3 アーサー

「お前、刑務所生まれなんだって?」

 父に案内してもらった自分の部屋に腰を落ち着け、その部屋がバスルームつきであることに感動し、ぼく好みのネイビーの壁紙やシンプルな調度類、デスクの上の最新のコンピュータに驚いて、父に感謝の言葉を告げようと部屋を出たときだった。後ろからそう聞こえてきた。

「やあ、アーサー。そうだよ。それが何か?」

 アーサーは先程よりも明らかなぼくに対する関心を――はっきり言えば敵意を――表していた。茶色の目は冷たい感じがする。ぼくの灰色の目も同じだろうが。アーサーは片頬だけを上げて笑った。

「刑務所生まれが知能の高さで父さんに拾い上げてもらった。さぞかし自分の能力に感謝してるんだろうな。でも、お前は所詮刑務所生まれだ。あの刑務所は人間の廃棄場だよ。さしづめお前は廃棄物ってところだな」

 ここで殴るのがぼくのするべきことだと思った。でも、できなかった。体の弱かったぼくは、殴り合いの喧嘩をするという発想が咄嗟に出てこなかった。ドームだったらケネスとトウジに護衛してもらって、誰もこんなに無礼なことを言えなかったはずだ。二人は体が大きく、乱暴な遊びにも慣れていた。二人を捨てたぼくは、アーサーに丸腰で挑む羽目になってしまったのだ。

 それならぼくは自力で自分のプライドを守るしかないじゃないか。

「アーサー、じゃあ君はどうしてここにいるんだい?」

 ぼくは完璧に微笑んでいた。微笑むのは得意だった。目の前の相手がどんなに必死でも、あざ笑うように優しく微笑むのはぼくの得意技だった。

「君は元々旧大陸人なのかもしれないね。でも養子としてここにいるってことは、君は親に捨てられたんじゃないか? 廃棄物なのは、君も同じなんじゃないの?」

 アーサーが顔を真っ赤にした。どうやら図星だったらしい。

「直進できる君が羨ましいよ。ぼくは工夫を凝らしてどうにか困難を避けて生きるしかない。君の生き方は、苦しいんじゃないか? 今までにも多くの人に困難を与えてきたんじゃないか? 才能があったとしても、それは人間として辛い生き方なんじゃないか? 心配でならないよ」

 ぼくは暗に「コミュニケーションのできない馬鹿」と言ったのだった。ところがアーサーはそれがわからなかったらしい。困惑したような顔をした。なるほど、いきなり罵倒から入るのでそれを揶揄しただけのつもりだったが、彼は本当にコミュニケーションが苦手らしい。

 壁に点々と小さな風景画が飾られた廊下は、真っ直ぐに長く続いている。両親の部屋を挟み、一番奥に双子の部屋がある。母が双子と階段を上がってきた。双子はぼくと向かい合っていたときとは全く違う明るい年相応の表情で笑い合い、母と話をしている。

 母がこちらを見た。ぼくはアーサーに向き直り、新しく話を始める。

「君の才能がどれほど素晴らしいのか知らないけれど、ぼくもそれなりに努力してきたんだよ。父さんの言うペアというものをうまく理解していないけど、ぼくは君と切磋琢磨してやっていけたらいいって思うよ。なのに……」

 母に伝わるよう、明瞭な声で言った。アーサーの顔が歪んだ。今、何をされたのかは理解できたらしい。母がこちらにやってきて、アーサーを困った顔で見て諭すような声を出した。

「アーサー、コリンに何か酷いことを言ったのね。あなたの才能は素晴らしいわ。父さんも認めているでしょう? 来たばかりのコリンに突っかかったりしなくても、父さんはちゃんとあなたを愛しているわ」

 アーサーは泣きそうな顔になった。十一歳らしく、こういうときには泣きたくなるような精神構造をしているらしい。

「おべっか使いの……刑務所生まれの廃棄物!」

「やめなさい」

 母が落ち着いた低い声で彼を叱った。彼はぶるぶる震え出し、振り返って自分の部屋に駆け込んだ。ドアの閉じる大きな音がした。

 母はぼくをじっと見つめ、気遣わしげに肩に手を置いた。

「気にしないで。アーサーは情緒が不安定なの。元のご両親にずっとほったらかしにされていて……」

 ぼくは悲しい表情を作ってかすかに笑って見せた。

「いいんだ。ぼくの出自のことで誰かに何かを言われるのは覚悟のことだったから。それよりあそこから出られたことはとてもありがたいし、幸運なことだと思ってるんだよ。父さんと母さんにはとても感謝してる」

 母は慈愛に満ちた表情でぼくを見つめた。よし、これで問題はクリアだ。ぼくは内心うなずいた。あとは両親の信頼を得るために、より努力をしなければならない。

 母と別れ、自分の部屋で考え事をする。この部屋はぼくへのプレゼントだ。グレーのデスクの上の白いコンピュータは十五センチ角で、最新式のもの。ぼくが勉強するためのものだろう。ぼくはこれから家庭教師をつけられ、ドーム育ち故に欠けている学力の穴を埋めていかなければならない。

 ぼくは父の求める成果を上げられるだろうか? ぼくは真の天才になれるだろうか? ぼくは、父に愛されるだろうか?

 ずっと目に焼きついて離れない光景がある。アーサーを紹介するときの父だ。彼は双子を紹介するときはぼくの側にいた。けれど、アーサーを紹介するときには彼のほうに歩いて行き、肩をしっかりと抱いたのだ。おそらく、アーサーは父の一番のお気に入りだ。

 頭の中でその光景が何度も繰り返される。ぼくは、アーサーから父の愛を奪い取れるだろうか?


     *


 ぼくは家庭教師の教える十二学年分のカリキュラムを、半年で修了した。特殊な出自のぼくは、父の力添えで一般学力認定試験CGASさえクリアできればスクールのレベルをクリアしたと認められることになったそうだ。そして世界共通学力試験CSTを受け、面接を行い、様々な資料を提出し、晴れてぼくは大学に入ることになる。

 正直、浮かない気分だった。父は、あくまでアーサーを可愛がっていたからだ。

 アーサーは不器用な人間だった。ぼくが父に話しかけられ、二人で談笑していると、不安で気が狂いそうになるようだった。そんなとき、彼は大抵ぼくと父の会話にどうでもいい話で割り込んできた。例えば彼が最近取り組んでいる数学の命題をいかにクリアしたか。新しい素数が見つかるとしたらどれくらいの桁か。月の軌道をどう計算すればわかりやすい単純な形に証明できるか。彼がいかに数学に命をかけているか。要は自分の才能を必死に売り込んでいるのだった。哀れなほどに。父は数学の専門家ではないからその話ばかりされても退屈するだろうに、彼に対する態度は大らかで、彼を優しく褒め、優秀さを称え、父は彼の面倒なところも厄介なところもひっくるめ、愛しているかのように見えた。それを見て焦燥に駆られるのはぼくのほうだった。

 アーサーは既に大学に通っていた。天才少年として常に目立っていた。他の大学生と比べたらずっと華奢な体で、オートバイクで通学し、浮かない顔で帰ってきた。彼には友達がいなかった。気の毒なくらい。自分より五歳以上も年上の人間がほとんどの環境で、天才児として勉強するというのはどんな気分なのだろう。少なくとも楽しくはないようだ。

 ただ、彼は着実に才能を開花させようとしていた。「天才児」から「天才」へと変貌しようとしていた。彼は常に部屋にこもり、勉強や研究をしていた。その気迫ある表情は、サロンでくつろいでいるときにも見られた。彼はサロンにコンピュータを持ち込み、数字と記号を打ち込み続けた。実際、彼は大学でも成績が優秀で、ほとんどトップのようだった。新しい公式を見つけ、難解な計算式をシンプルに作り直したとも聞いた。公式にはアーサーの名前がついていた。ぼくが勉強をするときに、彼の公式を使えば計算が楽になることに気づいた瞬間は癪に障った。父はアーサーを褒め、可愛がり続けた。

 認めよう。ぼくは大学に入ってアーサーと並ぶのが怖かった。比べられるのが怖かった。彼に対する父の愛が、はっきりと能力の分だけ注がれていくのが、ぼくに対するものよりも明らかに多いとわかることが、怖かった。

 ぼくは大学に入ることを一年先送りした。大学の特別聴講生として文学や哲学など多くのジャンルの講義を受けることとなり、それによって誤魔化した。父は笑って言った。

「君はまだ若い。大学に入ることで苦労することも多いだろう。だから、気に病むことはないよ」

 ぼくはすまないという気持ちを表し、「ごめん、父さん」とうなだれた。彼はぼくの肩をぽんと叩き、

「君は君なりに進んでいけばいいんだ」

 と励ました。ほっとした。いつのまにか、ぼくは臆病者になっていた。

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