6 十五歳になったら
「廃棄物」
イライラしながら帰ってきたアーサーが、サロンでメロディーと隣り合ってソファーに座っていたぼくに、唾を吐きかけんばかりの顔で言った。ぼくは無視した。
「おい、廃棄物。返事しろよ」
メロディーが信じられないものを見る目でアーサーを見ていた。恐らくこの蔑称でぼくが呼ばれるのを初めて見たのだ。
「何とでも言えよ。君の言葉に色々加えて父さんに伝えてやるから」
ぼくが微笑むと、アーサーは激昂してぼくにつかつかと歩み寄ってきた。
「そうやって父さんに嘘ばかり伝えてうまくやるんだろうけどな」
「何だよ」
「お前は父さんに愛されやしない。真に天才なのはおれなんだ」
ぼくは黙っていた。感情が揺れていた。もうありもしない心臓の穴のせいで心臓が痛む気がした。
「お前はCGASすら受ける勇気がない。おれと並ぶのが怖いからだ」
ぼくはじっと向かい側のソファーを見つめる。
「お前はおれと違って天才じゃない!」
「大学で君を超える天才にでも出くわしたのかい?」
ぼくは再び微笑んでいた。アーサーがイライラする理由なんてお見通しだ。
「そいつは君よりも少し年上だったんだろう? そして君から遥か遠いレベルで学問をしていた。君は若くして大人のできないことができれば真の天才なんだと思い込んでいた。それが違うとわかってしまった。天才とは他の人類がなしえないことを可能とする人間のことだった。そうじゃない?」
アーサーが震え出した。わなわなと、手足が揺れている。
「天才児は必ず天才になれるとは限らないんだよ。ぼくはとっくにわかっていたさ」
ぼくが哀れみを込めてため息をつくと、アーサーがぼくに飛びかかってきた。とっさに立ち上がってメロディーをかばう。その瞬間、ぼくは思い切り押し倒され、馬乗りのアーサーに首を絞められていた。
「死ねよ。ずっと思ってた。お前が死んでしまえばいいって」
呼吸ができない。ばたばたと暴れ、アーサーの手を引き剥がそうとする。メロディーが金切り声を上げ、アーサーを叩く。アーサーはメロディーを右手で突き飛ばした。その瞬間、ぼくは体が自由になり、アーサーを勢いよくどけてメロディーの元に駆け寄った。メロディーは鼻血を出していた。顔を打ったのだろう。
「廃棄物は変態のことがお好きなんだな」
後ろからアーサーの意地の悪い声がした。
「何て言った?」
振り向くと、アーサーは笑っていた。
「そいつは男なのに女の格好をしたがる変態なんだろ? だから……」
ぼくはアーサーを平手で叩いていた。
「最低だな。君は天才でもなければ人間でもない。ただの野蛮な猛獣だ」
アーサーは茫然としていた。使用人が父を連れてきていた。大慌てで走り寄ってきた父は、ぼくの手をぎゅっと握って抑えた。まるでぼくが抑えようもないほどアーサーを殴ろうとしているかのように。
「アーサーはメロディーのことを変態と言ったんだ」
「わかってる。聞こえたから」
「ならどうしてぼくの手を押さえるの? ぼくはアーサーがメロディーを殴ることのほうが心配なんだけど」
ぼくは冷静だった。だから余計に見えていた。父はメロディーやぼくではなくアーサーを守ろうとしていること。父は全てをわかっていて、アーサーを真っ先に許していること。ぼくとメロディーは、父の子供として低い順位にいること。全てわかってしまった。
「わたしはお前が……」
「いいよ」
ぼくは微笑んだ。
「ぼくはアーサーのペアだから、きちんと許す。もう叩かない。だから放してくれる?」
父はうろたえたようにぼくを見た。後ろでアーサーが恨みがましい目でぼくを見ていた。父はぼくから手を離し、ぼくは握りつぶされたかのような痛みを感じる手を、開いたり閉じたりした。
「じゃあメロディー。一緒に行こう。鼻の手当てをしなくちゃ」
メロディーは手で鼻血を拭き、うなずいた。ぼくと彼女は歩き出し、彼女の部屋に向かった。
「本当の話をするよ」
メロディーは鼻血でくぐもった声でささやいた。
*
「痛いよう」
とメロディーは泣いた。ぼくは頭を撫でてあげ、彼女に下を向かせてティッシュペーパーで血を拭き続けた。涙をこぼす彼女が、本当に哀れだった。
「アーサーは馬鹿だ」
メロディーは泣きながら憤った。
「無知だ。愚かだ」
「それを本人の前で言うんじゃないよ。あいつは頭の良さを誇りにしてるんだ」
「数学ができてもその他がさっぱりの木偶の坊じゃないか。あいつを愛してくれる人間なんていないよ」
「父さんは愛してるよ」
苦い気分で小さく言った。メロディーはぼくをじっと見つめていた。はしばみ色の目が、もの言いたげだった。
「本当にそう思うの?」
「だってそうだろ。父さんは天才児コレクターで、アーサーは優秀だ。だから一番愛してるんだと思うよ」
心臓が痛い気がした。幻肢痛のように、以前の心臓が痛んだ。アーサーをかばった父。ぼくの手をアーサーの加害者のそれとして握りつぶした父。父はぼくに心臓をくれ、教育を与え、豊かな生活をさせてくれた。あの刑務所から出してくれた。憎みたくても憎めない。愛してくれとも要求できない。
メロディーは吐き捨てるようにつぶやいた。
「馬鹿馬鹿しい」
頭に血が上る気がした。ぼくは必死の思いでそうして生きてきたのだ。メロディーは何もわかってない。
「コリンは何もわかってない」
メロディーはぼくの手から離れ、ティッシュを小さくちぎってねじり、鼻に押し込んだ。手を拭き、デスクの椅子に座って青いコンピュータを起動させる。ぼくはじっと彼女の周りの文字列を見つめる。いつもの文字列とは何となく違う。彼女が潜り込む中小企業のシステムとは。何だかまじないの文字のように、それは部屋の壁に沿って流れていく。
「これはこの部屋の音や情報がリングに拾われないための工夫。今から何でも話していいよ」
「そこまでしなくても」
「あたしはソピアー社や世界政府に自分の個人情報を抜かれるなんてごめんだよ」
プライバシーなんて、もはやあってないものだと思っていた。子供のころからこのリングは手首についていたし、もう何度もリングに自分の要望や疑問や好みを明け渡してきた。今一番好きな文学作品は何か、さっき見かけた史跡は何を伝えるものか、最後にトイレに行ったのはいつか。ぼくらのアイデンティティーはリングにあるといってもいい状態だった。けれど、今からメロディー以外の人間には情報が渡らないのだ。急に深呼吸したような、視界が開けたような気分になった。
「メロディー、君は何を知ってる?」
「何だって。――何だって、調べればわかる」
メロディーはぼくを真っ直ぐに見る。
「じゃあ、ぼくが昔ルイ・ブランだったことは知ってるね?」
彼女はうなずいた。
「ぼくは、コリン・アッシャーになってしまった。ルイ・ブランではなくなってしまった」
声が震えていた。
「ルイ・ブランは確実に天才だった。頭が切れ、探求心に溢れ、自分が優れていることを疑わなかった。冷徹で、仲間に女の子の髪を切らせて笑っていたし、他人を憐れんだことなんてなかった。でも、ルイ・ブランには悩みがあった。心臓が悪いこと。それに、刑務所で処刑されるのを待つしかないこと。そこに彼が来た。彼は新しい心臓をぼくにくれ、温かい家庭でぼくを育てると言ってくれた。その代わり、ぼくは名前を売り渡してしまったんだよ。ぼくは、心臓をもらった。素晴らしい家庭で裕福に暮らせた。でもぼくは、ルイ・ブランではなくなってしまった! ぼくは天才ではなくなったし、傷つきやすくなったし、他人を憐れむようになってしまった。ぼくは普通の人間になってしまったんだよ。彼が求めるのは普通の人間なんかじゃないのに」
「戻りたい?」
メロディーは無表情に訊いた。
「不可逆的変化だ。ぼくはもう天才なんかじゃない」
「どっちにしたってさ」
彼女はコンピュータを操作した。文字列を指で叩いたり撫でたりして、新しい層に向かっていた。
「クソ野郎が求めているのは天才児でも、天才でもないよ」
突然、平面の画像にタイプされた文章が現れた。何かの研究報告書のようだった。愛情実験。同程度の能力のある二人の子供に愛情を与える実験を行う。ペアAは双子の少女であり、ペアBは同じ年齢の少年である。いずれも生育環境に問題のある児童であり、彼らがいかに愛情によって能力を変化させるかをこの研究の主題とする。
多くの資料が並べられていた。ぼくとアーサーの勉強時間や双子の練習時間の変化。成績の変化。自尊心の変化。表情の変化。活動量の変化。脳の部位の大きさの変化。
愛情は児童への適切な対処と処遇とする。父親ならびに母親は、児童が自尊心を損なわない程度の叱責を行うことは許されるが、暴力及び暴言は許されないこととする。必要ならば褒め、求められている場合は抱擁をし、慰めの言葉を与える。
ペアBの少年bは大人しくコミュニケーションが苦手――対して少年b´は社交的――bは成績の成長の変化が著しく、十三歳で大学を卒業し現在は大学院に――b´はそのようなbに対して気後れを感じ、CGASの受験を拒んで――。
確実にぼくらのことだった。ぼくは食い入るようにその画面を見つめ、書きかけの研究報告書の署名を見つめた。トマス・アッシャー、キャサリン・アッシャー。
なるほど、ぼくらは愛情実験の被験者だったわけだ。
「つまり、ぼくらは天才児だから連れてこられたんじゃないのか。天才児という条件はペアの能力を比較するために存在する一項目でしかない……」
冷静な反応を示すぼくに、メロディーは強張った顔を見せた。そんなに怯えることはないのに。
「じゃあ、ぼくが天才だろうが凡人だろうが、父さんも母さんも『適切な対処と処遇』しか与える気がないってことだな」
よくわかったよ、とぼくはメロディーに笑いかけた。メロディーは確実にぼくを怖がっていた。
「コリン、どうしてそんなに落ち着いてるの?」
「落ち着いてなんかないよ」
ぼくは微笑み続けていた。
「全部ぶち壊してやりたい気分だよ」
「どうして笑うの? 怖いよ」
「何故って、こうしないと抑えることができないからだよ。ぼくはこうして生きてきたんだ」
ねえ、メロディー、とぼくは彼女の肩に手を触れる。彼女はびくっと肩を震わせる。
「もっと面白い情報をくれよ」
メロディーはありとあらゆる情報をくれた。研究報告書だけでなく、ぼくらの過去についての資料――メアリーとヘレンは過去に性虐待の被害を受けていたがトラウマの治療として記憶を消されていた――両親の通話記録やメッセージのやりとり、両者の個人的な手記。
中でも手記がぼくを夢中にさせた。生々しい感情を記録した、ソピアー社と世界政府しか知りえない手記は、ぼくの中の父をただの人間にした。父は大学に行きたがらないぼくに苛立って、罵りの言葉を記録していた――。
ぼくは手近な人々の手記をメロディーに見せるように求めた。ぼくは読み続けた。双子の、アーサーの、使用人たちの、大学で知り合った人たちの、たまに寄るコーヒーショップの店長の。彼らは皆人間だった。飾り気のない、素朴な、清濁を隠さないありのままの人間だった。
次第に手を広げ、会ったことのない人々の手記を読み始めた。老人は自分の子供っぽさにうんざりし、子供は早く立派な大人になりたいと書いた。恋人が二人いる男は時間の工面とアリバイ作りに悩んでいた。会社員の女は上司をいつか殺してやると息巻いていた。そしてぼくは、十五歳の少女の日記に出会った。少女は「生きるのがとても楽しい」と書いていた。
生きるのが楽しい? ぼくは日記を読む手を止め、しばらく考えた。どういう意味だ? 頭の中で言葉が意味を結び始めた。ぼくは自分がこの言葉に惹かれる理由を考え、ようやくわかった。そうだ。ぼくも生きることに執着しているのだ。生きることは美しくなんかない。でも、生きているという事実は心を明るく照り輝かせてくれる。
メロディーを呼ぶ。彼女は他人の手記を探させては無我夢中で読みふけるぼくに恐れをなしている。
「明日、大学が終わったらまた日記を読みたいんだ。集めておいてくれないか。条件は、書いた人間が十五歳ってこと」
彼女はうなずき、部屋を出ていくぼくをじっと見つめ続けた。ぼくの考えていることが全くわからないという顔だった。
十五歳という条件に大した意味はない。ただ単純に、この年齢はキリがよかった。ぼくが世界を壊してめちゃくちゃにするのに。
ぼくが十五歳になったらそれを実行しようと思っていた。
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