5 メロディー

 その夜のうちに、ライリーが紹介された。

「君たちの新しい弟だ」

 ライリーは小さく、縮れた赤毛を刈り上げられていて、おどおどとはしばみ色の丸い目をこちらに向けた。どう見てもこの間まで幼児だったかのような幼い顔立ちだった。誰のことも信用していなかった。両親すら。

 父はにこにこ笑いながらしゃがみ込み、ライリーの半袖シャツの肩をぽんと叩いた。ライリーは飛び上がった。

「ライリーはコンピュータの天才なんだ。この間までずさんな管理の会社のシステムに入り込んでは荒らしまわるのを趣味にしていた」

 あどけない顔に似合わないが、意外にもそういうところがあるらしい。ライリーはぼくをじっと見つめていた。だからぼくも微笑んで見つめ返した。すぐにライリーは目を逸らした。

「前の家ではスクールの授業を受けることも許されなかったが、ここなら君は勉強ができる。そしたらきっとソピアー社の幹部にだってなれるさ」

 父は屈託なく笑い、ライリーに顔を寄せた。彼は父から二センチほど体を離した。

「ソピアー社なんて」

 初めてライリーが声を発した。か細い子供の声だった。

「ソピアー社なんて自分には無理だって言いたいのか? 大丈夫。君ならできるさ。君の知能と能力ならね」

 父はまたライリーの小さな肩を叩いた。ライリーは小さな唇を尖らせた。

「ソピアー社なんてぼくが入るのに相応しくないよ。下らない会社だ」

 サロンがしんと静まり返った。退屈そうに互いを見ていた双子も、笑っていた両親も、早く時間が過ぎるのを無の表情で待っていたアーサーも、呆気に取られてライリーを凝視した。ソピアー社は世界でも特別な位置づけにある。天才たちが集められ、システムを作っている。それをたった八歳のライリーが「下らない」とくさしたのだ。しかも、ライリーはコンピュータを得意としている。

「すごい自信だな。これは有望株だ」

 父が朗らかに笑い、場は収まった。ぼくたちはほっと息をつき、やっと解散となった。アーサーは自分の部屋へ、双子は楽器の練習に防音室へ、母はライリーを部屋に案内しようとしていた。ライリーはまたぼくを見た。ぼくが微笑むと、目を伏せて走り出した。母がそれを追う。

 父がぼくに話をしようという素振りを見せた。

「どうだい? 調子は」

 ぼくは何の話かわかっていたので、微笑んだまま彼の求める答えを伝えた。

「CGASを受けられそうか、という意味なら、そうだ、と答えるしかないね」

 父は戸惑ったようにうなずく。

「受けられそうなら、今年中に受けて来年大学を受験するのはどうだろう。君の学力をほったらかしにするのはもったいないと感じてね」

「ぼくは……」

「君が大学に入るのを嫌がるのはどうしてだい? 年上の大学生と接するのは慣れただろう?」

 その通りだ。ここ一、二年でぼくはたくさんの友達ができた。大学ではぼくの背が低いことや極端に若いことは不利に働いたが、それでもぼくはうまくやった。アーサーとは違うのだ。でも、そんなことは関係ない。

「ぼくは、天才じゃなくなるのが怖い」

 正直に伝えた。

「アーサーが次々に成果を上げたあとに、同等かそれ以上のものを結果として出せるかどうかが怖い」

「コリン」

「ぼくは、アーサーとは違う。がむしゃらに突き進んでいくことができない。周りが見えてしまうしどう評価されているのかわかってしまう。だから余計に怖いんだよ」

「君は能力が高いから余計にそう思ってしまうんだね。でも」

 父はぼくの肩に両手を置いた。父は真剣な顔でぼくを見た。

「そんなことでわたしの愛情は揺らいだりしないよ。君が天才かどうかなんて、もう関係ないんだ」

 父が嘘をついているようには見えなかった。

「君が行きたくなければ大学にはしばらく行かなくていい。だから、自分を見失うな」

 ぼくはうなずいた。嬉しかった。父はぼくを愛してくれているのだと。

「アーサーと比べるのはよせ。ペアにしたのは劣等感を抱かせるためじゃない」

 父は手を離し、ぼくを見下ろした。じゃあどうして? そう訊こうとしたが、その前に父はソファーに歩いていき、座った。

「ライリーの話を聞いてやってくれないか。何だか緊張しているようだ」

 話はそれで終わったようだった。


     *


 部屋をノックすると、小さな声で返事が返ってきた。

「誰?」

「コリンだ」

「いいよ。入って」

 中に入ると、そこは白い壁の、濃い赤と青の調度品が置かれた部屋だった。真っ青な枕が並んだベッドには真っ赤な掛け布団がかかっていて、ぼくなら眠れそうにない。ライリーは青いコンピュータを起動させていた。周りに文字が広がり、彼はその一つ一つを指でスライドさせ、チェックしている。父の話は本当らしい。コンピュータやシステムの深層に入り込むのは彼の得意技のようだ。

「コリン」

 ライリーは先程とはまるで違ったはっきりした声でぼくの名前を呼んだ。

「コリンはどう思う?」

「何が?」

「とんだクソ野郎って思わない?」

「父さんのこと?」

 驚いて訊くと、ライリーはコンピュータに向かい合ったまま答えた。

「そうだよ」

「どうして? ぼくはここに来てきちんとした教育を受けられるし、何不自由なく暮らしてる。父さんには感謝しかないよ」

「ふうん。元々刑務所にいたんだって?」

 先程のやり取りでは話されなかったことなので、ライリーがここに来るまでに説明を受けたのだろうと思った。

「そうだよ」

「ふうん。刑務所ではケネスとトウジ、あとリリーって女の子と行動を共にしてたんだね。リリーって子はコリンの恋人?」

 仰天し、彼に近寄る。彼の周りの文字列は、ぐるぐるととぐろを巻くように広がっている。何も読み取れない。

「簡単だよ。ソピアー社のシステムに入り込めば、リングの位置情報や会話の一部が記録されてるから」

 何を言ってるんだ?

「ぼくが下らない中小企業のシステムを破壊して楽しんでるんだと思った?」

 とぐろを巻いた文字列はぼくの周りにどんどん満たされていく。

「それら企業からお金をくすね取るんだよ。ぼくは貧乏だったからね。それにソピアー社は本当に下らなくてさ」

 コンピュータの上に平面が浮かび、動画として動き出すと、裸の男女がベッドの上で睦み合いを始めた。

「これが幹部だよ。新大陸人の。監視用のカメラがついてきてることに気づいてないんだよ。馬鹿だろ。ああ、両方ともパートナーがいてね、これはまずいな……。うっかりぼくが両方のパートナーに送ったら、離婚する羽目になっちゃうかも。CEOに送れば幹部の座も危ういかもね。しっかし。美しくもない普通の男女のセックスなんて、醜くてポルノにもならないね」

 ライリーは動画の前でさっと手を振った。動画は消え、文字列も消えた。

「コリンはクソ野郎のこと好きなんだね。意外だよ。何だか刑務所にいたときは冷静で冷徹に思えたから」

 入念に下調べをしていたのだとわかった。ぼくは深呼吸をした。

「ライリー」

「ライリーじゃない」

「どういう意味?」

「ぼくの名前はライリーじゃない」

「父さんたちに新しく名づけられた名前ってこと? 気に入らないのはわかるけど」

「生まれたときからライリーって名前だよ」

「じゃあ、どうして……」

「あたしは女の子だ」

 ライリーはうつむき、それでもはっきりと発音した。一瞬、考えた。ライリーは男の子の服装をしていた。半袖の白いシャツにズボンを穿いて、髪は刈り上げ、女の子には見えない。

「君は女の子だったのか」

「体は違うけど……。女の子だよ」

 ライリーはぼくをじっと見つめ、唇をぎゅっと閉じていた。やっと意味がわかった。同時に、ひどく同情心を感じた。身に着けることが義務化されているリングは、多くの可能性と情報を秘めている。けれど、使うかどうか、どれほど使うかは人による。全員がリングを身に着けているからといって、同じ知識と同じ価値観を持っているとは決して言えないのだ。今の時代はジェンダーロールが曖昧になっている。それでも女の子らしさ、男の子らしさは頑固に存在する。それがぼくたち教育を受けた人間よりもずっと狭義となる人々は、社会のあちこちにひっそりと存在する。ライリーはそんな場所で生きてきたのだろう。

「名前を変えたいんだね」

 ライリーという名前は女の子にも使える中性的な名前だ。それでももっと違う名前にしたいのだろう。

「そうだよ。それに髪も伸ばしたい。普通の男の子に許される範囲じゃないよ。うんと、背中まで伸ばしたい」

 段々彼女は明るい表情になってきた。さっきまでの険しい顔とは比べ物にならないくらい。

「ピンクの洋服と髪飾りは?」

「ピンクはうんと濃いほうがいい」

 彼女はついににっこりと笑った。かわいらしい顔だった。

「それをぼくから父さんに伝えてほしいんだね」

「そう」

「自分で伝えたら? 父さんたちは受け入れてくれるよ」

「嫌だね。クソ野郎に直接頼みごとするなんて」

 ため息をつき、うなずいた。

「それにしても、どうしてぼくに頼むの?」

 彼女はじっとぼくを見つめた。はしばみ色の目の中に炎が見えた気がした。

「コリンとあたしは気が合いそうだと思ってさ」

 ぼくは首を傾げ、だといいけど、と答えた。出ていくとき、彼女は後ろから声をかけた。

「本当の話をするときは、絶対にあたしの部屋でするんだよ」

「どうして?」

「どうしてもだよ」

 意味がわからないながらも、うなずいた。


     *


 そして彼女はメロディーという名前に改名した。両親は当然のように彼女を女の子扱いし始めた。真っ赤なリボンつきのカチューシャを買ってあげ、ピンク色の上下のセットアップを一緒に買いに行った。けれど彼女は決して両親に懐かなかった。懐くとしたらぼくにだった。

「ねえねえコリン。犬がいるよ。外に行こうよ」

 メロディーはぼくを呼び、小さな手で引っ張った。先程大学の講義から帰ってきて一息つこうとしていたところだったから、まだ暑い初秋の真昼に外に出るのはうんざりだったが、不思議と逆らうことができず、やれやれと立ち上がる。双子は音楽大学へ、アーサーは大学へ、両親はそれぞれ仕事に出かけて家には使用人しかいなかった。ぼくしかメロディーを相手できないのだ。

 メロディーの髪は伸び始めていた。ごく短かった髪はふんわりと女の子の長さになり始めていて、その縮れ毛が走るたびにふわふわと上下に揺れるのは微笑ましかった。外でダルメシアンの剽軽な顔を指さして走り出そうとするメロディーの頭にポンと触れた。彼女はぼくを見上げ、にこにこ笑った。

 散歩中のダルメシアンは、門の柵越しにしげしげとぼくらを見つめ、飼い主と共に優雅に歩き出した。

「あたしも犬を飼いたい」

 メロディーは心底羨ましそうにつぶやいた。

「どんな犬種?」

「スタンダードプードル。白いやつ」

「君より大きいと思うよ。散歩させられないんじゃない?」

「子犬のときから飼うんだよ。子犬は小さいじゃないか」

「それならさ」ぼくは彼女に向き直った。「父さんたちに直接頼めばいいんじゃない?」

 メロディーは口をぎゅっと不満そうな形にした。

「そうやってコリンはあたしとクソ野郎を話させようとする」

「君はクソ野郎と言うし、父さんにも何か秘密があるんだろうさ。けど、父さんたちとはうまくやったほうがいいと思うよ。表向きだけでもね」

 メロディーは口をつぐみ、考えた。

「あたしだってうまくやりたいよ。けど、あたしは正直なんだ」

 正直だと父を嫌いになるというのだろうか? 裏の父は知らないが、ぼくにとって父は助けてくれた人、愛の人だ。

「君が正直なのは、いいことだよ」

 ぼくはメロディーの髪を撫でた。メロディーはくすぐったそうに笑った。

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