canary yellow
1 十四歳
この一年、わたしが育ててきた愛について考える。わたしが未熟だった日々のことも。わたしが生きた年月は、十五年と短い。そして十四年は、くすぶり続けた歳月だった。一年で、わたしは随分変わった。明るくなったし、笑うようになった。これが誰のお陰か、わたしはよく知っている。今はない人たち。わたしが人生を生きるようになるまで、たくさんの人の死を見た。これらの死がなければ変われなかった自分に嫌気が差す。けれど、わたしは彼らの死を自分の成長のために刻まれた傷として生きている。わたしは成長した。成長するということが、どういうことなのか知らなかったわたしが。
わたしは人生を生き、愛を抱いている。それを彼らに胸を張って言いたい。
*
一年余り前のことから話そう。わたしは十四歳で、静雄が十七歳。義母が孕んでしばらく経ったころの話だ。
*
ああ、薔薇の季節だ、と思った。
草木が芽吹き、小さな花を咲かせる。わたしはシロツメクサが好きだ。とても可憐で、愛らしい。わたしの家の向かい、森の近くの、庭なのか庭でないのかはっきりしない場所に、それらは平べったく咲いている。クローバーの濃い緑が目に鮮やかだ。対照的に、森は暗い。落葉樹の根元の腐葉土が、湿った気配を漂わせている。たまに中から茶色くて前足の長い野兎が飛び出したりする。狸や狐もいると、静雄から聞いたことがある。小鳥が鳴いている。鶯が鳴くのはいつだろうか。わたしは少し待ち遠しい。それでいて、鳴きだすころにはどうでもよくなっていたりするのだ。
わたしは庭と森を観音開きの窓から見ていたが、それをやめてあちこちにステンドグラスの窓がある装飾過多な家のホールから玄関に向かい、その前に張り出したフランス風の車寄せのアーチを抜けた。石畳の庭が現れる。新緑を身に纏い始めた木々が、その途中途中に現れる。広い庭から静雄の薔薇園に行くために歩くのはちょっとした運動だ。まだ少し冷たい風が、布の繊維の隙間を通ってわたしの体に触れる。わたしは長すぎる黒髪をそのまま風になびかせ、紺色のワンピースの裾をさばきながら勢いよく歩く。
石畳が終わるころには、もじゃもじゃと様々な植物に囲まれたイギリス風の洋館が見える。明治時代の日本の建築物によく似ている。淡い紫色をした、二階建ての大きな家だ。確か、コロニアル様式の建物だと聞いた。二階にバルコニーが見える。わたしはこちらの家のほうがいい。わたしの家は真四角のフランス風洋館で、家の中はどこもかしこも甘ったるいアール・ヌーボー調。義母がわたしのために用意する服くらい甘ったるい。
家の前に、見事な薔薇園がある。まだ蕾だが、時期が来れば一斉に満開になり、自己主張の強い香りを放つ色とりどりの薔薇が植わっているのだ。薔薇を育てるのには手間がいる。静雄は薔薇園で長時間作業服を着て世話をしている。
わたしは大股に歩き、静雄に近づいた。彼は薔薇の茎にアブラムシを除ける薬剤を、背中に背負ったタンクから霧吹きで散布している。そのまま何も言わない。静雄は黙っているが、わたしが来たことに気づいている。わたしはじっと静雄を見つめた。短く刈った襟足から、長い首が伸びている。一重まぶたの優しい目。華奢で背も高くないけれど、軍手の下の手だけはごつごつしている。薔薇の棘を触り、土をいじっていれば自然とそうなるのだろう。爪にはよく泥が入っている。汚いとは思わない。ただ、静雄からは時々妙な匂いがして、わたしはそれが気になっている。
薔薇は様々に伸びている。蔓薔薇は青銅のアーチに絡まり、色々な葉をつけた株が静雄の通る道だけを残して自由自在に膨らんでいる。夏と冬に剪定をするのだが、それでもこれほどに大きくなる。薔薇の命は一般的な木よりも短いが、だからこそあのような美しい花が咲くのだと、わたしは思う。
ふと、静雄が薔薇を見つめながらのんびりとした声で、
「沙良にやっただろ、種」
と言った。おっとりとした性格の静雄は、よく気の抜けた声で話す。わたしはぽかんとして、何のことだろうと考えた。静雄がわたしに向き直る。困ったように笑っている。
「ヒト薔薇の種だよ」
わたしは思い出して、ああ、と声を出した。
静雄から、ヒト薔薇の種をもらったのだ。薔薇好きの静雄がわたしに種を押しつけるのは珍しいが、水耕栽培用の池に入れておけば勝手に育つというので、冬に池を作ってそこに入れておいたのだった。今はどうなったのだろう。
「命を無駄遣いすることはとても酷いことだよ」
静雄は穏やかに言った。
「きちんと育てて、できるだけ生きてもらおう。特に植物は輪廻転生には含まれてないんだから、一生がとても重いものだし、命を繋ぐことも必要なんだ」
輪廻転生? それはどういうこと? そう訊くと静雄は、仏陀の教えだよ、と微笑んだ。
「仏陀はとても優しい人で小さな虫にも魂を認めたのに、植物には認めなかったんだ。本当に魂がないのか、仏陀の教えが間違っているのか、それはわからないけど」
わたしはゆっくりとうなずく。魂。脳科学が進み、魂なんて考えなど消えてしまった時代にこんなことを思っている静雄は、少し神経質で繊細すぎる気がした。動物のような脳がない植物は、当然魂とやらも持たないだろう。わたしは自分の中でそう決めつけた。
「薔薇は来月には満開だろうね」
静雄は霧吹きを持って薔薇園を出、蔓薔薇のアーチの下にそれを置くと、外に向かって歩き出した。わたしは彼を追う。
「どこに行くの?」
わたしは早足のために息切れを起こしながら静雄に並ぶ。静雄はわたしを見下ろし、ヒト薔薇だよ、と言った。わたしは少しつまらなくなったが、それでも静雄の大きな歩幅に合わせて歩いた。静雄の家とわたしの家の庭の境目は曖昧だ。石畳があればわたしの家の庭だろうし、芝が生えていれば静雄の家の庭なのだろうが、そのどちらでもない部分の判断が難しい。でも、わたしも静雄も、互いの両親も、気にしていない。
池は森のそばに作った。シロツメクサが繁っている場所だ。ぽつんと、小さな泉のように穴が開いている。透明な水がひたひたと風に揺れる。石造りの井戸のようだけれど、とても浅い。わたしが入れば、ふくらはぎまでの水かさしかないだろう。
「ああ、うまく育ってるじゃないか」
拳大の白っぽい種の殻が破れ、飛び出した中身がヒトデのような形になっていた。わたしは無関心にながめていたが、静雄は眉をひそめ、何か考えている。
「ちゃんと世話をするわよ。静雄さんの薔薇みたいにするわ」
静雄の沈黙に退屈してそう声をかけると、静雄は少し笑って、そうだね、と答えた。そして軍手を外して裸になった、傷だらけの手を水に浸し、種から出てきたあの奇妙な中身に触れた。それは動いた。ゆっくりと、手足に似た部分を交互に動かしたのだ。わたしはどきりとして、静雄の顔を見た。静雄は微笑んでいた。
*
ホールの真ん中を突っ切り、そのまま階段に足をかけて上る。二階の図書室を目指していた。そこには紙でできた本が充分ではないがたくさんあって、わたしをいつも満足させていた。本は読まない。活字を読みたければ手首にぴったりと巻きついている、このリングを使えばいい。リングに触れるだけで、小さな穴から好きな物語が光の平面として飛び出してくるのだ。
リングは、とても便利だ。穴からは様々な大きさや形の画面が飛び出し、わたしはその丸や四角や立方体に指で触れ、画面を変えたり操作したりすることができる。けれど、このリングは物心ついたときから既にあり、不気味といえば不気味でもある。誰もが利き手とは反対側の手首にこれを持っていた。
物語は、最近では「マノン・レスコー」を読んでいる。原始的な小説で、後の時代のものとは作りの精巧さが比べ物にならないがなかなか面白いと思う。今の家族はあまり物語や詩を読まないので、それらを共有するのは難しい。わたしに文学の愉しみを植えつけたのは、生母だ。生母はいつも何か読んでいた。そして父に疎まれていた。
「あら、沙良さん。外から帰ったの?」
柔らかな声。わたしは振り返り、ええ、と微笑んだ。義母が父と共に父の書斎からやってきたのだ。義母は、腹部以外は華奢な体つきをゆったりと揺らしてわたしに近づいてくる。彼女は美しいと思う。だからわたしは彼女が嫌い。父は物語の小人そっくりの体型で、義母といるときはいつもにこにこ笑っている禿げ頭の中年男だ。わたしは純粋に彼が嫌い。娘としてのわたしにあれこれ言うのを諦めた彼に、父親として何かを思うことはないし、人間として興味を持つこともない。
「静雄さんの薔薇を見に行ったの。まだ咲いてなかったわ」
わたしは静雄と話すときよりも少し優しい、よそ行きの声を出す。義母と話すときはいつもこうだ。わたしは彼女に心を開いていないから。彼女は気づいているだろう。わたしは隣家の人々とはもっとざっくばらんと話すのだから。
「まだ四月だもの。当然よ」
彼女がころころと鈴の音のような笑い声を上げながら父の腕を引く。父は嬉しそうにその手を見る。わたしはこのつまらない時間が早く終わらないかと少し苛々する。
「四月。なら、あと三月だ」
父が甲高い猫なで声を出す。義母が微笑む。
「赤ちゃんが生まれたら」
「わたしには関係ないことだわ」
わたしは急に面倒くさくなって二人の前から図書館に消える。一瞬見えたぽかんとしている両親を、わたしは馬鹿らしく思う。
図書室にこもり、オーク製のドアを撫でる。滑らかな感触が心地いい。周りを見渡す。部屋に並んだ書架を、一つ一つ見る。誰にも読まれない本たち。ただの雰囲気作りの飾り。それでも愛おしい。わたしは書架のこちら側にある白い絹張りの椅子に体を沈め、リングに触れた。出てきた、羊皮紙に似た形と色の平面に映し出される「マノン・レスコー」の続きを読み始める。ゆっくり、ゆっくりと。じれったくてもいい。わたしには時間があり余っている。
愛の物語は、どうしてこうも辛くなるのだろう。
父と生母、父と義母。彼らのことを思うからだ。そしてわたしのことも。
彼らは諦めてしまったのだろうか。わたしは諦めたくない。自由な愛を、諦めたくない。与えられた愛を受け入れる余裕など、わたしにはない。
愛。
少し、可笑しくなる。わたしに、愛なんて現象が起こるはずがないのに。わたしは、愛を与えられることすらなさそうだ。
生母が教えてくれた。ウェブではわたしたち家族のことが語られていることを。わたしの後をついてくる、あの丸い小さな物体は何であるかということを。
わたしはそのころ、このゆったりとした世界が気に入っていた。自分というものを明確に意識すらしていなかった。何が何であるのか、気にしていなかった。
あのね、沙良さん。
おぼろげな記憶の中の生母が語りかける。顔は覚えていない。コンピュータに入っている記録を見れば、静止画も動画もいくらでも見られるけれど、わたしはあえてそうしない。生母の記憶は美化も更新もしてはいけないと決めている。
生母は続けてこう言った。
わたしたちは環視されているのよ。知ってた?
「環視」の意味がわからず、ただ「知らない」と答え、わたしは「環視」の意味を探ろうとリングに触れた。すぐに出てきた。けれど理解はできなかった。
どういうこと?
皆に見られてるのよ。
どうして皆はわたしたちを見るの?
面白いからよ。面白がって色々話してるから、ウェブで探してごらん。
言われるとおりにした。すると、わたしはわたしたち専用の公式サイトがあることを知った。わたしたちのことが話されている。水槽の中にいる熱帯魚の話をするかのように淡々と。
そこで、わたしは自分が醜いと言われていることを知った。わたしは驚き、同時に自分を含む世界を明確に理解した。ああ、環視されている。わたしを含むこの世界は環視されている。
そのときから、あのサイトは覗いていない。見て、どうなる? 自分がどう言われ、どう求められているのかを知ったところで。わたしや静雄の家族が見られていることを確認したところで。
わたしは「マノン・レスコー」を消した。そして立ち上がって小さな空中小型カメラをてのひらで叩いた。苛立つと、わたしはよくこうする。カメラが壊れたって、どうにもならないのに。
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