2 黄薔薇

 森に囲まれた家と庭。この場所での生活は楽しいものではない。もっとも、わたしはここの外の世界がここより楽しいかどうかは知らない。

 日本人向けチャンネルの、登場人物としてのわたしたち。わたしたちを見ている人々は、わたしたちを当たり前のように観察している。気が向けば誰かのカメラを追い、飽きたらしばらく見ない。わたしたちはわたしたちの生活をやめることはできないのに。

 わたしや静雄の家族は、大きな洋館に住み、広い土地に住んでいる。馬鹿馬鹿しい。日本人全てがこんな優雅な生活を送れているようには思えない。まあ、日本人の現実を見たいのならば、彼らは彼らの暮らしを見つめればいいだけだ。わたしたちの暮らしは一つの夢であり、演出なのだろう。

 ある日生母が消え、数年経ってから義母が現れた。静雄の家でも似たようなことがあったのだという。生母は夜中にふと消え、それ以来帰ってこなかった。父の晴れ晴れとした顔が疎ましかった。

 わたしたちはメンバーを替え、加えながらこのチャンネルを維持している。父の少年時代には静雄の家だってなかったのだ。ある日突然、新しい家が反対隣にできていたっておかしくない。それでもわたしたちはいつの間に親しみ、穏やかに暮らすだろう。新しく来た彼らも、わたしたちの同類なのだから。

 わたしは自分の部屋にいた。居室には使うことのない大理石の暖炉と、怪盗ものの小説に出てきそうなナポレオン時代風のマホガニー製の机と椅子と、テーブルとソファーとちょっとした本棚がある。わたしはその前で椅子に腰かけ、ひたすらリングから出てきたスラブ人向けチャンネルの映像を見ている。

 わたしたちは自由にテレビ番組を観、ウェブを巡ることができる。だから自分を追うカメラが映し出す自分の映像を観ることもできれば、自分たちが映し出されているチャンネルの公式サイトも見ることができる。

 ウェブが個人認証制になった今も、昔と変わらず人々は口さがない。わたしには関係のないトークルームをちらりと見ただけでも顔を背けたくなるほどだ。わたしは醜いからすさまじいことを言われていると思う。

 スラブ人向けチャンネルには、金髪の、髪を編みこんだ美しい少女が映し出されていた。わたしは先程偶然このチャンネルのこの少女を見つけたのだが、吸い込まれるように見つめてしまった。形のきれいな頭に、広い額、大きな目、尖った鼻、うねって艶のある唇。何もかもが美しかった。

 彼女は、懸命に走っていた。家の中を。多分、旧ロシアの伝統的な高級建築物なのだろう。赤い絨毯が目に焼きついた。カメラが彼女に遅れだす。彼女が目指すものを映すためだ。彼女の走っていく先には背の高い、淡い茶髪の少年がいた。彼女を驚いたように見つめている。

 彼のところに行くと、彼女は彼の両腕を握り、ヒステリックにわめきだした。わたしには理解できない言葉で。そしてしきりに後ろを指差し、カメラを目で追うような目つきをし、最後に悲しそうに顔を手で覆った。

 少年は彼女に触れ、腕を背中に回した。なだめるように何か言っている。次第に彼女は安心したようになり、彼の抱擁に身を任せた。

 ほらね。愛されるのはこういう少女なのだ。

 不意にそう思って、わたしは愕然とした。そうだ。愛されるのはこういう美しい少女なのだ。わたしは愛されない。誰からも。唇をぎゅっと閉じ、泣く前兆が訪れる。

「沙良」

 ノックの音と共に、声が聞こえた。静雄だ。わたしは表情筋をほぐして不吉な気配を追い払い、椅子をドアのほうに向けて静雄を迎え入れた。

「珍しいわね。静雄さんが自分からわたしの家に来るなんて」

 わたしは微笑みながら、そうできることに安心していた。静雄は困惑したようにわたしを見つめ、

「全然世話をしてなかったね」

 と言った。わたしは首をかしげる。

「ヒト薔薇だよ」

 ああ、とわたしは声を出す。あんなもの、記憶にも残らない。

「ちゃんと育てるって、約束しただろう」

「約束はしてないわ。言っただけ」

「とにかく、来てごらん」

 静雄がドアを開けてわたしを部屋から出した。そのとき、静雄の体からはあの妙な匂いがして、わたしは一瞬不安を覚えた。

 一階に下り、ホールを抜ける。玄関から出てアーチの下を歩いていたとき、わたしには何かが見えた。森の近くのあの池に、誰かがいる。わたしは静雄と共にゆっくり近づいていった。新しい住人だろうか? その髪が金髪であることにわたしは動揺した。これは日本人向けチャンネルではないのか。ならば日本人の登場人物しかいないはずなのでは?

 その少女は、足を池に浸けていた。肌が抜けるように白い、裸の少女。わたしはそのことに気づくと反射的に静雄を見た。静雄は少女に微笑みかけていた。わたしの混乱が酷くなる。少女がぱっと振り向いた。大きく笑っている。

「沙良さんですか?」

 整いすぎて、機械的な感じのする声だった。少女は日本語を話している。では先程のスラブ人向けチャンネルの少女ではない。近くに行くと、その髪も金髪ではないことがわかった。黄色だ。それも髪の毛ではない。腰まで伸びた長い花弁だ。胸も平らで、体毛がどこにも見当たらない。裸だけれど、いやらしい感じが全くなかった。

「ヒト薔薇、育ったの?」

 わたしは、ヒト薔薇に返事をせずに静雄を振り返って尋ねた。静雄はうなずいた。

「沙良がほったらかしているうちに、大分育ったよ。きれいだね」

 きれいだね、と言われると、何となく不愉快な気がした。それでも、そうね、と返した。

「ありがとうございます」

 ヒト薔薇が丁寧に頭を下げた。わたしは薄気味悪くなって少し後ずさった。

「話すのね」

「そうだよ」

 静雄は何も知らないわたしを呆れたように見た。

「芥子粒のように小さなマシンとボイスレコーダーが体内を流れているんだよ。体の一部に空洞があって、そこで固まったり離れたりして……要は人間の脳やニューロンに似たものを作ってるんだ。でも、人の手がここまで加わった生物を見ると、少し怖いよね。わかるよ」

「わたしは怖くありません」

 ヒト薔薇が口を挟んだ。相変わらず満面の笑みだ。

「わたしは自然そのものの美しい黄薔薇です」

 確かに、美しかった。わたしは何だか、黄薔薇が憎らしくなった。

 隣の庭は、薔薇の蕾で彩られている。これほどに美しいのに、わたしはどうして醜い感情を抱いているのだろう。そう思った。


     *


 わたしは黄薔薇の池から離れ、静雄は黄薔薇の元に残った。ふと振り返ると、静雄が作業着のポケットから小さな箱を取り出していた。中から出した細くて短いものを口に含み、その反対側に点火装置で火をつけた。目に見えるため息のように、静雄の口の中から煙が吐き出された。黄薔薇はその煙を、珍しげに見ている。

 静雄が煙草を吸うところを見たのは初めてだった。静雄は十二歳のときから煙草を吸い、十五歳のときから酒を飲んでいる。妙な匂いの元はそれなのだ。百年前のものと違い、酒も煙草もひどく有害ではない。けれど、静雄は依存している。精神的に依存しているのだと、あるとき彼の両親はひっそりとした声でわたしに言った。

 静雄はわたしが彼を見ていることに気づくと、体を森に向けた。黄薔薇には見せるのにわたしには見せない。不満だった。


     *


 両親の情事も、わたしと静雄の穏やかな交流も、リアルタイムで見られている。わたしたちを管理している会社は、視聴者やスポンサーの要望に合わせて何かをここに加える。それらがやってくるのは、わたしたちが麻酔剤で眠らされている夜だ。黄薔薇の種もそうやって静雄の部屋に置かれたのだろう。静雄の酒と煙草は彼の両親のために持ち込まれ、結果彼が消費することになった。こちらの困惑などお構いなしに、様々な物が届けられる。

 わたしたち家族は、一階の大広間で食事を取る。わたしたちは、大広間の隅に置いてある、銀色で真四角の、最新と思われる自動調理機で作られた食事を、レースの敷物と百合の花が生けられた花瓶が載った大きなテーブルに運ぶ。父は義母ばかりを手伝う。妊娠しているのだから当然といえば当然なのだけれど。

 わたしたちは日本食ばかりを食べる。父は胃が丈夫ではない。日本食はあっさりしていて彼の胃に向いているから、彼はそれしか食べない。だからわたしたちもそれに従わざるをえない。

 生母がいたころ、彼女は平気で別のものを食べていた。しかも、行儀悪くリングから出した物語を読みながら。わたしもその習慣を受け継いで、時々「マノン・レスコー」を読みながら吸い物の三つ葉を咀嚼する。

「お行儀が悪いわよ、沙良さん」

 おっとりとした義母さえも注意するのだから、父の怒りはいかばかりだろう。しかし彼はわたしに何も言わない。彼はある時期からわたしに干渉するのをやめてしまったのだ。視線は何か言いたげだ。けれど、わたしはそれを無視する。

「沙良さんはちゃんとお勉強、してる?」

「ええ」

 わたしはいつものように優しい声で答えた。

「やっても全く意味のないことを、わたし、してます」

「沙良さん、お勉強は意味がなくなんかないわよ」

「ここから出られないのに、意味なんて」

 父がわたしをじろりと見た。父はわたしたちがここに閉じ込められているという事実を言葉に表すことを忌み嫌う。自分でも忘れたいことなのだろう。

「沙良さん、いつどこのチャンネルに売り渡されるのかわからないのだから」

 義母までもがこう言ったので、父は目を剥いた。わたしは義母が誰よりもそのことを実感していることを思い出して、少し反省した。

 義母は過去の記憶を持たない。ここに来る以前の記憶が全くないのだ。きっと、こんな風に上品な奥様然としているから、このチャンネルに呼ばれたのだろう。

 わたしは彼女を他のチャンネルで見たことがある。どういう内容かは忘れた。遠い昔の記憶だからだ。わたしは会った瞬間、奇妙な顔をしたのだろう。義母に問い詰められた。説明したら、義母はその場でリングを操作し始め、しばらくして絶望したような顔をした。自分があちらこちらに売り渡されるような存在であることを知ったのだろう。わたしもそのときに知った。自分の存在は、カメラの向こうの存在よりも軽いのだということを。

 しかし、義母だけではない。生母もそうだ。静雄の父も。要するにここの生まれでない者は全員そうだ。わたしだって、このチャンネルの人気が落ちて、登場人物が全員ばらばらになり、それぞれ売り渡されるということを考えないわけではない。わたしたちの体は売り買いされているのだ。

 わたしたちの関係は、人の手で作られている。

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