子さんも、静雄君も」

 わたしたちはめいめいに父の持つ壷に手を入れた。灰はさらさらと乾いていて、白かった。これが美しい義母と、見ることのなかった弟妹のどちらかのものだと考えるのは、到底できなかった。

 庭に、撒く。少しずつ、少しずつ。見えないくらいうっすらと、石畳やその間の土の間に積もる。義母とその子の灰はそのまま風雨にさらされ、この庭の一部となるだろう。わたしたちの中の記憶も風化して、影を失いかけても、この場所がなくなっても、義母たちはどこかにいる。ふと顔を上げると、父は立ち尽くして壷の中を覗いていた。空になったのであろうそれを、父は見つめ続けている。静雄が薔薇を庭の中央に置いた。この花は、腐ってしまってもこの場所にあるだろう。

 森から気配を感じた。黄薔薇が白薔薇の手を握って、立ち尽くしている。わたしは急激に苛立った。そして振り返ると、わたしを背後から撮っている空中小型カメラをてのひらで叩いた。わたしたちのこの姿を見て、フィクションのために流す涙を流している、無数の目を思い出してしまったからだ。

「くたばれ」

 わたしは小さな声でつぶやいた。

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