5 事件
おれには人差し指がない。正確には右手の人差し指の第二関節までがないのだ。何でか? 記憶はない。当然だ。だっておれは生まれ落ちてすぐにハツカネズミの巣に放り込まれたからだ。鼠たちはおれをかじった。皮膚とか、髪とか、鼻とか。幸いにも今、皮膚はちょっとしたまだら模様程度の状態でちゃんとある。鼻も人並みにある。ただ、右手の人差し指は骨までかじられ、なくなってしまった。
おれがハツカネズミの巣に放り込まれたのは、両親の貧困のためだ。彼らは快楽に溺れ、欲にまみれてセックスをした。結果母親はおれを身ごもり、堕胎もできずに――正確には何も考えず、何もしなかった結果だが――おれはこの世に生まれてしまった。育てられないからソーシャルナンバーをつけられる前に、社会に認知される前に殺してしまえということだ。無知な彼らにしてはよく考えたと思う。鼠なら、生まれたての赤ん坊を骨も残らず消してくれるだろうから。とにかくおれは地下のボイラー室の鼠の巣に、投げ込まれた。痛かっただろうし、よく泣いたと思う。記憶がなくて本当に良かったとも。
何でおれは生きてるんだろうな。……そうそう、おれは掃除夫に助けられたんだった。鼠駆除も請け負っていた、何でもきれいにしてしまうおれの義父だ。彼はおれを見つけ、病院に連れて行き、おれの両親を訴え、刑務所行きにし、おれを育てた。気づけばおれは鼠駆除の助手として十歳を迎えていた。義父は無知で――おれの両親よりはましかもしれないが――おれに教育を受けさせる意味を理解できなかった。おれを鼠駆除係二号として扱った。おれは鼠を罠で捕らえ、毒で殺し、ごみ袋に入れ、ダストシュートに放り込んで日々を送った。
おれは鼠駆除の仕事をしながら十八歳になった。もうおれにはこの仕事しかなかった。物語を愛し、こっそりリングで読んでも、義父に「そんな暇があるのなら働け」と仕事に駆り出された。おれたちには金がなかった。生きていくだけで精一杯だった。義父自身、結婚したこともパートナーがいたこともなかった。そんなものは上流階級の人間の贅沢だった。
十九歳になったばかりのある日、おれは恋をした。別に何てことのない、書店の娘。金持ちでもない、どちらかといえば貧しい、少し愛嬌があるだけの少女。彼女はおれに声をかけ、おれは好きな小説と詩を教え、おれたちは話すようになった。彼女の母親の店は、ちょっとしたサロンになっていた。詩人が通い、作家が仲間同士で連れ立ってやってくる。そんな中で鼠臭いおれは浮いていた。でも、書店の娘である彼女はおれのことを気にしなかった。おれが行くたびに話しかけ、お茶を用意し、自分が読んでいる作品の話をした。
おれは彼女のことが好きで仕方がなかった。おれにまともに対応してくれる子は彼女が初めてだったし、彼女の頬のえくぼ、あれを愛さずにはいられなかった。おれはついに愛の告白をした。彼女は困った顔をした。おれは驚いて理由を訊いた。
――だってあなた、鼠の臭いがするでしょう? わたし、あれが辛くって……。
彼女は申し訳なさそうに、なのにどこか当然のことを言うような顔でそう言った。それでやっとわかったよ。おれは最初から生まれるべきじゃなかったんだって。鼠に食われかけたというおれの人生最初の経験を知った時点で、気づくべきだった。おれは生きるべきじゃなかったんだ。
*
体が痙攣していた。あたしの体は言うことを聞かなくなり、何度もベッドでバウンドする。体中が痛く、気づけば失禁していた。マレクのETは強力で、意味のある文章が体の中でぐるぐると渦巻いて全ての感覚を暴走させる。わけのわからない叫びが口から漏れた。痛い、とか逝く、とか、そういう言葉のようだった。快感はなかった。ただただ苦痛で、狂うような感覚があった。
「ライラ、どうしたんだ!」
父が部屋に飛び込んできた。暴れるあたしを抱き止め、ぐっとベッドに押さえつけた。それでも様子の変わらないあたしを見て、父はリングで救急センターへの通信を始めた。水を持ってきて飲ませ、あたしの口から何かを吐かせようと口に手を突っ込んでくる。
救急センターの車はすぐに来たが、他にもあたしのような人間がいるようだった。中に運ばれると次々通信が届いてくる。ベッドに押さえつけられ、胴体と手足を拘束される。そうしないとあたしが救急隊員に危害を加えてしまうからだ。
あたしは救急センターに運び込まれた。
*
何度も胃を洗浄され、薬の注射を受けた。そのころにはぐったりと何も考えられなくなっていた。あたしは木偶人形のように天井だけを見て過ごした。今は点滴で栄養を取りながらベッドに寝ている。体はひどくだるく、恐らくREDに対抗するための注射によるものだった。
白く清潔な部屋には六人ものET・RED中毒患者が寝ている。どれもあたしと同じくらいから二十歳と少しくらいの若い人間だ。全部で十万人以上の患者が世界中の病院に収容されているらしく、マレクはとんでもないことをやってしまったのだとわかる。
看護師は冷たい。この事態を面倒だと思っているのだ。点滴が終わって電子音が鳴っても、誰も来ない。
点滴のチューブをつまんで下に指を滑らせ、針を押さえるためのシールに触れる。あたしの肘裏にそれは貼りついている。針とシールとの境目をまさぐる。そして固い針のつけ根を見つけ、一気に引き抜いた。鋭い痛みが走る。そのせいで涙が目に浮かぶ。体を起こし、周りの患者たちがぼんやりと宙を見つめているのを確認し、あたしは立ち上がった。父は今日も仕事に追われているのか、見舞いには来ていない。三日後に退院するときのために普段着がベッドサイドの棚にしまってあったので、それを着る。
マレクからメッセージが届いたのだ。彼は姿を隠したはずだった。自分のリングを使い物にならなくして、誰からも見つからないようにして。そうニュース映像で言っていた。それなのにあたしのリングにはメッセージが来ていた。「ビルの外に来いよ」と書いてあった。
あたしは病院を抜け出した。フロアが丸々病院なのだが、平気な顔をして歩けば見とがめられない。窓のところに行くと大樹が見えた。メインエレベータは窓際にあり、あたしはそれを使ってビルの一階に向かった。
急降下するエレベータのせいでめまいがする。ガラス張りのビルの窓を見ると外の世界がゆっくりと上昇するかのような錯覚を起こさせる。あたしはマレクに会うのが楽しみだった。
一階に着くと景色は一変した。人が大勢いて、短期滞在者たちがビルを出るための手続きをするために並んでいるのだ。フロアの中心で待つ人、誰かに連絡を取っている人、別れの挨拶をする人々の集団にも出くわす。ここを出るには理由が必要だった。
あたしは出口に並ぶ人々の列に並んだ。最初のカウンターで制服を着た女があたしに射るような目を向けてくる。急に心臓が暴れ出す。
「ここを出る理由は?」
「あの、木を、間近で見たくて」
「バオバブの木ですか?」
「……そうです」
「時間は?」
「時間? 時間は……、二時間くらい」
女はコンピュータにあたしの言葉を入力した。
「時間内に戻らないと、失踪者としての対応が始まってしまいます。ご注意を」
あたしはうなずいた。死にそうなくらい緊張していた。あの木の種類を知ってしまったのも、動揺の原因だった。聞いたことのある、よくある木だった。それがひどく悲しいことに思えた。
カウンターの隅の端末にリングをかざす。途端にリングの上でここに戻るまでのカウントダウンが始まった。段々疲れてきた。ここまでして、どうしてあたしはマレクに会いたいのだろう。
荷物はないのでそのまま外へと歩き出す。長い屋根の下を通り抜けているだけで、外の空気の乾燥と熱が、皮膚に、口の中に押し寄せてくる。飲み物なんて持ってこなかった。早くも引き返したくなった。
バオバブの木は目の前にある。この巨木は、どうしてあんなところにあるのだろう。バオバブはサバンナ気候に適した植物だったはず。砂漠のど真ん中にあるようなものではないと思うのだけれど。
さく、と砂が鳴った。本当にここは砂漠なのだ。あたしは歩き出す。屋根の陰が途切れ、むき出しの太陽の光を浴びた。長袖の服を着ていてよかったのかもしれない。あたしの顔は、早くもじりじりと火傷をしそうに痛い。はあ、はあ、と懸命に呼吸をするが、求めているのは酸素ではなく水分だ。それくらい空気が乾いている。空は高く、サハラ砂漠はどこまでも砂山を作って続いている。無関心な地獄みたいだ。
こんなところに、何であたしは来たんだろう。でも、少しだけ、少しだけ歩いてみよう。マレクに会えるかもしれないから。さく、さく、とあたしはくるぶしまでの靴で踏み出す。誰もいない世界へ。
後ろから出てくる人々は、皆車に乗っていく。砂漠に歩き出すあたしは奇異の目で見られている。土煙を上げ、車は目の前を去る。
いくら歩いても、バオバブの木は近くに来ない。あの木はどれだけ遠くにあるのだろう。リングを見る。すでに十五分は経っている。あと一時間四十五分。マレク、マレク。あんたは本当にあたしを呼んだの? あれはあたしの妄想だったの?
後ろから人が歩いてきた。砂を早足で踏み、少しずつ近づいてくる。あたしはだらしない顔で呼吸を繰り返し、後ろの人物が何故真後ろを来るのかもわからないくらい頭の中が煮詰まっていた。
「ライラか?」
低い声だった。
「よく来てくれたな」
振り向くと、つばのある帽子を被った男が、あたしの前にいた。てっきり黒ずくめの服を着ているのだと思っていた。背も、もっと高いのだと思っていた。でも、その人は確かにマレクだった。砂漠の日差しを吸収しないように白っぽい服を着ていて、身長もやや背の高い女の子くらいだったけれど、その人の顔はまだら模様に赤くなっていて、日よけのための手袋の右手の人差し指の部分は空のようだった。
元の肌の色は知らないが、日焼けする前は白い肌だったのだと思う。目は水色で、帽子から出た髪は栗色だ。ハンサムでもないが、快活な感じのする顔だった。とてもあのマレクの顔だとは思えない。
「どこに行くって言ってある?」
にこりともせず、マレクは後ろを振り返った。
「ば、バオバブの木のところまで」
「じゃあ、そこまで歩こう」
あたしたちはそこから連れ立つことにした。あたしはひそかに笑った。嬉しくて、仕方がなかった。
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