3 「大人になるなんて、やだね」

 耳元で人の声がして、はっと目を覚ます。いつの間にか眠っていたらしい。呼吸は自然な状態に戻っている。灰色なのか茶色なのか判然としない不衛生なベッドの上で、ぼくは身を起こした。混乱して、ああ、あいつか、と思い至る。彼には少し待ってもらうことにして、ぼくはリングに触れた。平面が飛び出してきた。数字が並んでいる。四時二十五分。ケネスはいつも非常識だ。

 リングにもう一度触れると、時計は消えてケネスの上半身の立体映像が出てきた。白い肌、真っ赤なもじゃもじゃの髪、緑色の目。上半身裸で、多分寝起きのまま通信してきたのだ。ケネスは相変わらず大柄で、同じく大柄なぼくと並ぶくらいだ。ぼくは真っ直ぐな黒髪と、藍色の目をしている。外見にはほとんど出ていないが、名前が日本人らしいのは母のユキが自分のルーツを見失わないようにとつけたからだ。ぼくのルーツは日本人だけではない。このドームに住む人間はほとんどが混血で、ぼくも例外ではない。しかし母は、ことさらにぼくが日本人のルーツを持つことを強調する。彼女にとって何のひいき目かわからないが、ぼくはかつて極東の島国を支配した集団に、大した敬意は払っていない。

「昨日リリーがさ」

 はっとして意識をリングに戻すと、ケネスはイライラと落ち着かなげに体を動かしていた。顔をしかめている。

「スクールをさぼるなってさ。鬱陶しいよな。おれの自由だよ。何やったっていいだろって思うんだ。落第したっていいよ。『いなくなって』もいいよ」

「それはどうかな」

 今度はぼくが顔をしかめる番だった。

「お前が『いなくなった』ら、親父さん、一人だよ」

 ケネスがにやっと笑った。

「それもいいな」

 彼は父親と二人暮らしだ。母親は、去年自殺した。彼はそれ以来無気力で、勉強に力を入れない。もっとも、彼は元々勉強が得意ではない。

「階級を上げるためだけにひたすら努力したって、何があるって言うんだろう。何もないよな」

 ケネスがそう言って、顔をくしゃくしゃにして笑う。笑うようなことではない。けれど、ぼくにとってはそれほど重要なことでもない。だからこのことについては無関心だ。

 混血が進んだ結果、このドームでは人種差別がほとんどない。自分にどんなルーツがあるかわからないのに、他人にそのことで何かを言うのは滑稽なことだからだろう。しかし階級というものがある。ぼくの家はAクラスで、ケネスの家はDクラスだ。階級が上であるほど、配給される食糧や物資は豪華になる。ただそれだけなのだが、皆必死だ。

 家にいる大人の働きで、階級は決まる。ぼくの両親は技術者だ。特に母は優秀で、指導者の地位に就いている。ケネスには父親しかいない。しかもやっているのはドームでの消毒剤の散布の仕事で、ここではそれは簡単でつまらないものと見なされている。

 ケネスの家の食事はまずいのだろう。もっとも、ぼくの家の食事もうまくはないが。でも、そんなことにあくせくしている大人たちを、ぼくらは軽蔑する。食事のために、あるいは替えの家具などのために努力すると考えたら、ひどく虚しい。努力の果てに、もっと大きな、もっと愉快なことが待っていればいいのに。それならぼくらはこんなにも無気力ではなくなるのに。

「悪いな。眠いんだろ」

 ぼくがしばらく反応しないのを見て、ケネスは遠慮したように笑った。

「あれから五年だな」

 ルイがいなくなって五年。

「じゃあ、寝るよ。またスクールで」

 ケネスの映像は消えた。それからしばらく、ぼくは無言でベッドに座っていた。多分、ケネスが言いたかったのはリリーのことでもスクールのことでもなく、ルイのことだった。ぼくとケネスは今でもぼくらの王様としてルイを頭上に戴いていた。

 ぼくはため息をもう一度ついて、リングに触れた。平面の画像が出てくる。それを指でスライドさせながら、ぼんやりとする。ぼくが見ているのは小鳥の図鑑だ。烏や雀が鬱陶しいくらいいたことが信じられない。青い鳥、赤い鳥、空を飛ぶ鳥、泳ぐ鳥。ぼくが一番好きなのは、南国のインコたちだ。ぼくは思わず黄緑色のセキセイインコの画像を指でタップした。あっ、と声が漏れる。リングからは巨大な立体映像が飛び出し、その中をインコたちが一斉に飛んでいる。羽ばたきや鳴き交わしなどの様々な音。うるさいくらいだ。インコたちは生命力に溢れていた。ぼくは思わず一羽のインコを捕まえようとした。手は、通り抜けた。当たり前だ。これは映像なのだから。

 本物はもっときれいなのだろう。美しいのだろう。素晴らしいのだろう。そう思うと、虚しくなる。ドームの中の、灰色の街。ぼくにとってはこれが現実なのだから。

 いつか、ドームを壊してやる。正常な海や空や陸を取り戻して、青い空の下に立ってやる。そのとき、世界はどれほどに色鮮やかだろう。きっと目が覚める色だ。

 ぼくはケネスとは違って真面目に勉強している。優等生でさえある。それは優秀な技術者になるためで、外の世界を取り戻すためでもある。

 この野望があるから、ぼくは生きていける。


     *


 朝、ぼくは台所で食事を取っている両親と同じテーブルについた。母がおはようを言うが、ぼくはこもったような声を返すだけだ。ぼくは反抗期というものに入ってしばらく経つ。人間の、自然に起きる自我の発達過程らしい。スクールで教わったけれど、今一つピンと来ない。こんなにも不自然な生活をしているドーム都市の少年にも自然に起こる現象があるなんて、少し馬鹿げている。

「ちゃんと挨拶を返しなさい、トウジ」

 父が低い声でうなるように言った。ぼくは聞こえないふりをして食事にありつくことにする。自動調理機で作られた合成食物だが、見た目はそれなりに美味そうに見える。バターがついたパン、サラダ、スープ。全て平らげても満腹することのない量。

「今朝はお前のせいで目が覚めたよ。妙な音が大音量で聞こえてくるんだ」

「ごめん」

「もう昔のものは見るなと言ってるだろう。ためにならない」

 ぼくは父をにらむ。いつもきちんとした格好をしている父。彼の言うことはもっともなのかもしれない。あんなもの、睡眠時間を削ってまで何度も見るべきではないのかもしれない。けれど反抗心が彼に従わせない。

「ためにならないからって、やめる必要はないだろ」

「勉強していたほうがまだましだ。お前も優秀な技術者にならなければならないとわかってはいるんだろう?」

「けど、父さんの言う技術者って、何の技術者だよ。それがわからないことには頑張りようがないだろ」

 第一、充分頑張っている。父はただ、昔の映像を見るのをやめろと言いたいだけなのだ。

「子供は知らなくていいんだ。大人になればわかる」

「いつも大人になればわかるって言うけど、どうして秘密にしてるんだよ。何か危険なものでも作ってるのかよ」

 ぼくが声を荒らげると、反対に父は笑った。どこか奇妙な、何かを表すような表情に見えた。そのあと真顔になり、食事に戻る。母がため息をつく。

「二人とも、仲良くして。三人きりの家族なのに」

 ぼくは無言で食べた。それきり、一言も発することはなく。自我の発達過程なんてくそくらえだ。


     *


 八時に始まるスクールと仕事のために、ぼくと両親は家を出た。ドーム都市というだけあって、この場所は円くできている。緩やかな円弧の中に、漏斗状に街が広がる。この半円はぼくらの住居スペースだ。でこぼこで崩壊寸前のコンクリートの住宅が並び、それらは皆コンクリートの地がむき出しだ。ぼくの家は大きめの建物の上階にあり、階段を降りるのも一苦労で、建物から出ても街の底へと向かって長い階段を降りていかなくてはならない。放射状に伸びた階段をうごめく薄汚れた人たち。彼らは皆労働者と子供だ。子供はひどく少ないが、それがこの希望のない世界の行きつく答えだろう。

 住居スペースとは反対側の半円は、いくらかましな作りになっている。大通りが真っ直ぐに続く。その先にあるのはセンターだ。ぼくは行った記憶がないけれど、このリングをつけるときに行ったことがあると、母から聞いた。この都市での中枢となる場所だが、よく知らない。

 半円の大通りの両側にあるのは、手前にささやかなぼくらのスクール、奥に両親が働く工場群だ。いつだって熱や煙や有害物質を垂れ流す工場は、ぼくら体の弱い子供たちの、死因の大半なのではないかと思えてくる。

 隣を歩く母は物資として届けられた清潔な作業着を比較的きれいなまま着こなしている。父は、母に言われた通り、同じタイプの作業着をきちんと着ている。二人とも、疲れが明らかだ。一体両親の労働とは、何のために行われているのだろう。彼らがどんなに働いても、このドーム都市は変わり映えがしない。ぼくらはスクールで勉強するが、その延長線上にあるということはわかっても、機械を作るための実技の授業以外はプログラミングだとか線形代数だとか、概念と仮定だけ学ばされているだけで、何のイメージもできない。植物や動物を再び作り出したりできないものだろうか? ぼくらは工業的なことから少し離れたことを学べないだろうか? いつもそう思っているが、「大人になればわかる」という父の言葉に阻まれ、何もわからないままだ。

 人々は規則正しく、コンクリートの住宅から出てくる。羊みたいに。まるで新しいことを始めたり、この状況に歯向かってみようなんて思ったりしないみたいに。見ていると、何だか苛立つ。

 ぼくは無言で両親や労働者の群れと別れ、ケネスと合流する。ケネスはすでに疲れきったように無気力な表情をしている。朝方話したときとは大違いだ。

「スクール、行きたくない」

「そうだな」

 そう答えると、ケネスがぱっと顔を輝かせる。

「なら、サボろう!」

「いや、できない」

 ケネスはまた元の表情に戻る。スクールが心底嫌いなのだ。ぼくは彼がスクールを何度もサボったことを知っている。きっと彼のよく言う空き地にクラスの仲間と群れているのだ。ぼくがケネスに注意することはない。それはリリーの仕事だ。

「おはよう、トウジ、ケネス」

 甲高い声が後ろから聞こえてきて、振り返るとリリーがいた。ケネスがいじめたリリー、ルイの王妃のリリーだ。ルイがいなくなった今、彼女は普通のスクールの生徒で、いじめられてはいない。ルイがいなくなったころは呆然として幽霊のようだった彼女だが、今はぼくやケネスと普通の交流をする普通の女子生徒になった。

 リリーは不美人だとしていじめられたものだった。彼女は、肌が浅黒いのはいいのだが、目が極端に大きく、黒い髪を一つにひっつめて束ねている。背も低いので、今でも見栄えがしない。しかしもう不美人ではないような気が、最近はしている。

 ぼくとケネスは軽く彼女に挨拶を返し、ケネスはリリーに嫌味な笑いを見せた。リリーが少し構えてみせる。ぼくは、また始まった、と呆れた気分になる。

「リリー、相変わらずお前は冴えないよな。勉強ばっかりしてるからだよ」

「そういうケネスは相変わらず勉強ができないみたいだね。最下位Eクラスから脱却できるのはいつなんだろ」

 ケネスがむっとする。ぼくはケネスの自業自得だから黙っている。

 ケネスは勉強ができないので、またやる気がないので、クラス分けでEクラスになってしまった。ぼくとリリーはAクラス、同じクラスだ。そのことについてケネスは時々不平を言う。勉強ができなくても生きていけるのに、と言うのだ。それはどうかな、と思う。ここでは何かしらの仕事をしなければならない。仕事をしなければ物資や食料はもらえない。そしてここでは勉強が必要でない仕事がない。簡単だとされるケネスの父親がやっているドームの消毒の仕事も、機械の扱いを学ばなければ、できることではない。

「じゃあね、トウジ。また教室で」

 リリーは少しだけ笑ってぼくに手を振り、歩いていった。ケネスがぼくの横で舌打ちをする。

「ケネスはもっと大人になったほうがいいね」

 ケネスがぼくのほうを向いて、にっと笑う。

「大人になるなんて、やだね」

 そのまま彼は、一人で走っていった。

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