9 狂気
暑さが収まってきた。わたしは静雄と喧嘩をした。静雄と喧嘩をするのは人生で初めてだ。静雄は酒を飲んでいたらしく、あの妙な匂いをぷんぷんとさせ、臭かった。
「沙良が言ったんだろう?」
静雄は少し大きな声で言った。薔薇の剪定をしながら。鋏を閉じるたびに、薔薇の葉や、茎や、枯れた花の残骸が地面に落ちていく。わたしはそれを黄薔薇の体の一部のように思いながら、叫んだ。
「本当に望んでなんかいなかったのよ。静雄さんが無理にやるって決めたんだわ」
静雄はなおも薔薇の株を切り刻む。眉根にしわを作りながら叫び返す。どこかで見たことのある、酔っ払いそのもののように。
「もう手遅れだ。それに、命を繋がなければ薔薇たちは人生の終わりに辛い思いをしたはずだ」
「そんなのわかるの? わたしたちの人生はまだ始まったばかりで、薔薇たちはもうすぐ終わるのよ。静雄さんに黄薔薇の気持ちがわかるの?」
静雄は手をとめた。わたしをじっと見る。声のトーンが静かになる。
「沙良、じゃあ沙良はわかるのか? 黄薔薇は自ら望んだんだぞ」
わたしは言葉に詰まる。静雄は同じトーンで続ける。
「命を繋がなきゃ……」
「狂ったように同じことを繰り返さないで!」
わたしは叫ぶ。静雄が顔をしかめてわたしを見る。
「狂ったようにって?」
「静雄さんはおかしくなったのよ」
「何? それ」
「わたしのお母様も言ってたわ。繰り返し繰り返し『わたしたちは環視されてるのよ』って」
「そう。沙良のお母さんがおかしくなったのは知ってるけどね、それとおれをくっつけないでくれよ。おれが言っているのは薔薇たちのことを考えたら辛くてもこうするしかないってことをやったということだけなんだ。それを狂ったように、だとか言われると、本当に腹が立つよ」
わたしは黙った。静雄はしばらく苛立って、すごい勢いで薔薇を切っていたが、急に手をとめた。わたしの顔を恐る恐る見る。沙良、と優しい声を出す。
「静雄さんはわたしのお母様のことを軽蔑してるのよ」
静雄が慌てたように、わたしに近づいてくる。
「静雄さんは酒や煙草に逃げることができるから、お母様の辛さがわからないのよ」
沙良、と静雄は言った。わたしはそれを皮切りに、静雄の手を振り払って走り出した。切り落とされた薔薇の残骸を踏み散らして、義母の用意したオレンジのフレアスカートにかぎ裂きができるのも気にせず、走った。涙は出なかった。もう出ることはない気がしていた。
*
少しずつだけれど、涼しくなってきた。黄薔薇はかなり無口になっていた。唇も、すぼんだ形になってしまった。黄薔薇は足だけを池に浸け、横たわっている。ありとあらゆる体力がなくなってきたようだ。
わたしは「小鳥たち」を読む。隠微な物語は、黄薔薇の好みだろうか。わたしはその好みもろくに問えないまま、黄薔薇のために読んだ。十五歳になったわたしの唇には不似合いであるような気がする言葉が、辺りに漂っては消えた。
森の中の白薔薇は、日々薄汚れていく。
*
森の落葉樹の色が変わってきた。静雄の薔薇園は、秋の開花時期を迎え始めたようだ。わたしは遠くの祭りを眺めるように、華やかな薔薇たちを見た。わたしが毎年楽しみにしていた秋の薔薇。今は何の感慨も引き起こさない。
わたしはリングの音楽機能でショパンのノクターンを黄薔薇に聞かせた。しっとりとした優しい曲だ。もう黄薔薇は身振り手振りさえやめてしまった。それでも音楽くらいは聞こえるかもしれないと、わたしは長い時間をかけて音楽を鳴らした。ノクターンが最後まで終わると、一曲一曲が長く力強いポロネーズを聞かせた。次に明るく陽気なワルツ。
不意に、黄薔薇の手が上を向き、人差し指を立てた。どういう意味かわからず、わたしは思わずその手を握った。木の枝そのものの手触りを感じながら、必死で意味を考える。
「最初の曲が聴きたいようです」
誰かの声がして、わたしは振り向いた。白薔薇がそばに立っていた。かなり汚れている。白薔薇は池の水に足を浸したが、足まで広がったその汚れは落ちない。どうやらそれは染みのようだった。何かの病気にかかっているようだ。
「最初の曲を聞かせてあげてください。黄薔薇は気に入ったようですから」
白薔薇は染みのある顔をわたしに真っ直ぐ向け、真顔でそう言った。わたしはうなずき、ノクターンを鳴らした。指は力を失って落ちた。青ざめたわたしに、白薔薇は、
「大丈夫。まだ生きています」
と言った。
*
それからは毎日を黄薔薇と過ごした。どんなに寒い日も、雨の日も。黄薔薇はもう全く動かない。完全に、動く力を失ってしまった。白薔薇は、わたし以上に黄薔薇と長い時間を共有している。もうわたしの存在はどうでもいいようだった。彼はいつでも黄薔薇のそばにいた。彼の染みは日々濃くなっていく。
静雄は十月の末から度々わたしたちの元にやって来た。黄薔薇の実の大きさを見て、白薔薇に薬剤を塗り、帰っていく。わたしとは口を利かない。わたしと静雄の間にはあのときの喧嘩がくすぶっている。
黄薔薇は枯れていく。体がしなしなと柔らかくなり、ついには乾燥して硬くなっていく。枯れていく植物そのものだ。わたしは震える手で黄薔薇の手を握った。かすかに、黄薔薇の握力を感じた。白薔薇は無表情だ。
*
酷く寒くなってきたある日、静雄は言った。
「そろそろ実をもがないといけない」
わたしは唇をわなわなと震わせ、静雄を見た。真顔だ。わたしはわかっていた。もう黄薔薇は死のうとしているのだと。けれど、実を奪われることは完全なる死を示すことであるような気がして、わたしは恐れた。
「大丈夫。マシンは体中を流れてるんだ。人間と違って頭を失ったからって死ぬことはない。早く実をもがないと実が腐ってしまう」
そう説明されても納得できない。わたしは静雄に頼んで、もう少し待つように言った。静雄は、首を振った。
「種を腐らせるわけにはいかないよ。黄薔薇が残そうとしている種だよ」
静雄はわたしをどかし、黄薔薇に手を触れる。白薔薇は何の反応も見せずに黄薔薇を見つめているだけだ。静雄が寝転んでいる黄薔薇の真っ赤に熟した頭部に手を触れ、人間の頭の三倍ほどもあるそれに腕をかけた。右手を後頭部に、左手を胸元に置く。静雄が力む。細い木が折れるような硬い音がして、黄薔薇の頭部が、実が、地面に転がった。
*
全てはわたしの発案だった。醜い自分が嫌いなわたしは美しい黄薔薇を憎み、醜くしてやろうと受粉を提案した。ぞっとするような、汚いわたし。黄薔薇が変形していくほどにわたしは自らのコンプレックスが消えていくのを覚えたが、本当に醜いのは外見ではなく内面だと、ようやくわかるようになっていた。けれどこの醜さを解消するには色々なことが手遅れだと、わたしは知っていた。義母は死に、黄薔薇も死につつある。黄薔薇はもう言葉を理解しているのかも怪しい。わたしは泣いた。大きな声で泣いた。
*
泣いているわたしに、静雄は手を触れようとした。わたしはそれを振り払い、しゃがみこんで顔をスカートに埋めた。静雄は黄薔薇の頭を足元に置いていた。そんな静雄と理解しあうなど絶対に不可能だった。顔を上げて見ると、白薔薇は感情を示さず、池の淵に座っていた。その目から、涙がこぼれてくる。薔薇も泣くのだと、初めて知った。ヒト薔薇に悲しみを植えつけ、涙を流す機能を備えさせた人間という生き物は一体何なのだろうとわたしは思った。
「種はおれが用意するから、これをどうするか、二人で決めよう」
静雄は言った。わたしは首を振り、泣き続けた。静雄は行ってしまった。彼は自分の薔薇にするように、刃物で黄薔薇の頭を切り裂くのだろう。中にある黄薔薇の種を取り出すのだろう。非情だ。けれど、本当に非情だったのはわたしだ。言葉が呪いになって自分に降りかかってきたのだ。信心深くないわたしでもそう感じた。わたしは、何て醜いのだろう。叫び、泣いた。
うめき声がして、顔を上げると白薔薇が嗚咽を漏らして泣いていた。黒く染みだらけになった顔を歪め、何度もてのひらで涙を拭いていた。わたしは泣き声を抑えた。本当に泣くべきなのは彼だと知っていたからだ。黄薔薇の明るい美しさを思い出した。彼の脳裏にあるのもそんな彼女であるだろうと思った。わたしは慎もうと努力した。しかし、泣き声は堰を切ったかのように突然漏れ出し、結局わたしは白薔薇より泣いた。情けなかった。
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