11 愛について
薔薇が満開だ。赤い薔薇、黄色い薔薇、白い薔薇……。わたしは相変わらず薔薇の子たちに物語を読み聞かせするのに忙しい。薔薇の子たちは、かなり大人になってきた。わたしと静雄の関係に興味を持ったようだ。
静雄はまだわたしを避けていて、わたしが薔薇園に行くと何かと理由をつけてどこかへ行ってしまう。心なしか、喫煙や飲酒の回数もまた増えたようだ。匂いがする。何が彼を悩ませるのか、早く決着をつけたくてじれったかった。薔薇の子たちと薔薇園に入り込み、静雄を待つ。静雄がわたしのものだと決めているあのピンク色の薔薇の前で。この薔薇は、今年もきれいに咲いたようだ。内側の色が濃く、外側が淡い。美しい薔薇だ。
「あ、静雄さんです」
メイが叫んだ。わたしが振り向くと、薔薇の子たちが一斉に飛び出して、淡い紫の家の、もじゃもじゃとした木々に囲まれた玄関から出てきた静雄を取り囲むところだった。静雄は戸惑いながらも笑い、わたしを見ると笑顔を弱める。
メイが先頭となって、薔薇の子たちは静雄を引っ張り、押し、わたしの元へ連れてくる。静雄は逆らわない。わたしたちは、薔薇園の真ん中で向き合う。
最初に口を開いたのは静雄だった。
「計画的犯行だな」
苦笑している。わたしはむっとして答える。
「静雄さんがわたしを避けるからよ」
静雄は無言で首を撫でた。ちらりとわたしの横のピンクの薔薇の株を見る。
「すごく言いにくいから黙ってたんだけどさ」
「何?」
「今度、おれの家におれの妻となる人が来る」
わたしはぼんやりと静雄の背景を見た。紫色の薔薇、白い薔薇、一重の薔薇、薔薇のアーチ……。静雄の手がわたしのほうに伸びて、途中でとまる。
「どうしてこういうことになるんだろう」
「情報源は?」
「決まってるだろ? おれたちのチャンネルの公式サイト。大々的に宣伝してたよ」
力なく静雄が笑って、リングから出てきた画面を見せる。白い立方体に浮かぶ立体的な赤い太字が、彼の写真と共に静雄の結婚を宣伝していた。わたしは黙る。一秒黙って何か言うつもりが、十秒も、二十秒も黙る。やっと出てきたのは、こんな言葉だった。
「薔薇の子たち、よく育ったでしょう?」
静雄の後ろでじゃれていた薔薇の子たちが、遊ぶのをやめて笑う。わたしは、薔薇の子たちの育つ過程を、詳細に話す。一人目が殻を破ったときのこと、最後の一人が池を出たこと、芽吹かなかった三つの種のこと、読み聞かせした物語のリスト。静雄は何も言わずに聞いてくれた。
「黄薔薇と白薔薇も、こうしてちゃんと育てればよかったわ」
「大丈夫。友達になったんだろう?」
わたしは笑った。悔いはたくさんあるが、それだけは本当だった。
「薔薇の子たちも、いずれは受粉するわね。自家受粉もありうるし、互いに受粉しあうこともありうるわ」
「そうなったらおれが処理するよ」
「いいえ。わたしは自分でやるわ。薔薇の子たちはもうパートナーが決まってるんだもの。わたしは薔薇の子たちが実ったら、自分でその処理をするだけよ。静雄さんは、薔薇の子たちに実らせたいんでしょう?」
静雄は、一瞬ののち、決心したかのように言った。
「緩やかに反抗するんだよ」
わたしはどういう意味かわからなくて、彼の顔をじっと見た。彼は十八歳の年齢にふさわしい、少し力強い顔立ちに変わっていた。体つきも、心なしかがっしりしている。
「子孫を残すことはすなわち、カメラの向こうの連中に反抗する唯一の手段なんだ。おれが子孫を残し、いつか誰かがここを出る。それがおれの希望で、おれの緩やかな反抗なんだ」
わたしは目を丸くした。静雄は続ける。
「子孫が自由を手に入れることは、おれの自由をも表す。そう考えたんだ。黄薔薇と白薔薇はおれたちそのものに見えた。彼らが好き勝手に作られ、変えられ、苦悩しながら生き延びさせられていることはおれたちと同じに見えた。だからおれは提案した。白薔薇が嫌がっても、黄薔薇が望んでいたからつけ込んだ。結果、黄薔薇と白薔薇は子孫を残した。薔薇の子たちは、おれの最初の希望だ。そうだ。結局は自分のためだったんだよ」
薔薇の子たちはいつの間にか薔薇園の外に出て、森に向かって走っている。
「結さんが亡くなって、その子が失われて気づいた。おれたちに必要なのは希望で、未来で、自由なんだ。そのためには緩やかな反抗が必要なんだ。おれは、命を繋げたいんだ。それは自由になることに繋がってるから」
静雄は苦しそうに言った。わたしは、自由という言葉に戸惑う。自由とは何だろう。例えば、今自然に湧き上がる、この静雄への感情は? 唯一カメラの向こうの彼らが操ることのできない、わたしの心から生まれるこの感情は? 全てががんじがらめではない。わたしたちは自由を持っているはずだ。
わたしは静雄に近づき、彼の手をぎゅっと握った。見上げると、至近距離に静雄の顔が見えた。驚いた顔をしている。
「わたしはね、外見にコンプレックスを持ってたの。自分を醜いと思ってたの」
「そんなことないよ」
静雄が上ずった声で言う。
「それだけじゃなかったの。わたしが本当に醜かったのは、内面だったの。わたしの心だったの。わたしは未だにそのことについて考えるの」
「沙良はきれいだよ」
静雄がわたしを抱きしめた。わたしは背中に回された静雄の腕が痛いくらいわたしを締めつけるのを感じる。煙草の匂いがする。酒の匂いがする。静雄の周りに漂う、わたしが好きではない匂い。けれど嫌ではない。彼の弱さは、嫌ではない。
わたしはただ、驚いていた。わたしはわたしを美しいと思ってもいいのだろうか。自分を認めてもいいのだろうか。静雄の言う、緩やかな反抗に加わってもいいのだろうか。
わたしは怯えながら言ってみる。
「愛してるわ」
静雄は一言、
「うん」
と答えた。頬が密着しているので、その声はわたしの頭の中で響いているように聞こえた。
薔薇。薔薇が咲いている。ピンクの薔薇、白い薔薇、赤い薔薇、黄色い薔薇、紫の薔薇。広い薔薇園に、ひしめき合って咲いている。
わたしは今になって気づいている。公式サイトの発表は、わたしと静雄を愛し合わせることが目的の、偽の発表だと。親たちは何の反応も見せなかったのだ。そう考えるのが普通だ。自由な感情か。呆れた。わたしたちは結局身も心も操られている。
けれど、わたしは愛している。静雄を。この庭を。それは、本当の感情だ。本当のものが一つあれば、それでいいのだと思う。
*
家に帰り、父の書斎の前を通ると、父が出てきて声をかけてきた。婚約おめでとう。公式サイトを見たよ。
「沙良のリングに、わたしの日記を送っておいた。あとで見てくれればいい」
父は執筆が済んだようだ。疲れてはいるが、肩の荷が下りた顔だ。わたしは笑ってうなずき、ゆっくりと部屋に戻る。薔薇の子たちはまだ遊びまわっているのだろうか。
部屋に入ると、わたしはリングに触れ、父の日記を読んだ。最初から最後まで。父の日記は一年前の春から始まっていた。たくさんの悔いが、そこには記録されていた。しかし、わたしのことを終始して書いていたのは、ちょっとした驚きだった。わたしと話せない苦しみ、わたしと分かち合った義母とその子の思い出、今のわたしへの喜び。静雄がわたしの部屋に入るたび、はらはらしたことも。今は薔薇の子たちに慰められていることも。
わたしは父の日記を頭の中で整理して、出来事を系統立てて思い出した。それにまつわる細かな感情も。わたしは言葉を選び、リングの音声認識機能に話しかける。わたしがこの一年で抱くようになった、愛について語る。淡々と、言葉はリングに吸い込まれていく。
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