2 灰色の都市

 スクールに入ったころには、ルイは堂々とリリーをそばに置くようになっていた。いつだって気力に欠けている生徒たちは、誰に対しても無関心だったが、どんな環境でも子供の自尊心は自分でなく他人が脚光を浴びることを許さないらしい。頭と顔のいいルイに愛されるリリーは、ますます孤立した。

 ブスの、大きすぎる目の、ちびの、あか抜けない。リリーのことを語る生徒たちはそういった言葉で彼女の名前を飾った。彼女が平気なわけがなかった。彼女はよく陰で泣いた。そんな彼女をルイは抱きしめて慰めた。よしよし、お前は誰より特別だ、あんな平凡な人間に屈するんじゃないよ、と。

 そう言われようが、彼女は特段図々しくも、ふてぶてしくもならなかった。ただ、心ない言葉に傷ついて泣いた。

 ルイはぼくとケネスの前でこう彼女に言った。「ぼくの王妃」と。

「ぼくの王妃。お前はぼくのものだ。ぼくのものなら耐え抜かなきゃ。ぼくは誰より特別だ。ぼくに見合う人間であってもらわなきゃ」

 リリーはふるふると首を振った。ルイがため息をつく。仕方がないなと。

 ある日授業が終わったあと、ルイはぼくらにリリーをいじめる女の子を校舎裏に拉致させた。女の子は狼狽した。だって、彼女はルイを好きだという気持ちが強いだけだというつもりでいたから。両手をぼくとケネスに掴まれた女の子は、まさかルイに復讐されるなんて思ってもみなかったらしい。ルイを愛しすぎて行動に及んだ彼女は、むしろルイに愛されてもいいくらいだと思っていたようだ。ルイの体重の二倍ほどもありそうな固太りした体は、同じく同学年では大柄なぼくとケネスに押さえつけられた。

「お前はリリーが嫌いなのか」

 女の子はルイがリリーに騙されているのだと言った。

「騙されてる? どんなふうに?」

 女の子は黙った。一瞬のちに、リリーが手練手管を使ったのだ、という趣旨の言葉を口に出した。

「ふうん。馬鹿馬鹿しいな。トウジ、ケネス」

 ぼくとケネスはナイフを取り出した。女の子は絶叫した。まだ何もしていないのに。殺されることを恐れる女の子を捕らえ、ぼくとケネスは髪を切った。栗色の髪。女の子の艶々した栗色の髪。背中くらいまでの、髪。ざく、ざく、と音を鳴らし、ぼくとケネスは無関心な顔で切り落とした。髪はコンクリートの床に積もり、女の子はほとんど坊主になった。泣いている。悪いけれど、ルイの命令なんだ。ぼくは内心そう思いながらも、結局は後悔も反省もしていなかった。

「今度リリーをいじめたら、お前がどうなるかわかっているな?」

 真っ赤な顔で泣きじゃくる女の子に、ルイは顔を近づけた。興味のなさそうな、壁のしみでも見るような目。

「仲間にその頭のことをようく説明してやることだ」

 ルイは微笑んだ。無邪気に見えるほどに。ぼくとケネスは彼に倣って笑ってみた。ケネスと顔を見合わせたが、どうやらお互い彼ほど美しくは笑えていなかった。

 どうして自分でやらないの。

 女の子はぽつりと言った。ぼくとケネスはルイを見る。彼は首を傾げ、

「どうしてぼくがやらなくちゃいけないんだ?」

 と答えた。どうやら彼にとって誰かに何かをしてもらうのは当然のことのようだった。それに、と続ける。

「ぼくがそんな荒っぽいことをしたら、今度こそ心臓が弾けて死んじゃうよ!」

 彼は快活に笑った。ぼくらは、黙った。


     *


 ルイがぼくの名を呼んだ。医務室のベッドの上から。ぼくはドキッとして彼の顔を見た。彼はつい先程まで脂汗を流してうなっていたのだ。ベッドの上に起き上がった彼は、疲れ切った顔でぼくに言った。

「お前は何も特別じゃない。けど、いいところがあるな。前向きだってことだ。ぼくはこのドームの奴らが大嫌いだけど、お前のことは好きだよ」

 それからずるずるとベッドに倒れた。彼は目をつぶり、濃い隈で灰色の瞳を隠した。「さあ、行けよ」とささやく。ぼくはそっと部屋を出、ゆっくりと歩き出し、ついには駆け出した。


     *


 今、ルイはいない。彼は十歳のときにいなくなった。ふいに消え、形跡すら残さなかった。そのころルイの病状がかなり悪化していたのを記憶している。医務室に行くことも増えたし、センターに通う頻度も増した。胸を押さえてうずくまる様子を何度も見た。でも、何故突然消えなければならなかったのだろう。彼の家族は嘆き悲しみ、ルイの祖母は作業中に大型機械に飛び込んで自殺した。ルイの家族の表情が無に変わるまで、しばらく時間がかかった。賢い子供であるルイは、家族にとって、誇りだったのだ。

 そのころには、ぼくらは人が「いなくなる」ことや、自殺して騒ぎが起きることには慣れきっていた。ぼくとケネスは、無感動な子供になっていた。ルイが消えたことにも、それなりに対応できたはずだ。

 それから五年。ぼくは呼吸がうまくできなくなっていた。ふとしたときに酸素補給には充分でない浅い呼吸を繰り返し、止まらなくなる。ぼくはあれから、友達や近所の人がいなくなったり自殺したりといったことを、何度も知った。慣れたはずだ。なのに、どうしてこんなことになるのだろう。

 呼吸をする。浅く、何度も。言うことを聞け、ぼくの思うように動け。そう命じても、体はそれに逆らい、まるで別人の体のように勝手に呼吸を始めるのだ。

 怒りに似た感情が、体を走り抜ける。まるで、この街に向けているかのような。


     *


 呼吸を元に戻さなくては。

 呼吸がうまく行かない苛立ちで、強めにリングに触れると、消毒剤散布の夜です、外出は絶対にしないようにしましょう、と最初の表示に書かれていた。それでようやく納得が行った。三日に一回散布される強力な消毒剤は、家にいても体を害するほどだ。嫌な臭いが家の隙間から流れ込み、ぼくは、気づけば呼吸を浅くしている。

 これほど強い薬を撒かなければ、ぼくらの街は不衛生なままだ。誰も彼も悪臭を漂わせている。下水もある程度は使えるが、古い家屋ほど機能せず、時折逆流しては近隣の住民を巻き込んだ騒動になる。ぼくの家はある程度きちんとしていて新しいが、きれいな水を時々しか浴びられなくて、自分自身ですら臭う。今日は浴室が使えない日だった。頭がかゆい。勢いよく掻いて、その爪の間の臭いを嗅いで、気分が悪くなる。他人の臭いはなおさらだ。ぼくは他人とハグするのが大嫌いだ。自分の臭いですら耐えがたいのに、抱き着かれたり、肩を組まれたりしたら、不愉快が頂点に達してしまう。皆、洗濯すらちゃんとできていない。飲み水が最優先なのは当然だが、貴重な水は、清潔さを守るためには使えない。――それを理由としての消毒剤散布だ。わかってはいるけれど。

 息を浅くしながら、ぼくはもう一度左手首のリングに触れる。このリングは配給品で、ぼくらが小さなころにいつの間にか装着してある奇妙な品だ。細くて銀色の、シンプルな輪。ぼくらはこれによって情報を得ている。例えば、過去の。

 小さな立体映像がリングの狭い穴から出てくる。これは、この植物は、コスモスなのだという。花。ぼくは花の実物を見たことがない。ピンク色の花弁がはっとするほど美しい。葉はもじゃもじゃと、動き出しそうに生命力に溢れている。これは、もうこの世にないものだ。

 ぼくらが住むこのドームは、とある島の上にいくつもできている。ドームの外は、また、島の外は、危険なのだという。海も川も空も土も、数十年の昔に有害物質に汚染されたままで、バクテリアくらいしか生きていけないのだ。オゾン層はほぼ完全に破壊され、太陽光が直接体に降り注ぐ。それはとても人間の暮らせる環境ではない。大人たちにそう教わった。

 二十二世紀。ぼくたち人間は、灰色の都市に生きている。

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