7 喧嘩
オリビアの水着姿を、おれは一生忘れられそうにない。彼女は草むらに隠れ、服を脱いで出てきた。
「どう?」
くるりと回るオリビアは、白いビキニを着ていた。すらりとした手足が銀色のマニキュアを塗った爪まで伸びる様は、何とも言い難い感動をおれに与えた。
「きれいだ」
おれが言うと、オリビアはくすりと笑った。おれの手を掴み、湖まで引っ張る。水がつま先に触れ、体の芯がぞくっと冷たくなる。彼女はおれにお構いなしに水の中に引っ張り込み、甲高く叫んだ。手を離し、泳ぎ出す。おれもそれを追う。
湖の水は透明で、水底の石も魚も海老も、はっきりと見て取れる。生き物たちは騒がしいおれたちからどんどん逃げていく。オリビアは泳ぐのが上手かった。イルカのように全身をくねらせて勢いよく進んでいく。耳元で空気と水が触れ合う音がする。おれは彼女が見えなくなったのに気づき、水面から顔を出した。
後ろにいたオリビアが笑っておれに水をかけた。笑いながらお返しをする。オリビアが逃げる。おれはまた追う。
大きな声で笑いながら、オリビアはまた顔を出した。
「気持ちいいわね。きれいな水」
「少し休まない? 水分を補給しよう」
おれが提案すると、彼女はうなずいておれの後ろを泳ぎだした。いつの間にか湖の真ん中に来ていた。ゆっくりと泳ぎ、また岸に着いた。
砂地の上に座り、水筒の冷たい水を飲む。オリビアはストローのついたボトルで飲んでいて、ストローを上る飲み物はピンク色だった。多分何かのハーブティーだろう。
「本当、ここが太平洋の浮島なんて信じられない」
彼女がおれの顔を見て笑った。
「たくさんの金属の柱で支えられているだけなんでしょう? すごいわね」
「そうかな。これって維持するのに莫大な金と労力がかけられてるんだよ。世界政府のね」
「そうね。新大陸人のためにね」
彼女が言うと、沈黙が落ちた。彼女はじっと湖を見ていた。
「あなたはどう思う? この新大陸のこと」
彼女は、おれに視線だけ向けた。おれはそれをまともに見て、考えた。
「あんまり、いいところだとは思ってない。成り立ち自体、いいものじゃないしね」
新大陸は、金持ちが金持ちだけで暮らす国を作ろうと作られた場所だ。世界に「国」があったころ、彼らは高い税率を嫌って様々な手を尽くした結果、金持ちの国を作ろうと思ったのだ。各国の政府は彼らが出て行くのを恐れて優遇するようになった。そして、壮絶な格差社会が生まれ、一般人と金持ちは対立した。新大陸が正式に金持ちの住みかとなり、世界政府が樹立したのは同時期だ。その前から戦争があったのだという。金持ちの権利ばかりを認める世界政府の成立に反対するデモ隊に、何者かが銃弾を打ち込み、それから泥沼の戦争が始まったのだ。当然、結果は金持ちの勝ちだ。彼らは武器を買う金とツテがあったから。負けた人々は思想犯として南半球の砂漠にある刑務所に入れられ、奴隷同然に暮らしているのだという。
「おれは新大陸が好きじゃないんだ。桃源郷はここじゃない。ここは、本当の楽園じゃない」
「桃源郷って何?」
オリビアはおれの顔を見て、不思議そうな顔をした。おれは説明する。
「中国の昔話で、ある男が誰も彼もがゆったりと心穏やかに暮らす村に着くという話だよ。そこは時間がのんびりと流れていて、皆が微笑んでるんだ」
「へえ。素敵。でもどうして中国の昔話なの? あなたは日本人でしょう?」
おれはどきりとする。これは、誰かから聞いたのだ。本の知識じゃない。母ではない。でも女性だ。
「聡一郎様はお話がお上手ですね」
その人は、笑って言ったのだ。誰だったのか。考え込んでいるおれに、オリビアはにっこりと笑いかけた。
「思い出せなくても、とってもいい話だわ。わたし、この世界が全部そうであるといいと思う」
おれは笑い、うなずいた。確かに、そうだったらいい。でも、それは不可能だと思う。人間は、そんなにきれいな存在ではないから。
「ソウ。お前何してんの?」
声がして、振り向くとシルヴァーノが仲間の男女を連れてこちらに近づいてきていた。嫌な予感がした。おれは笑顔を張りつけ、立ち上がった。
「シル。泳いでたんだよ。もうそろそろ帰ろうと思ってたんだけど」
オリビアが不思議そうな顔をしておれを見上げる。シルヴァーノはじろじろとオリビアを見て、にやりと笑った。
「デートか? いいねー。かわいい子とデート」
彼女の水着姿をシルヴァーノに見られるのは耐え難かった。おれは彼女の前に身を乗り出す。
「いやー、かわいいねー。誰の娘? 見たことないけど」
シルヴァーノはお構いなしに続け、オリビアを見つめ続ける。その後ろで、派手なワンピース姿の女が大きな声を出した。
「わたし、知ってる。その子、旧大陸から来たのよ」
「へえ」
シルヴァーノの目の色が変わった。おれはぎゅっと唇を結んだ。
「何で旧大陸人と遊んでるんだ? ソウ」
「彼女は新大陸人だ。母親は新大陸人だし」
「じゃあ父親が旧大陸人ってわけだな」
シルヴァーノはオリビアに近づき、不安そうに立ち上がった彼女をじっと見た。赤い舌がちらりと薄い唇から出た。
「かわいいね。男をたぶらかすかわいさだね。何人とヤった? 旧大陸人の女はたくさんの男と同時につき合うって聞いたことがある」
シルヴァーノと仲間たちは、下品に大笑いした。その耳障りな声を、おれはまだ笑顔で聞いていた。情けないと思っていた。案の定、おれは彼女を守ることができない。オリビアはおれを不安げに見たあと、シルヴァーノをきっとにらみつけた。
「帰るわ」
歩き出した彼女の前に、シルヴァーノが身を乗り出した。
「遊ぼうぜ。ソウとはヤったの? ソウは優しいからなあ。あんまり楽しいセックスはできなかっただろうから」
シルヴァーノが彼女の腕に触れた。彼女が甲高い声を上げて嫌がる。気づいたときには、おれは、拳で彼を殴っていた。
わあ、と誰かが叫んだ。凍りついたように、周りの連中はおれたちを見ていた。おれはそれを無視して地面に倒れた彼の上に乗り、もう一度顔を殴った。固く握った拳が、制御を失ったかのようにシルヴァーノの頬に思い切りぶつけられる。手がずきずきと痛い。
「やめろ、くそったれ」
シルヴァーノは荒々しい声で叫び、おれの顔を叩いた。ひるんだ瞬間、彼はおれを押して組み伏せ、何度か乱暴に殴った。喉からうなるような声が出ていた。痛みのためではない。怒りのためだ。おれはシルヴァーノの股間を思い切り蹴り上げ、痛みにあえぐ彼を押し倒し、何度も何度も殴った。彼の顔色がおかしくなるまで。
鼻血まみれのシルヴァーノが顔を守るだけになってから、誰かがおれを羽交い締めにした。シルヴァーノの仲間だった。
「やめとけ、ソウ。シルが死ぬ」
おれは彼を振り払い、走り出した。立ちすくむオリビアの手首を掴み、オートバイクにまたがった。そのまま、オリビアを連れて勢いよく走り去った。胴体に回された彼女の手は、震えていた。
*
オリビアは家に着いても呆然としていた。彼女の母が、どうしたの、と慌てて出てくる。
「どうしたの? 水着のままだなんて。それにあなたの顔」
おれは答えられなかった。さっきのことを、彼女に説明するのは勇気が要った。オリビアは濡れた髪をかき上げ、困惑したように答える。
「何でもないの。ちょっと、トラブルがあって」
オリビアの母はおれを見て、何か訊きたそうな顔をする。おれは半分パニックを起こしていた。人を殴るなんて初めてだった。それに、シルヴァーノを殴ったら、難しい立場になるのは目に見えていた。
でも、彼がオリビアを侮辱することや、オリビアに触ることが我慢できなかった。それが体の動きに直結して、気づけば殴っていたのだ。
「いいわ。聡一郎、あなたは家に帰って落ち着きなさい。話は娘からゆっくり聞くから」
「……はい」
オリビアを背にして、バイクにまたがる。ちらりと、彼女を見た。彼女はじっとおれを見ていた。痛いくらい、強い目線だった。耐えられなくなって、おれはバイクのアクセルを踏んだ。
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