2 ペア

「素晴らしい」

 彼は感心したような声で言った。

「君は間違いなく天才だ」

 彼が見ているのは彼のリングが映し出す平面画像だった。ぼくは彼の茶色い縮れ毛を眺めた。一応左右に分けられて撫でつけられたその髪は、うねった髪のせいで爆発をこらえるかのようなボリュームのある形になっていた。彼は鼻が大きく、目は水色だ。素朴な人のように思えた。優しそうだとも思った。

「ぼくはどうなるんですか?」

 ぼくは彼に訊いた。彼はぼくの目を真っ直ぐに見つめた。その目は、何だか気遣わしげに見えた。その理由がわかった。ぼくは泣いていたのだ。

 そこはセンターだった。いつもぼくの心臓の薬をもらいに行く。母がいなかった。仕事に行ったのかもしれない。ここでは働かないと食べてはいけないから。今日はいつもと違っていた。いつもの無関心な医師ではなく、見たことのない彼がいたのだ。嫌な予感に支配された。

「ぼくは、処刑されるんですか?」

 涙は止めどなく溢れてくる。そして、ぼくは自分が生きたいと願っていることをひしひしと感じた。

 ぼくは心臓に重篤な疾患を抱えていた。ドームでは存在を許されない欠陥と見なされる、移植を必要とする病気。生きる希望をかけて、元気に振舞っていた。ぼくは生きる意志が強かった。他の無気力で大人に生かされているだけの子供たちが愚図に思えるくらい。他の子供たちはここが刑務所だということすら知らない。皆、ぼくが知っていることの十分の一も知らない。考えていることの百分の一も知らない。

「大丈夫だ。君は処刑されない」

 彼は明るく微笑み、ぼくの手を握った。大きくて温かくて、清潔な手だった。ぼくらが触れ合ったときのような不潔な感じが全くしない。ぼくは涙が止まったのに気づいた。

「どうしてそんなことが言えるんですか? ぼくは心臓移植しなきゃこのドームでは生きていけないって、医師が……」

「そう、このドームではね」

 何かを確信した彼の笑顔を見て、ぼくは奇妙な感覚に陥った。ぼくはこのドームで生きていかなければならない。そうだ。ぼくは心臓が悪く、移植をしなければここでは生きていけない。そうだ。でも、もしドームから出られるとしたら? 予想した通り、ドームの外がスクールで教えられるのとは違う美しい世界だったら?

「そうだ。君はやはり賢い」

 彼はぼくの表情を見て何度もうなずいた。ぼくは小さな椅子に座り、彼と向かい合っていた。彼はぼくが座っているのと同じ簡易な椅子に腰かけていた。テーブルには柔らかい茶色の飲み物があった。先程からそれが空腹を覚えるような香りをさせているのに気づいた。いつもの診察では出されることのないものだ。

 彼は自分の分のカップを口に寄せ、ごくりと一口飲んだ。そして「君も飲みなさい」と言う。ぼくは恐る恐る自分の前に出されたその飲み物を手に取る。温かい。口に運ぼうとすると、香りはより濃くなり、水蒸気がぼくの顔を湿らせる。一口、飲む。甘い。その飲み物はひどく甘く、毒のように美味だった。

「初めて飲んだかい? カフェオレという飲み物だよ。コーヒー飲料の一種だ。正確にはコーヒー豆を焙煎し、粉にし、お湯で成分を抽出したものに砂糖を加え、牛の乳を加えたものだ。初めて飲むコーヒー飲料としては最も適切だと思ってね。コーヒーはそのままだとブラックコーヒーという苦みの強い飲み物だからね。たっぷりの砂糖と牛乳で苦みを和らげるんだ」

「どうして最初から苦いとわかっているものに牛乳と砂糖を加えるんですか? 牛乳と砂糖を混ぜただけのもののほうがおいしいように思えます」

 彼は微笑んだ。ぼくの質問が嬉しかったようだ。思えばこれがぼくの初めての彼との雑談だった。

「苦みがあるものにまろやかな味わいの牛乳、強い甘みの砂糖を加えることで、単に牛乳と砂糖を混ぜたものよりも深い味わいになる。どうだい? おいしいだろう?」

 ぼくはうなずいた。それから最後までカフェオレを飲み干し、一息ついた。

「ぼくはここから出られるのでしょうか」

 真っ直ぐに、彼を見た。彼はぼくを見つめ、「君の能力は素晴らしい」とささやいた。

「特に数学、工学の知識に優れている。物理学や生物学も、学べば伸びるだろう。君は天才児だ。このドームで死なせるにはもったいない」

 彼は一息置いた。彼にとっても重大な決断なのだ。

「君をここから出そう」

 彼はぼくに笑いかけた。優しく、穏やかな表情だった。彼はもう一度先程の画面を見つめた。それは、ぼくの学力・知能テストの結果表だった。


     *


 飛行機に乗るまでの気持ちのことは、あまり覚えていない。ぼくは家族を捨てた。あれほど愛していたリリーのことも捨てたのだ。リリーは、ぼくの王妃だった。ぼくを特別だと思わせてくれた。それなのに、ぼくは置いて行ったのだ。思い出そうとすると、ひどく悲しい思いに駆られて止めてしまう。

 リリーはぼくを気にかけてくれた。他の子供とは全く違う視点でぼくを見てくれた。彼女こそが特別だった。けれど、ぼくは彼女を未来の保証されないドームに残していく道を選んだ。彼女はどうしているだろう。ぼくがいなくなって、悲しんでくれているだろうか。大人になったとき、ぼくが処刑されたのだと思い込んで泣いてくれるだろうか。

 でも、そんなものは単なる感傷にすぎない。ぼくは自分の未来を明るくイメージしながら、過去を振り捨て始めているのだから。

 彼と一緒に飛行機に乗ると、ぼくは今の自分の姿をまざまざとイメージした。ウェーブした黒い髪はセンターの職員のために常駐している美容師にカットしてもらい、見違えるほど清潔になった。体もきれいに洗ったので、ボディーソープのいい香りがする。服はドームにいたときの粗末なものとは全く違い、形のいいスラックスに着心地のいいシャツ、暖かいジャケットを着せられている。

「ボストンに着いたら、すぐに君の心臓を治そう。再生医療の第一人者がボストンにいる。ぼくの友人だ。きっと彼女は君を治してくれる」

 何もかもが夢のようだ。ぼくは長年悩んできた心臓の痛みや呼吸の苦しさから解放されるというのだ。彼は小さな職員用の飛行機の中でぼくの隣に座り、何くれと世話を焼いた。ぼくは彼を信用し始めていた。

 もしかしたら、このあと落とし穴があるのかもしれない。ぼくは愚かだったのかもしれない。けれど、ぼくは不思議と確信していた。彼はぼくの人生をずっとよくしてくれるだろうと。あのドームにいたときとは比べ物にならない幸運を与えてくれるだろうと。

 飛行機の外は青い空だった。窓に張りついて見るような幼稚な真似はしなかったが、飽きずに眺めた。どこまでも透き通るかのような空は、何よりも美しかった。人類は深刻な環境問題を克服し、間違いを正したのだ。誇らしかった。ぼくはすでに外の世界に属しているつもりでいた。心臓が調子を崩しそうだ。あまりにも嬉しくて。ぼくは深呼吸をし、次のステージに備えた。病院での心臓治療というステージ。

 広々とした空港に着き、彼と共に外に向かう。様々な人種の人たちがここにいた。どの人も無気力な目をしていなかった。彼らには目的があった。堂々と歩き、快活に連れと会話していた。

「ああ、彼女だよ」

 彼がぼくに注意を促した。見ると空港の到着口には一人の女性が立っていて、こちらに手を振っていた。明るい人なのか満面の笑みを浮かべているが、長い髪が水色から緑色へのグラデーションに染められているので、見慣れないぼくはぎょっとした。今まで見かけた人たちの中にも髪を珍しい色に染めている人はいたけれど、彼女ほど大胆に染めている人はいなかった。

「あなたがルイ? よろしく。コーラ・シモンズよ。心臓が悪いんだって? 大丈夫、わたしが治してあげる!」

 ぼくはにっこり笑って彼女と握手をした。ここで気後れするような子供ではない。彼女はぼくをまじまじと見、「わお、かわいい顔ね」と褒めた。それからぼくは、彼女と共にボストンの著名な再生医療を専門とする病院に向かい、その日から入院となった。

 心臓の治療には一年ほどかかった。ぼくの細胞を元に新しい心臓を培養するのに半年ほどかかるからだ。ドームでの時間の止まった過去の情報では、発展著しかった再生医療は途中で研究が進まなくなり、全てが半端な状態で投げ出された、とされていたが、現実はそうでもなかったようだ。

 ぼくはぼくの新しい、完璧な心臓を得て、十一歳の秋には病院の庭でボールを蹴って走り回るほどになった。走るというのは気持ちがいい。今までぼくは自分の体に遠慮してばかりで、好き放題動くこともできなかった。それが、今では他の健康な子供よりも元気だ。空も広く、ドームにいたころに感じていた圧迫感はひとかけらもない。

 ぼくの病院の部屋である特別室に彼がやって来て、どんな調子か訊く。ぼくは「最高だよ」と笑む。学習の進度を訊く。ぼくは「今は量子力学に手をつけ始めたんだ。物理学もなかなか面白いね」と答える。彼は満足げにうなずく。

「君をわたしの養子にしたいと思ってる」

 ある日、彼はぼくに言った。ぼくは目を丸くし、同時に思い通りの結果を得られたことに大いに満足した。彼がいずれぼくの人生に深く関わることは、予想していたし、ぼく自身そうなるよう努力してきた。

「ありがとう。そう思ってもらえるのがどんなに嬉しいか」

 ぼくは笑みを浮かべ、満ち足りた気分を正直に見せた。

「実を言うと、手続きはもう済んだんだ。君は嫌がらないと思ってね」

「まさか。ぼくは身寄りのない子供だよ。すごくありがたいよ」

 彼は笑った。柔らかい笑み。

「明後日、君は退院する。そのときはわたしの家に来るんだよ」

「わかった」

「家に来たら、きっともっと楽しいさ」

 彼の笑みは意味深で、ぼくは一瞬不安を覚えた。家には何か別のものがいると思わせた。でも、ぼくはそれを打ち消して、いい印象だけを彼に与えようとはしゃいで見せた。二日後の退院が、待ち遠しくて仕方がなかった。ぼくは彼の子供となり、外の世界で生きていく。そんなシンプルなビジョンしか持たないようにした。

 約束の日、昼食を済ませたあと看護師に呼ばれて行くと、彼はラフな格好で待っていた。隣には地味だけれど優しそうな女性が微笑んで立っている。

「妻だ」

 彼の妻の話はよく聞いていたから、驚かなかった。彼と同じく茶色い髪をした、緑色の瞳の女性。基準より少し太っていて、二重あごだ。でも、醜いとは全く思わせない。母親となるべく生まれついたような、穏やかで暖かな雰囲気をまとった人だった。

「初めまして。ルイ・ブランです」

「あらまあ」

 彼の妻は――キャサリンと名乗った――驚いたようにぼくを見た。ちっとも不快な態度ではなかった。

「名前はそのままなの? フランス名?」

 ぼくはうなずく。

「それも素敵だけれど、わたしたちの子供になるのだから、英語名に変えないといけないわ。それでいい?」

 ぼくは微笑み、もちろん、と答える。自分の名前は王様みたいで気に入っていたけれど――仕方がない。

「あとで教えるわ、あなたの名前」

 キャサリンはウインクをしてぼくに笑いかけた。彼はすまなそうにぼくを見て、ぼくは屈託なく笑って大丈夫であることを伝える。

 ぼくの荷物はないに等しかった。ぼくは身一つで退院し、コーラや世話をしてくれた看護師に手を振り、高い空の下で、彼の運転する車に乗った。

 雑談を交わしながら、窓の外の世界を見つめる。外の世界は美しい。黒々としたアスファルト。舗装された道は並木道になっていて、ポプラは赤や黄色に紅葉している。道には落葉が落ちていて、人々はそれを無造作に踏んで歩いている。古い町並みは今もなおリニューアルし続ける店舗によって様々に彩られ、多くの人種が颯爽と行きかう。

 本当にドームとは違う。ぼくは本当にドームの外にいるのだ。

 車は郊外に向かう。段々森の中に入っていく。道は整然と続き、紅葉した木々に挟まれた道の左手に高い塀が見えてきた。そして、縦に大きい鉄の門。彼が車で近づくと、それは自動で開いた。

 庭はほとんど芝生だった。よく手入れされている。白い噴水。建物はレンガ造りで、とても大きい。左右対称に四角く広がり、学校めいて見える。

「ここが今日から君の家だ」

 彼は笑ってぼくを見た。ぼくも笑って彼にうなずきかける。空は曇り空へと変わりつつあった。奇妙な、予感があった。

 キャサリンと共に玄関のドアから中に入り、誰もいない玄関ホールに立ち尽くす。白と黒のチェック模様の大きなタイルでできた玄関ホールは、チェス盤のようで何だか不安になる。玄関ホールから直接続くサロンは家族の部屋になっているらしく、ソファーなどが置かれている。広い部屋には人の気配があった。誰か夫婦以外の人物がここにいた。

 彼が車を置いて中に入って来た。「誰もいないじゃないか」とつぶやくと、突然リングを目の前にかざした。

「君たち、サロンにいてくれと言っただろう。さあ、今から集まって」

 彼のリングからは三人の子供の後ろ姿がにょきっと生えていた。それを見て、やっと納得した。ぼくは最初の子供ではないらしい。

 玄関ホールから、足音がした。さして急いではいない。チョコレートの板のようなドアが開く。そこに、まさに三人の子供が立っていた。

 同い年くらいの、少年と少女。少女は双子で、プラチナブロンドの髪を同じ形に結っていた。アイスブルーの目は透き通るようで、こちらをじっと見つめている。二人とも、無表情だ。

 少年は、ぼくと同じ背格好だった。茶色の髪をきれいに刈り揃え、真ん中で分けている。無関心な顔を作っているが、どう見てもぼくに対する興味で溢れそうになっていた。

「彼女たちは双子のメアリーとヘレン。メアリーはヴァイオリンの、ヘレンはピアノの天才なんだ。とても心を打つ演奏をする」

 彼がにっこり笑って彼女たちを紹介する。それを聞いても、双子は互いを横目に見るだけだった。

 彼は少年のそばに立った。彼は茶色の目をぼくに向け、次に床を見た。お前には興味がないと主張しているかのようだ。

「彼はアーサー。数学の天才だ。わたしは君を彼とペアにしようと思っている」

「ペア?」

 ぼくが訊くと、少年はぴくりと顔を引きつらせた。

「君たちが競いやすいように、同じくらいの能力の者同士、ペアにするんだよ。君とアーサーは数学や工学、物理学という、近いジャンルを得意とする。きっといい競争相手になるはずだ」

 頭を整理しなければならない。ぼくはどうやら天才児と認定された。ぼくは彼の養子となった。彼はぼくと自分の子供をペアにして育てようとしている……。

「彼らはあなたの実子なの?」

 ぼくは訊く。彼は目を丸くし、意外そうに笑う。

「いいや。わたしたち夫婦は子供ができない体質でね。彼らは皆養子だ」

 ぼくは必死で考える。答えは? 答えは何だろう。アーサーがぼくをじろじろと見る。

「決めたわ。あなたの名前はコリンよ」

 突然、キャサリンがぼくの肩を抱いた。ぼくはびくっとする。

「名前を決めると言っていたわね。あなたはコリン。優しい響きね。あなたに似合うと思うわ」

 引きつった笑いを浮かべる。ぼくはやっと答えに行きついていた。彼はぼくを見て満足気に笑っていた。

 彼の名前はトマス・アッシャー。新大陸人だ。大手銀行のオーナーであり、その傍ら教育学の研究をしている。彼が「天才児コレクター」として有名であることを、ぼくはアーサーから底意地の悪い笑みで教えられた。

 ぼくは、どうだっていい。このペアとやらのアーサーよりも、ぼくのほうが真の天才であると認められ、彼から――父から――愛されるのであれば。

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