4 タンポポ

 スクールには労働者たちが働く工場のミニチュア版のような施設がいくつかあり、校舎が一棟ある。それだけだ。おんぼろで、掃除が行き届いていないことは一目瞭然。ぼくらはいつかこの校舎の中で圧死するのではないだろうか。ひびが入り、たわんだコンクリートの建物を見るといつも思う。

 スクールでは基本的に数学、理科、技術、歴史の授業だけが行われている。たまには別の教科も入るが、基本的にはこれだけだ。理科ではぼくの好きな生物はやってくれない。主に化学と物理を学ばせる。技術は機械の作り方を教わる。工場に似た施設があるのは、ぼくらが機械類を作るからだ。大抵の生徒は原始的な電気自動車くらいなら作れる。ただし走らせることは禁じられている。歴史。歴史では外の世界の記録を映像つきでただただ朗読される。

「二十一世紀後半のことだ。世界からは土壌汚染、大気汚染、水質汚染のために、動物が消え、植物が消えた。人々は全世界人口を収めるべく、各地に安全なドームを建設した。その内、うまくいったのはこの島のドームだけだ。外の世界は未だに危険であるため、われわれはここから出ることができない」

 ドームでは数少ない歴史教師が、眠くなるようなのんびりした口調でそう言った。汚い川や、砂漠化した大地が教師の後ろに映し出されている。ぼくは内心ため息をつく。この手の話はぼくがスクールに入ってから毎年聞いた。両親からも聞かされていたから、本当にうんざりする。

 外の空は、濁った灰色なのだという。なら、このドームの天井と同じじゃないか。

 ぼくは苦笑して、リングにそっと触れた。机の上に、平面の映像が映し出される。アルプス山脈だ。小さく見える羊飼いが、白い綿羊を連れて歩いている。のどかな眺めだ。羊飼いの気持ちを考える。彼はこの仕事が永遠に続くと思って安心しきっているだろうか。それとも、終焉を予感していただろうか。彼の目は、とても穏やかに見える。羊のように穏やかに。もっとも、ぼくは本物の羊を見たことがない。触れたこともない。羊の実物と出会ったことのないぼくが、羊飼いの気持ちを考えるなんて、滑稽だろうか。

 ふと見ると、斜め前の席のリリーもぼくと同じことをしていた。湿地の映像だ。そこには水鳥が集まり、可憐な花が咲いていた。リリーはため息をつくように肩を上下させ、首をかしげた。ぼくはそれをじっと見る。ぼくはリリーが何を考えているのかを知らない。ただ、ぼくと同じくらい熱心に勉強し、何かに熱意を注いでいる。それが何なのか、ぼくにはわからない。映像の中の羊飼いより、わからない。

「リリー、次は実技だけど」

 映像に見惚れたまま授業を終えてしまったリリーに声をかけると、彼女はびくりと肩を震わせ、ぼくに振り返った。

「見た?」

「見た」

 ぼくが答えると、リリーはくすくすと笑った。

「でもトウジも同じことしてるから、先生に言ったりしないよね」

 ああ、知っていたのか、と驚くこともなく思う。

「過去の映像、見るの好きなの?」

「うん。だって美しいでしょ」

 ぼくらは実技の授業に使う工場に向かって歩いている。リリーの大きな目は、きらきらと輝いていた。

「美しいもの、好きなの。トウジもでしょ?」

「まあ、今の時代は全然美しくないからな」

 リリーはにっこり笑う。そしてがらりと話題を変えた。

「実技、今日はトンボ型飛行機の羽の構造の再現だっけ」

「うん」

「負けないから」

 リリーがそう言うと、ちょうど授業開始ベルが鳴り、ぼくらは工場に駆け込んだ。


     *


 結果はぼくの圧勝だった。トンボ型をした飛行機の羽――つまり新素材を用いた羽――を正常に取りつける授業で、成果によって評価を与えられる授業だったのだが、複雑な動作をするとされるこの飛行機の羽の付け根の構造は非常に厄介で、音を上げる生徒も多かった。ぼくは着実に、ねじを一つ一つ留め、手で動かしてはその角度を調整し、歯車を丁寧に設置し、どうにか手本通りに作り上げることができた。パーツはあらかじめ用意してあるとはいえ、今回は難問だった。それに、グループを組んで作らされるという点も問題を生んだ。グループは二組で、ぼくのグループとリリーのグループはそれぞれAとBの評価を得た。しかし、リリーの学力や技術はとても優れているから、きちんとやればうまく行ったはずだ。仲間との連携がよくなかっただけだ。リーダーのリリーを舐めた連中が多かったのだ。邪魔者のお陰でぼくは勝ったことになる。

 リリーは悔しそうだった。歯をぎりりと噛み締めて、誰も寄せつけないほどだった。彼女を舐めて足を引っ張った連中も、怖がって声をかけることすらしない。リリーはぼくが近寄ると、こう言って逃げた。

「わたしは優秀な技術者になりたいだけなのに!」

 ぼくは少し息苦しくなった。彼女を傷つけたことではない。彼女の意気込みが、ぼくを重くさせたのだ。ぼくは同じ目標を持っているというのに。


     *


 帰宅する人々のために明るく照らされた帰り道、ぼくはいつもの場所に向かった。ぼくの家からは少し離れた、廃屋となった家々が並ぶドームの端。ドーム全体を見渡せるそこには外に面したドームの壁があるのだ。壁に耳をつける。ドームの温度を調整する機械のモーター音。もちろん外の音は聞こえない。壁は厚いのだから。けれど、何かが聞こえる気がする。希望の音。

 高ぶっていた気持ちが溶けるように治まっていく。呼吸のことも忘れる。ぼくは、このときが一番落ち着く。何もかも、忘れられる気がする。ドームや、ドームの人たちへの苛立ち、何より自分に失望していることにも。ぼくは、自分が何かを成し遂げられると信じきれてはいなかった。

 スクールに通い始めたころから、ぼくはこうしてきた。目を閉じ、少しでも何かが聞こえないかと耳を澄ませる。何も、聞こえない。わかりきっている。けれどそれでも何かを聞いた気がして、やっとぼくは安心して家に帰れるのだ。

 しかし、今日は違った。目を開くと、何かがあった。壁とコンクリートの間。植物だ。これは、確か。ぼくはリングに触れ、植物図鑑のページをめくった。目星はついていたからすぐにわかった。

「タンポポだ」

 ぼくは震える声でつぶやいた。黄色い花弁が円形に無数に生え揃っているその花は、タンポポという雑草の一種であるようだった。ぼくはそっと、一瞬、触れた。湿った感触は、自分が生きているという実感を伴った。何だ、ぼくは生きているじゃないか。生まれて初めてそういう気がした。

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