10 お葬式
わたしはぼんやりとしながら三日間を過ごし、白薔薇のことをあまり思い出さなかった。黄薔薇のことだけ。しかしようやく重い腰を上げて黄薔薇の体を見に行くと、白薔薇が死んでいた。池の淵に座った姿勢で動かなくなっていたのだ。わたしは白薔薇の頬に指で触れた。植物の感触だった。黄薔薇の体にも触れた。黄薔薇の体は完全に乾いていた。
お葬式をしなければ、とわたしはつぶやいた。黄薔薇と白薔薇の葬式をしなければ、彼らは救われない。約束をしたのだから、しなければいけない。
わたしは迷いなくリングで静雄を呼び出した。静雄は飛んできて、息を切らせながらわたしの肩に触れた。大丈夫だよ、と静雄は言った。葬式をしよう。黄薔薇と白薔薇のために。
わたしたちは、義母の葬式のときのように喪服に着替えたりはしなかった。作業が必要だったからだ。まず、白薔薇を池から出す。黄薔薇も。そして、まずは黄薔薇から運んだ。森の中へ。
乾ききった首なしの黄薔薇を運ぶことは、何の感情も起こさなかった。静雄が黄薔薇の上半身を持ち、わたしが下半身を持つ。水分が抜けきっているので軽かった。森は暗く、湿り、枯葉が積もり、ほとんど冬だと思わせる冷たい風をわたしたちに浴びせた。フェルトのコートを着ていたから、それほど辛いことのようには思わなかった。静雄も分厚いジャンパーを着込んでいる。枯葉でできた細い道があった。わたしたちは幼いころですら通ったことのないその道を、黄薔薇の死体と共に歩いた。
カメラがついてくる。ゆっくりと浮遊し、ときにはわたしたちの前に回る。わたしはそれについて何とも思わなかった。見たければ見ればいい。そう考えていたかもしれない。
森はどんどん薄暗くなり、寒くなっていく。静雄の息遣いが聞こえる。わたしの呼吸も聞かれているだろう。静雄は時折わたしを見た。わたしもそうした。わたしたちは今、一緒にいる。喧嘩をした。互いを嫌った。けれど一緒にいる。わたしは不思議と穏やかな気分だった。
「ああ、『外』に近づきすぎてしまった。戻ろう」
静雄が言ったので顔を上げると、わたしたちは全面ガラス張りになった、森の外側の壁に近づいていた。その向こうにはビル群が見える。どれも巨大で背の高いビルだ。日光を浴びて輝いている。わたしは「外」を見てしまうことは初めてだったが、特に驚かなかった。わたしたちの家や庭や森が巨大なビルの上階にあることは知っていた。
わたしたちのいる場所には高い天井から雨や霧を出す装置が備わり、その天井はありもしない空模様を映し出す。わたしたちのいる場所がここまで人工的にできていて、しかもその気になれば簡単にそれを知ることができるという仕組みは、とても奇妙に思えた。中にいる登場人物たちがそのことを知り、苦悩しながら生きる様を見て喜ぶ人間と言う生き物は、何て醜悪なのだとも。
わたしたちのようにリングやコンピュータを与えられず、自分たちを閉じ込めている者が何者であるかを知らない登場人物も、チャンネルによってはいる。彼らはその者を、「神」だと思っている。自分たちを操る、得体の知れない強大なもの。それが「人間」であり「群集」であることを、彼らは知らない。知ってしまったら、狂ってしまう場合もあるだろう。生母のように。
わたしは決めかねている。このまま父の言うとおり、この事実を受け入れ、従順に生きるべきなのか? それとも母のように狂ってしまうまで反抗するべきか? 大人になるということは、周りの人々に八つ当たりをすることではないとわたしは知った。受け入れることの利点も知った。けれど、生きるには? 生きていくにはどちらを選ぶべきなのか?
「ここにしましょう」
わたしは静雄に言った。
「黄薔薇と白薔薇に外の世界を見せてあげましょう」
静雄はわたしを見てからガラスの外を眺め、そうだね、と答えた。わたしたちは、黄薔薇を地面に置き、道を戻った。
今度は白薔薇を運ぶ。わたしの気持ちはますます穏やかになっていく。白薔薇は黄薔薇よりも遥かに重い。だからわたしは先程よりも疲れ、息が乱れている。時には白薔薇を地面に置いて休む。白薔薇は座った姿勢のまま固まっていたので、運びにくい。けれど、わたしと静雄は諦めず、白薔薇の体を持ち上げた。
「沙良、黄薔薇の実をばらしたよ」
「そう」
静雄の突然の言葉に、不思議とわたしはショックを受けたりせず、静かにそう答えた。
「種はおれが育てるよ。今回のことは無責任だった」
「わたしが育てるわ」
静雄はわたしを見た。驚いているようだ。
「黄薔薇の種は、黄薔薇の子だわ。わたしが育てないでどうするの。わたしと黄薔薇は友達だったのよ」
静雄はわたしを凝視したあと、視線を道の先に移した。暗い落葉樹の森は、わたしたちが歩くたびに枯葉の割れる音をさせる。
「じゃあ、そうしようか」
静雄はつぶやいた。
枯れきった黄薔薇の隣に白薔薇を置く。二人は向かい合う格好で寝転んでいる。このあと、どうすればいいのか考えていなかった。わたしは二人の葬式のために、何をすればいいのだろう。
隣で、静雄が動く気配がした。見ると、両てのひらを胸の前で合わせて目を閉じていた。何をしているのだろう、と考え、これは仏教の祈りの形なのだと気づいた。わたしは迷ったが、同じようにした。目を閉じ、心を空っぽにしていく。耳に音が届かなくなる。静かな時間。この時間が大切なのだと感じた。わたしは、祈った。
わたしは、生母を思い出した。彼女から失われたものを。義母を思い出した。あの艶やかな微笑みを。その胎児を思い出した。彼あるいは彼女の未来が奪われ、わたしが生きていることを。
目を開け、まだ祈っている静雄を見た。静雄は、涙をふた筋流していた。
*
この瞬間を、見られている。この瞬間に、人々はフィクションのために流す涙を流す。わたしは相変わらずそれが嫌いだった。気にしないだけだった。彼らにわたしの不快感を伝えることが、無意味だと知っていただけだった。
わたしは考える。わたしが生き抜くためには何が必要か。感情だ、とわたしの本能が答える。では、感情を存在させるためには何が必要か。反抗だ、とわたしの理性が答える。そのためには何が必要か。
*
静雄は涙を流した。そのことはわたしにとって重要なことだった。わたしが彼を許すために。彼を理解するために。静雄は自分の使命を果たすために辛い思いをしたのだ。ただ、その使命感の理由が、わたしにはまだわからない。
訊けばいいのだろう。しかし、わたしたちはお互いの気持ちを伝え合うことが得意ではない。
そのまま冬になった。薔薇はあまり咲かず、外は寒いので、わたしと静雄は主にリングの通信機能で緩やかな交流を続けた。黄薔薇の種はわたしの家の冷蔵庫の中にある。春には池に撒くつもりだ。
静雄はわたしに優しくした。正月に、静雄の一家がわたしの家を訪ねてきたときは、勉強を教えてくれた。わたしは真面目に勉強している。義母の言った通りにするためではない。ただ、知りたいからだ。世界を構築する、ありとあらゆるものを。静雄は助けになった。わたしは人間の心という、わたしにとって最も未知の分野に手を出し、理解を始めていた。それはわたしを混乱から解き放つ、大切な課程だった。
*
春になった。
黄薔薇と白薔薇の子たちが、わたしを囲んで騒いでいる。わたしに物語を聞かせるようせがんでいるのだ。彼らの見た目は黄薔薇と白薔薇を混ぜたもので、二人そのものという者はいない。白い薔薇、鮮やかな黄色い薔薇、クリーム色の薔薇。彼らは蕾だ。七つの種から生まれて育った四人の薔薇たちは、顔もそれぞれ違う。彼らの両親と同じく端正だが、気の強そうな顔、優しげな顔、丸い顔、面長な顔と、様々だ。彼らは黄薔薇たちの顔が一生変わらなかったのと同じように、この顔を死ぬまで持ち続けるのだろう。十五歳くらいの、少年少女の顔。
わたしはアンデルセン童話から始める。メイと名づけた、黄薔薇の花弁を最もよく受け継いでいる少女は不満の声を上げる。そんな甘っちょろい話は嫌いだ、ポーの「黒猫」を読んでくれ、と言うのだ。わたしは笑う。それはあなたたちの母親が一番嫌いだった物語だと伝えると、彼らはきょとんとする。彼らは両親の顔を見たことがない。薔薇とはそういうものなのだから話す必要はないと思うのだが、わたしは思わず話してしまう。黄薔薇と白薔薇の話を。薔薇の子たちは興味津々に聞く。
メイは言う。
「わたしたち、見たことがあります。萎びた薔薇の体が、ガラスの内側に置いてありました。あれがわたしたちの両親なのですね」
わたしは縦横無尽に駆け回る薔薇の子たちが、そんなところに行っていたことに少し驚きながらもうなずく。メイは無邪気に、
「わたしたちが死んだら、同じ場所でお葬式をしてくださいね」
と笑う。わたしは一瞬息を詰まらせ、ようやくうなずく。きっと、するだろう。静雄と一緒に。
静雄は、最近わたしを避けている。どうしてなのか、わからない。きっと、何かまた一つわたしに言いにくいことができたのだろう。
*
父は書き物を続けている。かなり気持ちに整理がついてきたようだ。ときどき薔薇の子たちに声をかける。薔薇の子たちは物怖じせず、父を囲んで質問攻めにする。ついには父に物語を読ませ始める。
わたしは「ロミオとジュリエット」を読み終え、恋の話以外にも手をつけ始めた。まだ精神年齢の低い薔薇の子たちは恋の話にあまりぴんと来ないらしく、わたしはもっとわくわくする、面白い物語を探さねばならない。
スラブ人向けチャンネルの二人は、春の初めに結婚式を挙げた。わたしたちのものと同じく小規模のチャンネルの登場人物である二人は、身内だけの慎ましやかな式を選んだようだ。視聴者にアピールする派手な結婚式を挙げても、仕方がない。幸福そうな二人の結婚式を最後まで見終わり、わたしはもうこのチャンネルを見ることはない、と自然に思った。
生母はまだ同じことを言い続けている。わたしは彼女のために、相変わらず胸を痛めることしかできない。
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