8 告白
昼食を何食わぬして食べるのは苦労した。父も母も、アッシャーと共に昼食に呼ばれて出かけ、幸いおれ一人だった。おれは友人の家で食事を取ると嘘をついていた。ドニが心配そうにおれを見るが、何も言わない。
誰かに相談することはできない。おれはシルヴァーノを殴った。それだけで、様々なことが不利に動くのだった。シルヴァーノの仲間たちはおれを遠巻きにするだろうし、シルヴァーノもおれを目の敵にするだろう。オリビアとその母が新大陸の社会で孤立することも考えられる。本当に、考えなしに動いてしまった。何もかもが不協和音を上げようとしている。
ざわざわと騒ぐ気持ちを抑えるため、ソメイヨシノの木の下に向かった。一番低い枝は手をかけられるくらいには低く、今でも登ることはできそうだ。子供のころのようにこっそり登る。かけた手にぐっと力をいれて全身を上げて足をかける。それから平行棒の要領でバランスを取って歩き出した。枝の先端近くまで行き、空の方向を見上げた。緑の葉がモザイクのように濃淡を示し、所々で光を地面に落とす。地面を見下ろす。枝が空に向かって傾斜しているので、結構な高さになっていた。真横に家の二階が見え、窓の中の様子が見える。誰もいない。家というのはいつもと違う視点から見ると奇妙だ。窓の向こうに自分のドッペルゲンガーが現れてにやにや笑ってこちらを見たら、怖いかもしれないが安心できるかもしれないと思った。何故ならこれからの世界の歪さを背負うのはそいつで、おれはそこから逃げられるからだ。でも、それは現実的じゃない。
下から悲鳴が聞こえた。見下ろすと、煙草を指に挟んだフアンがこちらを見上げて恐怖を目に浮かべていた。
「聡一郎様、お降りになってください。危ないですから」
フアンは大げさに両手を広げて訴えた。おれが死んだって何も怖いことなんてないのにな、と思う。フアンは新大陸人にいじめられてきた。おれだって新大陸人だ。むしろ爽快に思うべきなのではないか?
坂道の要領で枝を降りた。枝の根本から飛び降りると、フアンはほっと胸を撫で下ろした。
「本当に、聡一郎様は木登りがお好きではらはらいたします」
フアンは実年齢よりも十五歳ほど老けて見える顔をしわくちゃにして微笑んだ。何を言っているのかわからなかった。おれはフアンと話したことなど数えるほどしかなく、木登りだってこっそりとやっていたからだ。
フアンはおれの反応を見て、笑うのをやめた。それからお辞儀をして、そそくさと家の中に入った。
ドアは閉じられてしまった。おれは何だか取り残された気分だった。いつもおどおどしている冴えないフアン。彼女はおれの家に来たとき、美しくて芯の強そうな女だったのだ。
それからまた今自分に起こっている問題を思い出し、それについて考え始めた。今はそれどころではないのだ。
*
結局、事態が動いたのは深夜だった。おれは外を出歩くのは得策ではないと考えて、三階の部屋でじっとしていた。白々と光る星がよく見える静かな夜だった。もう何も起こりえない気がしていた。当然、そんなことはないのだが。突然、窓の外から騒がしい気配がした。車寄せに黒いリムジンが停まっている。背中がざわついた。あのリムジンは、シルヴァーノの母の車だ。
話し声が聞こえて、家中の明かりが一斉に灯った。大きな影が人を連れてわが家に入ったことを見届け、おれはこっそり下に降りた。
階段の踊り場から見下ろすと、玄関ホールには丸々とよく肥えたブロンドで巻き毛の女が立っていた。腕を組み、赤い口紅を塗った唇を真一文字にし、どうやら両親を待っているようだ。
使用人がやってきて、彼女を連れていった。多分応接間だ。おれは短い息を何度も吐いていた。心臓が暴れる。彼女がシルヴァーノとおれのことを話したら、両親はおれに制裁を下すだろう。それが何なのかはわからない。でも、幼いころにクローゼットに閉じこめられたことや、依存しすぎるということで大事なぬいぐるみを捨てられたこと、相応しくないからと友達と引き離されたことを思い出し、それらはトラウマのようにおれをその場に縛りつけていた。
踊り場にしゃがみ込み、一時間ほどそうしていた。応接間から出てきたらしい両親とシルヴァーノの母が、ざわざわと話しながらやってきた。シルヴァーノの母は上機嫌だ。息子が殴られて上機嫌になるものだろうか。不思議に思いながら両親を見ると、浮かない顔をしている。何かこちらに不利な条件が提示されたらしい。緊張が胃の底を走った。
「聡一郎。来なさい」
シルヴァーノの母が帰ったあと、父はおれを目ざとく見つけて険しい顔で呼びつけた。おれはのろのろと階段を下りる。夜も一時を過ぎている。階段は薄暗い。絨毯の敷かれた階段を踏みしめながら、この時間が永遠に終わらなければいいと思う。やっとたどり着くと、母は目を大きく見開いておれをにらみつけていた。
「シルヴァーノを殴ったのか?」
父の言葉に、おれはうなずいた。
「どうして?」
「ぼくの友達を侮辱したからだよ」
「その友達は、シルヴァーノより重要な友達か?」
絶句する。その意味は、子供のころからの経験でよくわかっている。重要かどうかは、将来の成功に関係があるかどうかで決まる。おれは手を広げたり畳んだりしながら考える。
「お父さんにとっては重要ではないけど、その子はぼくにとっては重要で……」
「じゃあ本当の意味では重要じゃないな」
父はそう言い放った。父を見る。同じくらいの背丈の父は、よく整えられた髭をいじりながら無表情だった。
「そんなことはないと思う。ぼくにも重要かどうかを決める権利が……」
「何をごちゃごちゃ言ってるんだ。シルヴァーノのお母さんは『ザ・フリーク・ショー』のために、ウェブでの掲載料を二パーセント下げろと言ってきたぞ。大変な損だ。お前の責任だぞ」
「あんな馬鹿みたいなサイトのために、お父様は大損をしたのよ。謝りなさい」
母が腕を組んでおれを見上げる。おれは言われたとおりにした。
「……ごめんなさい」
両親はため息をついた。まるっきり、五歳のときと同じだな、と思う。いつまでもおれは成長することを求められない。びくびくして、謝って、制裁を加えられ、おしまいだ。
シルヴァーノの母が運営する世界的人気のサイトは、生身の人間を使った番組をいくつも抱えている。彼女はずっと、サイトのウェブスペースの使用料を下げるように訴えてきた。今回が絶好のチャンスだったというわけだ。
結局はシルヴァーノも都合のいい息子なのだ。おれと同じだ。
「喧嘩の原因になったのは、誰だ」
唾を飲み込み、上目遣いに父を見る。
「……オリビア・アンダーソン」
「誰の娘だ」
「エミリア・アンダーソン。植物学者だよ」
母が汚らわしそうに顔を歪めた。多分、オリビアが女だからだ。それに、植物学者の娘という点が、経営者こそが人間だと思っている母の価値観にそぐわないのだろう。
「よし、オリビアとは会うな。いいな。破ったら許さないぞ」
父はおれを指さし、当然のように命じた。おれはうなずいた。そうするしかなかった。怒った両親に逆らうなんて、できるはずもない。
オリビアの父が旧大陸人だと知ったら、どうするんだろうな。
そう思ったら、寒気がした。うなだれたおれを残し、両親は玄関ホールを後にした。
*
朝、起きるのが辛かった。体がひどく重く、いつまでも寝ていたい気分だった。
使用人に訊いたところ、シルヴァーノは全治二週間だという話で、しばらく家で療養するらしい。彼が大人しく安静にするかどうかはともかく、二週間くらいは彼に会わなくていいかもしれないということだ。
ベッドでまどろんでいると、ドニがリングでおれを呼んだ。朝食の時間らしい。眠いからと断ると、彼は悲しそうな顔をして通信を切った。
オリビアに会いたかった。
でも、彼女はおれをあんなにも強い目で見ていた。暴力を振るうおれを、軽蔑したのかもしれない。それに、彼女に会うことは父に禁じられたのだ。もう会うことはできない。
空しかった。銃を撃とうか、と久しぶりに思った。撃ってすっきりはしないが、一瞬でも忘れられるかもしれない。
リングが鳴った。見ると、オリビアの姿がそこに映し出されていた。驚きのあまり、コール音が五回鳴ってやっと受信する羽目になった。おれは昨夜のことを思い出しながら、彼女は別れの挨拶をするのだろう、と思っていた。
「おはよう」
おれが緊張気味に挨拶をすると、オリビアは黙っていた。
「昨日は、変なことになってごめん。びっくりしたよね」
「ううん」
彼女は初めて言葉を発した。感情が読みとれない声で、彼女がどういう気持ちでいるのか、全くわからない。
「シルヴァーノは全治二週間だって。やっちゃったな」
「そう」
「……どういう用事で通信したの?」
絶望的な気分だが、どうにか訊くことができた。別れを告げなければ。父に会うなと言われたからと。その前に、オリビアからさよならを言われるかもしれないが。
「あのね、聡一郎」
オリビアは初めておれの名前を呼んだ。は、は、と短い呼吸が喉の奥から漏れてきた。怖くてたまらない。
「わたし、あなたのことが大好きだわ」
甘ったるい、泣きそうな声だった。雷が体に落ちてきたようだった。何を言われたかわからなかった。
「好きで好きで、もう身動きが取れないわ。あなたのことを思うだけで、胸が締めつけられるわ。どうしてくれるのよ。すごく、切ないの」
体中が震えた。全身が燃え上がるようだった。オリビアの声は優しくて、おれの心臓にまとわりつくようにしっとりと暖かい。
「好きよ、聡一郎。会いたいわ」
「おれもだよ。おれも、オリビアに会いたい。好きだよ、大好きだよ」
リングから映し出される彼女の像に訴えかける。彼女がおれを選んでくれた。それが、全く信じられなかった。全てが裏表にひっくり返り、虚像が実像になったかのような突然の幸運に、おれは舞い上がり、幸福だった。
「嫌われたかと思ってた」
「どうして? あなたはわたしのために戦ったのよ」
「そうだけど……嘘だよ、信じられない、こんな幸運」
「じゃあ、わたしに会って、確かめて。降るようなキスをあげる。そしたら信じてくれるでしょう?」
彼女はくすくすと笑った。おれも笑った。それから通信を切り、大慌てでオートバイクに乗り、彼女の家に向かった。
街は人気がなく、おれが走り抜けるだけで食事中の小鳥がばさばさと飛び立った。昼とは違う、冷たい空気が肺の奥まで浄化してくれた。おれは森を抜け、オリビアの家の近くにある小さな胡桃の木の根本に着いた。彼女はいた。紅潮した顔で笑って、走ってやってきて、おれに抱きついた。
それから、彼女は言っていた通りのことをしてくれたのだ。
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