4 サイクリング
「アーサー、君は行かないの?」
十三歳のある日、父が街を散策しようと提案したので家族で出かけることになった。サウスボストンにある自宅を出て、チャールズ川沿いのストロー・ドライブを自転車で行こうと言うのだ。双子はピアノとヴァイオリンの練習に飽き飽きしていたから、その案に一も二もなく飛びついた。ぼく自身、いい気分転換になると思って参加することにした。問題はアーサーだった。父が新大陸での仕事から帰ってきたばかりだというのに、家で勉強をするというのだ。
「ほっとけよ。お前はそういうの好きなんだろうけど……」
サロンの広いソファーで丸くなってコンピュータの相手をしていたアーサーは、イライラした顔でぼくをにらみつけた。続く言葉は「おれは苦手なんだ」だろう。まあいい。彼の社交性のなさはわかりきっている。家にいたければいればいいじゃないか。
ぼくは彼を放って既にお揃いのネオンイエローの自転車に乗った双子のほうに向かう。父も母もそれぞれの自転車に乗って待っている。芝生はキラキラと日光に輝いている。雨上がりの初夏の日。午前中の爽やかな風。
「アーサーは?」
メアリーが訊く。ぼくは肩をすくめる。途端に双子は軽蔑の眼差しを家に向けた。
「あいついっつもそう! 暗いんだよ」
ヘレンがうなずき、早くも自転車を漕ぎ出そうとペダルに足を置いている。
「早く行こ。わたしは運動がしたいの」
双子の反応は残酷だな、と思いつつも、心の中では同意していたのでぼくも自転車にまたがった。両親は目を見合わせ、父がため息をついた。
「待っていなさい」
父は自転車を置いて家に入った。長丁場になることは目に見えている。行かなくていいのに、と苛立つ。でも、ぼくは感情を押し殺し、メアリーやヘレンをなだめていた。
あいついっつもそうなの。わたしたちをイライラさせるの。友達もいないし。わたしたちだって仲良くなんかしてあげないし。一生一人なんだろうね! ばっかみたい!
ぼくやアーサーより一つ年上の双子は、ゴルゴン三姉妹の一人欠けたバージョンのような恐ろしい表情でぼくにまくしたてた。初めて会ったときは双子とアーサーは同じようにぼくを無視していたから、仲がいいのだと思っていた。そうでもないらしいとわかったのはすぐのことで、双子は翌日話してからぼくを気に入ってくれ、何くれと話しかけてくるようになった。やれピアノの家庭教師の鼻が曲がっている、やれ音楽大学にいるヴァイオリンの講師は口が臭い、と二人はひどい毒舌だった。二人とアーサーがうまくいかないのも道理だと思えた。アーサーは自分が他人を敵視するわりに、自分に対しては優しさを求めるからだ。
もう十五分ほど経っていて、朝の日差しも少し強さを覚えてきた。もうすぐ十時だ。昼食のころには双子がおいしいものを食べたいと騒ぎ出すに決まっているのに、このペースではゆっくり過ごすこともできない。
父が出て来た。次に、渋々という顔のアーサー。自転車置き場に向かい、自分用の黒い自転車を持ってくる。
何だよあいつ。来る気なんだ。来なくていいってば!
双子のささやきに耳を傾けつつ、ぼくはアーサーが来て心から安堵したような顔を作った。ぼくはアーサーのペア。彼を大事にしなければならないと父に言われているから。
「あなたたち。アーサーが来たらその口を閉じなさい」
母が少し凄みを効かせて注意した。双子はそれぞれの方向にふい、と首を振る。二人は最近何だか変だ。あんなに好きだった母のことを無視する。この間訊いたら、ヘレンは「何でだろ。わかんない」と答えた。メアリーは「何か母さんにイライラするんだ。ムカつくっていうか……」と言う。意味がわからなかったので首を傾げていたら、ヘレンが小さな声を出した。「わかってんだよ。ただの反抗期だって」と。
つまり、二人は母に対して反抗しているのだ。生物学的な事情で。ぼくはますますわからなくなった。だって、ぼくは双子と一つしか違わないのに、そんな感情はないからだ。父さんや母さんに反抗しようなんて、思わない。二人はぼくを助け、育ててくれているからだ。
「さあ、行こうか」
父が自転車で走り出した。次に続くのは、アーサーだ。大きなやすりで新しい心臓を削られたような気になる。意地になって、ぼくはそれに続いた。次に双子。最後に母だ。
自転車用レーンを進んでいく。都市部なので自然はさほど多くないが、道は並木道になっているし、建物の周りには植え込みが多く、公園もある。海が近いのもあり、潮の香りがする。もうぼくは感じなくなったけど。通りは広く、大所帯で進んでいくにも不便がない。いくつかある大きな建物の間を真っ直ぐに進み、何度か道を左に回ると河口が見えてきた。そこにかかった橋をのんびりと通る。
体を動かすのは気持ちがいい。心臓が治ってから――正確には新しい心臓をもらってから――いつも思う。自転車はオートバイクと違って体を動かせるから、ぼくは好きだ。アーサーはどんなに短い距離でもオートバイクで行くけれど。だからあんなにひょろひょろなんだ、あいつは。
アーサーの顔を斜め後ろから見る。無表情だ。本当に楽しくないのだろう。父に説得され、父に嫌われるかもしれないと思ったから来ただけなのだろう。つまらない奴だな、と思う。こんなつまらない奴を可愛がっているように見える父は、きっと彼を憐れんでいるだけなのだ。
「あっ、ベーグルの店だ!」
双子のどちらかが言った。ぼくは二人の声の区別がなかなかつかない。でも、多分メアリーだ。後ろから母の声がし、ぼくら五人はメアリーとヘレンが求めるままに、ベーグル店の前に停まってショウウインドウ越しに店内を眺めた。店内の客席は一杯で、到底入れそうにない。入り口からすぐの大きなガラスケースには多種多様なベーグルの具――サーモン、チーズ、ローストビーフ、オニオン、レタス、アボカド、トマト、クリームチーズ、ヴィーガン用の得体のしれないチーズ風のもの――が並び、客が次々好きな具を注文していた。
「食べたーい」
ヘレンが憧れを隠さずに父を見る。父は渋い顔だ。
「もっとましなものがあるだろう? 一流のレストランの料理でなくてもいい。こんなのとは違うしっかりした家庭料理が? 工場の自動調理機で作ったサーモンやアボカドなんて、体にいいわけがない。家で中山の作った料理を食べることがどんなにありがたいことか、君たちはわかっていない」
中山とは、ぼくらの家にいるコックの名前だ。彼女の料理は自然な食材が使われていて上質でうまいが、栄養満点の正しい料理を毎日食べていると、もっとジャンクで自分の好みにしか合致していない食べ物を食べたいと思うこともある。双子には同意だ。
双子はむっつりと黙り込み、メアリーが「いいよ。わたしまだお腹空いてない」と折れた。ヘレンが裏切られたような顔になり、次に同じ表情になった。
ぼくらは大きく古く、優雅な建物が混み合う地帯に来ていた。ベーグル店の前から離れ、広いチャールズ川のほうに向かっていた。この辺りは建物同士が離れ、すっきりしている。新大陸人は、都市部には促成剤を撒かなかった。そして自然保護区もそのままに任せた。田舎や人の少ない場所には撒かれただろうが、ぼくの知ったことではない。ここボストンは百年前とそう変わりない。植物が自身の力だけで育つボストンは、いい都市だ。
車が行きかうストロー・ドライブをずっと進み、MITを川向うに眺めながらボストン美術館に向かった。ボストン美術館は相も変わらず街中に石造りの姿を見せている。アメリカ合衆国の国旗こそなくなったが、世界政府の陰気な旗が入り口にはためき、ここが世界政府の管轄する重要な文化施設であることを示している。自転車を停め、道を歩いて中に入る。広々とした館内には、いくつもの名画や名品が展示してある。ゴッホ、ゴーギャン、ミレー、ルノワール等の有名な作品に加え、近年の作家の大作が壁を飾る。美術館というよりは名士の家のようだ。豪華だが、さりげない。
双子は感嘆したようにそれらを眺めている。二人はぼくらの中でも芸術的センスが段違いに優れていて、幾度となく見たであろうこれらの絵画に、何度目かの雷に打たれたかのような感動を覚えている。とてもじゃないが、そういうところは到底敵わない。
ぼくは一つの絵を五秒ずつ眺め、面白いとは思ったが次第に退屈を覚え、美術館から出た。広い敷地の上の空を眺め、退屈な時間を過ごそうと思った。
アーサーがそこにいた。入り口近くの柱の前に、立ち尽くしていたのだ。ぼくを見て顔をしかめた。ぼくだってそうだ。彼と二人きりなんて、冗談じゃない。また中に入ろうとした。
「双子はあと三十分以上中にいるぞ」
ぼくは振り向いた。彼はしかめ面のまま、ぼくを見ていた。
「美術館が退屈なら、芝生でも眺めればいい。人間が作ったものよりは崇高で面白い」
「芝生だって人間が作ったものだよ。品種改良し、手入れしている」
ぼくが意地の悪さを隠しもせずに笑って言うと、アーサーはむきになって答える。
「芝生の祖を作ったのは人間じゃない」
「ぼくは空を眺めるほうが好きだね。芝生は好きじゃない」
見上げると、空はとても青く、高く、ぼくを魅了した。こちらのほうが絵画のようだ。美しすぎて、嘘くさい。
「ドームは空がなかったんだろうからな」
アーサーがぼくにやり返す。ぼくは何だか、ひどく、傷ついた。
「そんなことを言う必要がある? ぼくは君たちとは出自が違うんだ」
「憐れんでほしいって言うのか? お前はそんなに弱いのか?」
ぼくは彼の前で感情的に揺すぶられていた。悔しかった。あのときとは正反対だ。そうだ。ぼくは大学に行くのが怖く、また一年CGASを延期した。それとは逆に、彼は着実に大学で成果を上げ、九月から大学院に進むそうだった。ぼくとは、違うのだ。
「君たち、もういいのか?」
振り向くと父がいて、気づけば力強くぼくとアーサーを抱き寄せていた。アーサーの細い顔が近づいた。そばかすだらけの顔は美しくなどなく、ぼくは大嫌いだった。
「おれは美術品なんて好きじゃない」
アーサーは父の前で不機嫌な顔をした。唇を尖らせ、眉根を寄せて眉間にしわを作って。
「何で父さんはおれをここに連れて来たんだ。おれは行きたくないって言ったのに」
それを見ていて、奇妙な心地がしていた。アーサーは父に駄々をこねている。小さな子供のように? いや、違う。彼は十三歳相応の反抗をしているのだ。反抗期は彼にも訪れていた。
「そう言わずに。双子はああいうものが大好きだし、必要なんだ。つき合ってあげてくれ」
父は勢いよくぼくとアーサーから離れ、美術館に戻った。ぼくはアーサーの隣で一人、わけもわからず沈み込んでいた。
帰り道では、父が特別に双子の食べたがっていたベーグル店に入ることを許してくれた。双子はベーグルの半分に山ほどアボカドとクリームチーズ、サーモンを載せ、もう半分を重ねてもらっていた。こぼれるのが前提の食べ物のようで、四角いフィルムの袋に入っている。双子以外の家族も注文したが、さして食事は進んでいない。ぼくはオニオンとローストビーフを挟んでもらって一口食べたが、やはり合成食物はおいしくない。
双子は意地になったかのようにおいしいおいしいと食べていたが、完食したあと、自転車に乗る前に「中山は今夜何を作ってくれるかな」と話し合っていた。そらみたことか、とぼくは目をくるりと回した。
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