9 デート

 彼女がうっとりとおれを見つめている。一緒に映画を観ていたはずが、彼女は白い壁と天井のシアタールームに映し出されるSF映画の映像よりも、おれの顔のほうが興味深いようだった。映画の俳優はとてもハンサムで、彼が格好よくアクションをこなす場面が部屋中に映し出されている。それなのに、彼女はおれを見ているのだ。

 耳に触れ、首に触れ、てのひらで彼女の頭を引き寄せた。唇にキスを落とすと、彼女はきれいにカールした睫毛を伏せ、されるがままになった。それどころか、腕をおれの首に回し、自らキスを求めてきた。

 信じられないほどの幸運だと思った。彼女に愛され、彼女を抱きしめ、キスができる。彼女の首筋は開いた胸元に続き、暗い蜂蜜色の肌は陰影を作り、とても色っぽかった。

 映画は終わってしまった。彼女はおれにもたれかかり、目を閉じ、幸福そうに笑う。

「ねえ、聡一郎。あなたがどれだけわたしを救ったかわかる?」

 彼女の言葉に首をかしげる。彼女を救うようなことは、何一つできていない気がしていたから。オリビアは、おれをじっと見上げた。

「わたし、イベリア半島を出て、独りぼっちだったの。あなたは友達になってくれたわ。最初はいけ好かない新大陸人の一人だと思っていたけど、あなたはとても繊細で優しい人で、段々好きになったの。それに、母のこと。母とはまだ一月と少ししか暮らしてないけど、段々彼女のことを尊敬できるようになってきたのよ。あなたがわたしの名前のことに気づいてくれたから。わたし、多分ここで暮らしていけるようになると思うわ」

 信じられない思いだった。たったそれだけのことで、彼女はおれを救世主のように思ってくれているのだった。彼女のオリーブ色の目は、じっとおれから離れなくて、この瞬間が永遠に続けば、おれはいつもある怒りを捨て去ることができるだろう、と思った。

 ドアを開け、シアタールームを出る。そこはオリビアの家で、外観に合った素朴な小花柄の壁紙が貼られたリビングだった。この家は不思議だ。現代的なシアタールームがあると思えば、ほとんどの部屋は二十世紀半ばのアメリカ合衆国にある田舎の家のように、土と木の気配がする。

 オリビアの母はハーブティーとドーナツを用意してくれていた。どれも彼女の手作りだ。お礼を言って、木製の長椅子に座る。ドーナツはドニが作るものとはまた違い、温かさのある優しい味がした。

「キスばっかりしていたんじゃないでしょうね」

 オリビアの母はおれたちを真っ直ぐに見た。慌てて目を逸らしてオリビアを見ると、彼女も目を泳がせていた。もう一週間もこの家に入り浸っているのだった。気づかれないはずがない。母親は少しだけ微笑み、続ける。

「いいわ。一線を越えなければね。真面目なつき合いをしなさい」

「一線を越える、だなんて」

 オリビアが顔を赤らめた。おれは、少し後ろめたかった。ホテルで娼婦と寝た経験は、彼女に絶対に言ってはいけないことだった。どうしてドニはおれにあんな経験をさせたのだろう。恨みがましい気分になった。

「娘とその恋人が家にいると、母親はそういう心配をするものよ。たまには出かけてらっしゃい。外は明るくて気持ちいいわよ」

 オリビアは母親の言葉を聞き、おれに視線を送った。おれと一緒に出かけたいと、何度も言っていたのだ。おれは何度もなだめて、シルヴァーノの仲間たちに会うといけないから、と言い訳していた。本当は、それだけではなかった。両親に見つかったら、という勝手な理由で、おれはオリビアを家に閉じこめていたのだった。

「行きましょう。わたし行きたいわ」

 オリビアが笑った。そう言われると、もう彼女を押し込めておくことはできない。渋々了承し、おれたちは立ち上がった。

 平和な一週間だった。何も起こらなくて不思議で仕方がなかった。でも、そのままの状態が続くというのはあり得ない。出かけるのは嫌だった。


     *


 オリビアをオートバイクの後ろに乗せ、森の道を飛ばす。湖には当然彼女も行きたがらなかった。安心していたら、「街に行きたい」と言った。それが一番危ないのだけれど、おれの都合にしかすぎない。仕方なくうなずき、覚悟を決めた。

 街に向かってバイクを走らせる。彼女はおれの胴体に腕を回し、しっかりと抱きついていた。体温が熱くて、彼女が確かに後ろにいると感じられた。こんなにも幸せな状況なのに、ぴりぴりしているのが馬鹿らしかった。公園まで行こうと思った。そこで彼女と堂々と歩こうと。

 森のようになった公園は、様々な文化の庭園を再現した、いくつかの区画に分かれた場所だ。アイビーのツタで覆われた鉄柵で囲まれ、入り口付近はイングリッシュガーデンになっている。芝生が広がり、自然に生えているように見せかけた、手入れの行き届いた花々の塊が所々にある。促成剤を使った巨木は少なく、このイングリッシュガーデンは多くの広葉樹で囲まれ、メリハリがつけてある。細い人工の川沿いには柳がしな垂れ、楓、ハシバミ、ニレ、胡桃がそれぞれの風情で風に揺られ、日陰を作っている。中でもブナで作られた整然とした出入り口が印象深い。庭の奥にあるガラスの温室では南国の植物が育てられていて、派手な色のオウムやインコが飛び交っている。蝶は飛び、小鳥が鳴き、夢のような、むしろ新大陸人の夢を現実にしたような場所だ。

 鉄柵の側にバイクを停め、オリビアと共に歩き出す。彼女はおれの手に指を絡めてきた。その感触が新鮮で、嬉しい。手を繋ぎ、ブナに挟まれた道を歩いていく。視界が開けた。オリビアは初めて見る風景に、生き生きと顔をほころばせている。若々しいが、服装を見るに祖父世代の夫婦が花々を眺めながら歩いていた。おれを見ると微笑んで、「恋人ができたのかね」と声をかけてきた。おれは笑ってオリビアを紹介した。妻のほうがオリビアをしげしげと見て、「きれいな娘さんね」と微笑んだ。オリビアは笑っていた。

 気分がますますよくなってきた。多分最初に会った夫婦がオリビアの出自を訊いたりしないタイプの人々だったからだ。彼女が旧大陸人の父親を持つと知ったら、いくら気のよさそうな彼らでも、軽蔑を目に浮かべておれを諭すだろう。

「素敵。きれいな場所」

 オリビアは楽しそうに歩く。繋がった手は汗ばんでいて、ずっと握っていると気持ちが悪いと思いそうなものなのに、離そうとしない。

 庭の隅にある白い東屋を、彼女は指さした。さすがに昼の三時は日差しが強すぎて、おれも耐え難いくらいではあった。ガラスと木と金属を組み合わせてできた白い東屋は可愛らしく、ほとんどファンタジーの産物だ。大きく開いた窓から中を覗く。先客がいた。最悪なことに、そいつらはシルヴァーノの悪友だった。

「ソウじゃん」

 男の一人はおれを見て驚いた顔をし、次にオリビアを見て軽蔑しきった顔をした。一緒にいた女はカップに入ったジェラートを食べていて、顔を上げて嫌そうな顔をした。おれはきびすを返そうとした。オリビアも、異存はなさそうだった。

「逃げんのかよ」

 男は追いかけてきておれの肩を掴んだ。それを振り払い、更に進んでいく。

「シルを殴りまくったらしいな。楽しいか? 旧大陸の女連れて。その女のことで揉めたらしいけど、当然だな。シルはお前を心配して引き離してやろうと……」

「いい加減なことを言うな!」

 おれが叫ぶと、男はびくっと後ろに下がった。

「あいつはオリビアを侮辱した。卑猥なことを言って。それにあいつはおれのことを思って行動するような奴か? 悪魔だって、自分で言ってるだろ? あいつは悪魔だ。自分より立場の弱い人間を犯して殺すような奴だ。おれはあいつと決別するんだ」

 別人になったように怒鳴り散らすおれを、男はまじまじと見てから考えを巡らせ、小さく言った。

「お前、狂ってるよ」

「どっちがだよ。オリビアの味方をして何が悪いんだよ」

「旧大陸人は人間じゃないんだぜ。味方してどうするんだよ」

 また、殴りそうになった。おれは拳をぐっと握り、答えた。

「おれはオリビアの味方をする」

 そして、また歩き出した。オリビアは肩で息をしていた。彼女も我慢しているのだ。後ろから、男の声が追ってきた。

「よく言うよな。親にシルとのことを処理してもらってさ。親のことがあるからシルは手出しできなくなったんだぜ」

 歯を食いしばり、おれは木の根本に停めたバイクに乗った。オリビアはじっと男をにらみ返していた。それを引っ張って乗せると、おれたちは森の中に引き返していった。

「人間よ」

 おれの背中に額をくっつけ、彼女は叫んだ。

「人間よ! わたしがここにいて何が悪いのよ!」

 彼女を連れだしたばかりに傷つけてしまった。胸が痛い。森の中は静かで、穏やかだ。草木はほとんど手入れされておらず、好き勝手に生えている。それが好ましく、同時に羨ましい。草木は言葉で相手を傷つけたりしないからだ。策略や嫌がらせで相手を陥れたりしないからだ。植物になれたら、と思った。彼女の額の熱さはおれの体に真っ直ぐに伝わり、それがとても悲しかった。

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