4 絶望

「今、REDという薬が流行っていることは知ってるかい、ライラ」

 父がコンピュータを操りながらパンをかじり、咀嚼しながら訊く。あたしはどきりとして少し離れたテーブルから彼を見る。相変わらず彼はあたしのほうを見ずに懸命に仕事をこなしている。一つの大きな画面が壁に張りつき、小さなコンピュータからは五つの立体映像。そのうち一つにETとREDを扱ったニュース映像が流れている。あたしのせいで死んだ人のニュースじゃない。最近ETとREDのせいで若者の心が荒廃しているという内容だった。

「ううん」

 あたしは味の薄いケバブもどきを食べる。合成肉は固くてつまらない味だ。きっと本物とは味が違うのだろう。

「このREDという薬は脳を変性させてしまうそうだよ。使わずにはいられなくなるんだ。脳が委縮して、欲望に弱くなる。お前は使っちゃ駄目だよ」

「うん」

「ETも不健全だ。意味のない言葉だけを並べて、何が面白いのかねえ……。まあ、やってみないとわからない部分もあるのだろうが、これは若い心を削り取る」

「……世界政府は、どうしてETとREDを取り締まらないのかな」

 白々しいと思いながら、あたしは訊いた。大人たちはETとREDを危険だと言う。取り締まるべきだ、子供には使わせるなと言う。それなのに法律は作られず、ETのサイトは当たり前にアクセスでき、REDも栄養ドリンクなどが並んだ医薬品の自販機でごく普通に買える。おかしなことだ。

「そりゃあ、世界政府はわれわれ旧大陸人のものではないからね」

 父はちらりと穏やかな顔をこちらに向けた。太い垂れた眉の下の、細くて笑んだ目。

「新大陸人としては、旧大陸人には自分たちとの身分差や格差に目をつぶっていてほしいんだ。富の七十パーセントが人口の一パーセントである新大陸人のものだとしてもね。REDやETはぴったりだろう? 貧しい若者や生きづらい子供たちの居場所になってしまっている。それも不健康な」

 あたしは黙ったままでいた。父の話はもっともらしく聞こえたが、嘘くさい陰謀論のようにも思えた。世界政府は世界全体を統治する政府だ。あたしたち旧大陸人だってこの世界の構成員なのだし、そう簡単に切り捨てられるなんて思えない。

「ライラに友達がいたなら、そんなことを心配しなくていいんだけどね」

 父の最後の言葉に、あたしは苛立つ。

 なら、――なら、あたしを愛してくれる母親をちょうだい。そしたらあたしは自分を愛せるから。自分を愛せる人間なら友達だってできるでしょう?

 そんなことは言えない。何故なら父も母から捨てられたのだから。


     *


 ハツカネズミのホルマリン漬けを持ち歩くことが増えた。小さなお守りとして、あたしはこの子を連れまわした。バーチャルクラスのときも手にずっと握っていたし、寝るときは閉じた口元から覗く小さな黄色い歯をじっと見つめてほっと一息ついた。

 何もかも変わらず、あたしはただ生きていた。死にたいけれど、死んでいなかった。レラトは相変わらずバーチャルクラスで発言して教師からその優秀さを褒められていて、美しくて、羨ましかった。そう、羨ましかった。あたしはレラトになりたかった。つまらないクラスメイトの名前を覚えていて、街で見かけても平気で声をかけて、相手が馬鹿みたいにおどおどしていたら「変なの」と思って済ませられる人間になりたかった。

 レラトは夏休み前に新大陸に行くそうだ。彼女の名刺ページに書かれていた。センスのいい彫金風のパーツで飾り立てられたその名刺ページは、彼女のニュースを毎日更新していた。日常を四角い宝石箱の形の立体映像に収め、開いて見るたびに現在の言葉が中に書かれ、過去の言葉は破棄されていた。今日宝石箱を開くと、彼女の愛らしい笑顔と手に持ったパスポートの画像が飛び出した。「わたしは新大陸に行きます。そしてモデルとしてショービジネスの世界に生きるの!」その言葉がキラキラと輝いて見えた。

 彼女はやはり特別なのだな、と思う。そしてあたしは平凡以下だ。

 バーチャルクラスのあとに繁華街に行くと、人だかりがあった。好奇心で覗き込むとレラトがその中心にいた。彼女はすっかりこのビルの有名人だった。そっとその人の群れから離れ、音を立てないように歩き出す。この間のように見つかって声をかけられ、笑いものになるのはごめんだ。

「あー、ライラ、だっけ?」

 後ろから声がして、飛び上がりそうになった。レラトではない。振り向くと、この間彼女と一緒にいた友人たちだった。金髪の女と、髪をブルーに染めたショートヘアの女。ショートヘアの女は退屈そうにあたしを眺め、レラトを指さした。

「レラトならあっちだよ」

 あたしは首を振った。レラトに用があるわけではないと言いたかった。でも、彼女たちは全くあたしの意思に気づかない。大きな声でレラトを呼ぶ。彼女たちはレラトと同じように大きくよく通る声で他人の名前を呼ぶことができる。レラトがこちらを向いた。あたしを見て、怪訝な顔をする。

「ファン一号の登場だよ!」

 顔が真っ赤になった。あたしは歩き出した。レラトがいるのとは反対方向に。やがて走り、全速力で逃げた。涙が出て来た。何でそんなことを言われなければならないのだろう?

 毒々しいほどにカラフルな店が積み木状に積みあがる、光る看板や動く人形が主張しすぎて無個性に見える趣味の悪い街を、あたしは駆けた。勢いよく空気を吸っては吐くと、人々の香水と化粧と体臭と下水の匂いがした。こんな汚らしい街で、あたしは全く格好のいい人間じゃない。近くのエレベータに乗り、泣きじゃくりながら顔を拭く。あたしはどうしてこんなに情けない存在なんだろう。もっとましな存在ではないのだろう。生きていてよかったと思える存在ではないのだろう。

 リングが星のきらめきのような音を立てていた。今までほとんど鳴ったことのない、通信の音だった。誰からだろう、と見ると、レラトだった。驚いてリングに触れると、リングから生えた彼女のミニチュアはあたしを見て心配そうに眉をひそめた。

「ごめんね、あの子たちが失礼なことを言って」

 あたしは肩で息をしていた。涙はまだ溢れていた。レラトは微笑み、

「でも、わたしはライラがわたしのことを好きだってことは嬉しいと思ってる」

 と言う。あたしは頭が混乱する。どうしてそんなことを言うのだろう?

「ほら、わたしの名刺ページ。毎日見てくれてるでしょう? 記録が残ってるんだ。わたし、訪問者を記録するように設定してて――」

 頭がくらくらしてきた。あたしは、何て馬鹿だったんだろう。

「バーチャルクラスも、わたし、クラスメイトの顔を全部表示するようにしてて、ライラは一番熱心にわたしの発表を聞いてくれるから嬉しくて――」

「あたし、あたしは」

「だからわたし、ライラのことわたしのファン一号って呼んでるんだ」

 レラトはにっこりと微笑んだ。あたしは、どういう顔をしたんだろう。もうわからない。とにかくレラトは変な顔をして、じゃあね、と通信を切って、あたしは――。

 気づけば家にいた。父はコンピュータのヴィジュアルキーボードで電子音を鳴らしながら何かを入力し続けている。

「帰ったのかい。夕食は七時にしよう」

 振り向きもせず言う父の後ろを通り、あたしは部屋に入る。

 死にたかった。

 レラトのファン一号。それがあたしのあだ名。あまりにもぴったりで、泣けた。

「ライラ、家にいるか?」

 マレクからメッセージが届いた。あたしはそれに返事をせず、ただ、「死にたい」と返した。

「おれの人生もう終わった」

 マレクの返事も似たり寄ったりだった。

「ライラ、REDを二錠飲んでくれ。見せたいものがある」

 少し、ためらう。一度に二錠なんて、飲んだことがない。マットレスの隙間にその錠剤の小さな壜はあり、手を突っ込んで取り出すとあと少ししかなかった。一錠口に入れる。飲み下し、見つめる先の壜の説明書きの文章が艶めいてくるのを感じる。さらに一錠手に取る。どきどきしながら口に入れる。

「飲んだか?」

 マレクからメッセージが来た瞬間、驚いて飲み込んでしまった。

「飲んだか?」

「飲んだ」

 マレクはあたしのメッセージが送られてすぐに、キューブ型の立体映像を投げてよこした。ETのサイトだった。長文が書かれている。

「読め」

 言われなくても、あたしの目はその文面に吸い寄せられていた。

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