4 白薔薇

 スラブ人向けチャンネルのあの少女が、玄関ホールでこの間の茶髪の少年と話している。早口で、音が複雑で、彼らの言葉は容易には聞き取れない。聞き取れても、理解することはできないだろう。少女は頬を火照らせ、はにかむように笑い、自分が話をするときは目をくるくる回して表情を変え、相手の少年が話をするときは頻繁にくすくすと声を上げる。とても愛らしい。少年はそんな少女を愛おしくて仕方がない様子でじっと見つめ続けている。やっと会話が終わると、二人は何事かささやき合いながら抱擁し、口づけを交わした。わたしは無意識にリングに触れて映像を消していた。

 数日、外に出ず「マノン・レスコー」を読んでいた。最後まで。わたしは静雄に対して気まずい思いを持っていた。

 両親との関係も、特に変わっていない。相変わらずわたしは皮一枚下で二人を軽蔑しているし、時折それを態度に出す。義母は優しい、と思う。そこまでしても忍耐強くわたしに親切に振舞おうとしている。父は、わたしに苛立っているだろう。けれど言葉に出して非難したりはしない。

「沙良さん!」

 思考を遮る声に驚く。立ち上がって窓の下を見ると、黄薔薇がいた。笑っている。わたしは、どうして来たの、と慌てて尋ねる。

「白薔薇が話したんです。わたしの名前を呼んだんですよ」

 何のことだかわからない。とにかく両親に黄薔薇を見られたくはない。知ってはいるだろう。けれど彼らが黄薔薇の存在を目にすると、面倒なやりとりに発展するだろうことが嫌だった。

「わかったわ。すぐに池に行くから戻って」

 黄薔薇はにっこりと笑い、走っていった。その姿は以前と変わらず美しく、中性的だったが、どこか大人びて見えた。黄薔薇の精神はどれくらい育ったのだろうか。わたしは考えながら身支度をし、家を出るべく部屋のドアを開け、歩き出した。

 池には、三人の人影が見えた。黄薔薇がいた。静雄がいた。もう一人、白い花弁が短い、少年のヒト薔薇。

 少年と決めつけたのは、彼の顔立ちが面長で、黄薔薇のような甘い顔立ちではなかったからだ。表情もどことなく静雄に近いものを感じる。しかし彼には人間の生殖器に似たものはなく、黄薔薇と同じような中性的な体型をしていた。薔薇が分かたれた性別を持たないように、ヒト薔薇も両性を持つのだった。静雄は丹念に白薔薇の体を点検していた。その様子を見ても、黄薔薇のときのような不快感はなかった。

「ヒト薔薇は、手入れいらずだね」

 静雄が白薔薇に笑いかけ、白薔薇は無言で彼を見つめた。静雄はわたしにも視線を向け、わたしは彼がわたしの存在を許していることに安堵していた。そもそも、あのような些細なことに動揺するわたしが滑稽だった。

「ヒト薔薇は、虫もつかないし病気にもならない。羨ましいよ。おれの薔薇たちも同じくらい丈夫ならいいのに」

 静雄の薔薇。ふと隣の薔薇園を見ると、完全に満開のときよりも少し劣るくらいの色合いで薔薇が咲いていた。満開まであと何日だろう。

「わたしの白薔薇」

 黄薔薇が白薔薇をぎゅっと抱きしめた。とても嬉しそうだ。黄薔薇を嫌っていたはずなのに、わたしは微笑ましく感じていた。

「あなたは誰ですか?」

 白薔薇がわたしを見て、黄薔薇と同じく正確すぎる発音で尋ねてきた。その声は黄薔薇よりもいくらか低く、男とも女とも取れる、不思議な声だった。

「あの人は沙良さんよ」

 黄薔薇が白薔薇を後ろから抱きしめたまま、わたしの代わりに答えた。辺りにかすかな薔薇の香りが漂っている。多分黄薔薇の香りだ。

「とっても意地悪で、笑わないのよ」

 くすくす笑う黄薔薇を、わたしは再び憎らしい気持ちで見ていた。いや、本当に憎んでいただろう。わたしはさっと身を翻し、静雄の薔薇園に向かう。

「沙良」

 静雄の声が後ろから聞こえる。

「どこに行くの」

 気づくと、静雄はわたしの隣にいた。わたしは唇を一旦結んで、答えた。

「あなたの薔薇園に向かってるのよ。見てわからない?」

「沙良は怒りすぎるよ。どうしてそんなに色んなものが気に食わないんだ」

「じゃあ静雄さんは満足なの?」

 わたしは立ちどまり、静雄はそれに倣う。丁度静雄の家の芝生を踏んだ辺り。すぐそこに薔薇園が見える。たくさんの薔薇の蕾。広い面積を占める多くの株に、青銅のアーチに絡む蔓薔薇。赤と白の薔薇が開いてはいるが、まだ緑が多い。淡い黄色の薔薇の蕾が、風に揺れている。

 きっと撮られている、とわたしは思った。この薔薇園を背景にしたわたしたちを見ている無数の目。わたしは喉の奥に塊があるように感じながら続けた。

「カメラの向こうに世界がある限り、わたしは気に食わないのよ。何もかも。それに、わたしは、とても、醜くて……」

 言葉が途切れ途切れになる。

「お義母様や黄薔薇のようには美しくなくて、わたしは愛されない」

 声が詰まる。最後の言葉はギターの弦を強く弾いたような終わり方をした。静雄は体をかがめて、わたしの顔を覗き込む。

「誰が言ったの」

 静雄の目を見ると、きらきら光ってきれいだった。わたしは泣いていた。静雄の目の輝きが、涙を通して見るせいで余計にまぶしく見えた。

「カメラの向こうにいる、誰か」

「そんな奴は、ほっとけばいいよ。大丈夫だから」

 笑っている静雄の口からあの妙な匂いがした。大丈夫ではない、と思った。何が大丈夫なのだろう。そんな言葉は、間に合わせの嘘に決まっている。わたしは静雄から体を離し、一人で涙を拭いた。

「静雄さん、黄薔薇はいつ枯れるの?」

 え? と静雄が間の抜けた声を上げる。

「十二月ごろ、だけど」

 十二月ごろ? わたしは驚き、恐ろしくなった。今年以内に、彼女は死ぬのだ。一般的な薔薇は何年か生きる。ヒト薔薇は作られたばかりの品種だから、寿命が短いのだろうか。わたしは黄薔薇の顔を思い出した。美しい黄薔薇。無邪気で明るい。黄薔薇がさっき言った言葉がわたしの中を行き来する。すると、わたしの中の汚い誰かがわたしの唇を動かした。

「黄薔薇を受粉させたら、どうなる?」

 静雄は眉をひそめながらわたしの目を覗き込む。きっと、ぎょっとするような邪悪な目をしているのだろう。

「喉が腫れて、醜くなるよ。大きな実ができるから」

 醜くなるのか。いいじゃないか。わたしはそっと微笑む。

「なら、黄薔薇に受粉させたいわ」

 不可能ではないけど、と困惑しながら静雄が言う。

「だって。植物って、命を繋がなければならないんでしょう?」

「そう言ったけど」

 でも、と静雄が口ごもる。

「あれ以上手を加えてやりたくない。自然なままでいさせたいんだ」

 そう、とわたしはがっかりしたような声で答える。静雄はわたしの様子を見てほっとしたようだが、わたしは、断固として実行するつもりでいた。

 庭一杯に広がった静雄の薔薇たちが、風にそよそよと揺れている。

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