3 シルヴァーノ・ザニーニ
誰かの家を訪ねるにしても、おれは夏の別荘地にいるメンバーのどの顔も見たくはなかった。彼らは大体おれのシティーでの家でも近所で、金持ちで、鼻持ちならなかった。
巨大な木々はどの家にも生い茂り、それぞれの家はメインツリーの横にあるのが普通だ。おれは歩道の脇に自然に生えた花々を眺め、このまま湖にでも行ってしまおうかと考えていた。そのほうがましな気分でいられる。この道をずっと行けば湖だ。
車道では何台か車が通った。その何台目かの後ろから迫ってくる車の空気を鋭く吐き出す音で、この車は黄色い四人乗りだとすぐわかった。派手な音楽を大音量で流すオープンカー。シルヴァーノ・ザニーニの車だ。車はおれの横にスムーズに停まった。
「よう。徒歩かよ。だせーな」
小柄な細かくカールした茶髪の持ち主が、おれを見てにやにや笑った。おれは疲れたような気分で笑顔を作る。
「歩いたほうが気持ちいいと思ってさ。シルはどこかに行くつもりだったの? 車、誰も乗ってないけど」
シルヴァーノは歯を剥き出し、ひひひ、と嬉しそうに笑った。その目は暗く、彼がよく言う「おれは陽気な悪魔なんだ」という言葉を思い出させた。悪魔という概念は、確かに彼にぴったりだ。
「ダミアんとこの女ボクサー、確か旧大陸で世界チャンピオンになった奴なんだよな。そんで、サイードんとこの元モデルの給仕。あいつがすげーでかくて強そうだからさ、どっちが強いか戦わせようって言ってみたら皆本気になっちゃってさー。すげー面白そうなんだよ。お前、多分もうこっちに来てるだろうから呼びに向かってたんだ」
想像するだけで反吐が出る。どっちが勝つにしてもろくでもない結末が待っている。でも、行かなければ。新大陸で生きて行くには、こういうくだらない催しにも参加しなくてはならない。
ダミアの別荘は松の巨木の下にある。シルヴァーノの車に乗り、うるさい音楽を聴きながら彼の話に乗る。
「女ボクサーってどれくらい強いんだろうな。男と女と分けてあるってことは、男のチャンピオンよりは弱いんだろうけど。でもいくらでかいといってもサイードんちの使用人は素人だしなあ。な、どっちが勝つと思う?」
「どっちだろうね。おれはボクサーのほうに勝ってほしいけど。そうじゃなきゃ、ボクシングがつまらなくなりそうだ」
実際、おれは女ボクサーに勝ってほしかった。それならいくらかましな結末になるだろう。男のほうが勝ったらどうなるか。こういう場面には何度も出くわしてきたのだ。おれは毎回無力で、ただ見ているだけで、楽しかったふりをして、笑う。
シルヴァーノが斜め前を指さし、「おー、集まってるな」と笑った。
シティーでもお馴染みのメンバーが、庭の奥の芝生の上に二十人ばかり集まっていた。その真ん中に空間が円くあり、そこに戸惑った様子の黒人の給仕と、象牙色の肌の勇ましい女ボクサーがいた。ボクサーはすでにグローブを身につけ、目はつり上がっている。でも、女ボクサーは小柄で、多分ボクシングの階級もさほど上ではないはずだった。対して男はチョコレート色の肌が筋肉の盛り上がりに沿って光り、この催しのための軽装になっているので、その体の頑強さがすぐにわかった。体も二メートルはあるだろう。絶対に無理だ。おれは絶望し、それでも楽しそうな顔を作った。
「ソウが来たぞ。さあ、もう始めようぜ」
おれがシルヴァーノの車から降りると、その場のメンバーが一斉にこちらに集まってきた。口々に「久しぶり」とか「元気?」とか「お父様はどうしてる?」とか訊く。父の会社が世界的な影響力を持っているので、彼らはそれにあやかろうとしているのだ。おれは彼らに興味津々であるふりをし、それぞれの家族のことを訊いたりする。家族。おれたちが成功するためには、有力な家族が必要だし、有力な家族を持つ同世代とつながることも重要だ。
「おいおい、早く始めようぜ。おれはどっちが勝つか早く見たいんだ」
シルヴァーノが手を鳴らした。彼らは思い出したように二人の旧大陸人を囲み直した。その間ずっと女ボクサーは構え、足踏みをし、男は戸惑っていた。
「あれないの? ゴング」
シルヴァーノがダミアに訊く。ダミアはちぢれた黒髪の小柄でがっしりした体型の女で、ボクサーをじっと睨むようにしていたが、シルヴァーノの言葉で慌てて家に入った。
「家の人はいないの?」
おれがシルヴァーノに訊くと、彼はげらげら笑った。
「いたらこんな下品な催し、止めるに決まってんだろ。皆出かけてるってさ。使用人しかいない」
じゃあ、もう覚悟するしかないってことだ。ダミアが台に乗ったゴングを重そうに持ってくると、シルヴァーノは意気揚々とハンマーを構えた。「では」と彼は気取った顔になる。「やれ」
ゴングが耳障りに鳴った。周りは白熱しだした。大声を上げ、腕を振り上げ、二人をけしかける。ボクサーはずっと男を睨みつけていた。男は一応グローブをつけた手を構えるが、戸惑いはずっと消えない。当然だ。彼はモデルをするために新大陸に来たのだ。給仕をするためでも、ましてや新大陸人に見せるボクシングをするためでもない。
ボクサーが彼の間合いに踏み込んだ。それから、勢いよく腕を上に伸ばして高い位置の彼の顔を殴る。彼はよろけ、戸惑いが混乱に変わった顔をして体勢を整えた。
「やれー! お前がやる気出さなきゃつまんねーだろうが!」
シルヴァーノが立てた親指を地面に向けてブーイングを送る。それに倣って周りのメンバーもけしかける。
「でも、わたしは……」
男が初めて言葉を発した。こちらを見ていた。おれではない。シルヴァーノを。でも、おれを見ているように見えた。
「でもじゃねえ! やれ!」
シルヴァーノは笑っていた。楽しそうに、愉快そうに。歯を剥き出して笑い、目は爛々と光っていた。
ボクサーが男を思いきり殴った。男はよろけ、中腰になる。ボクサーはそれに連続でパンチを食らわせる。男は倒れた。周りのメンバーはつまらなそうなブーイングを上げた。
「何だよ。つまんねーな」
シルヴァーノが空間に入った。それから女にこう命じた。
「お前は殴られるまで動くな。ハンデ戦だ」
女ボクサーは戸惑い、何か言おうとした。
「おれに逆らうのか?」
シルヴァーノは苛立った顔で凄む。ボクサーは唇をぎゅっと閉じ、下を見た。
「さあ、ハンデ戦だぞ。お前、女を殴れ」
男は膝を立てて座っていた。はあはあと息をし、混乱はますます酷くなっているようだった。
「殴れって言ってんだよ!」
シルヴァーノが叫ぶと、男はよろけながら立ち上がり、「すまない」と女に言った。それから、グローブをつけた手を女の顔めがけて振った。明らかに手加減していた。でも、女はぐらりと倒れ、顔を起こそうとしても起きあがれないようだった。男が慌てて女を起こそうとする。女は手を振り払い、何度も立とうとし、できなかった。
「よえーぞボクシングチャンピオン! 立て! 立て! 立て立て立て!」
シルヴァーノが叫び、煽る。周りの者たちも乗る。それでも女ボクサーは立ち上がれない。嫌な予感が、勢いよく膨れていく。
「つまんねーな」
シルヴァーノがしらけた声を出した。周りがしんと静まりかえる。彼はじっと考えた。その間、男とボクサーは彼を見ている。
「よし、男のほうは女を犯れ」
シルヴァーノはそう言った。輪のメンバーはざわめき、互いを見る。男とボクサーも青ざめ、彼を見る。
「シル、ダミアの家族が帰ってきたら……」
おれがささやくと、シルヴァーノは「びびってんのか?」と訊いた。
「こんなもん遊びだよ。親だって大して怒らねーよ。だってこいつら旧大陸人だぜ?」
男は、青ざめていた。ボクサーは必死に立ち上がろうとしていた。
「犯れよ。犯れ!」
シルヴァーノは男をけしかけた。男は震え、でも、自分の今後を考えたら逆らうことなどできるはずもないと思ったのか、そろそろと女に近づいた。女は男の足を蹴った。でも、男は動けない女に覆い被さった。女は初めて抵抗の声を上げた。
「そうだー! 犯れ犯れ犯れー!」
シルヴァーノは笑っていた。周りの男女も興奮し、真ん中の二人を見ていた。熱気に包まれ、皆が一体となって楽しんでいる中、おれは吐き気がしていた。
おれは、無力だ。
無力で、何の行動も起こせない。
「ソウ、見ろよあれ!」
シルヴァーノはおれの肩を抱き、円の中心を指さした。おれは、笑った。
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