2 ドニ・アポリネール

「そろそろ弾の補充が必要ではありませんか?」

 シェルターに入ってから何発か撃ったあと、ドニがやってきて微笑んだ。やや暗いこの空間では、正しさを感じさせるドニの顔すら後ろ暗いことがあるように見える。

「そうだな。そろそろ必要だ。何箱か用意しておいてくれ」

「承知いたしました」

 彼は笑った。彼は銃に夢中になるおれを咎めながらも、旧大陸から銃弾を仕入れてくれる。親切なのか、――他に理由があるのか。

「父が悪いことを言ったな」

「いいえ」

 ドニはシェルターに入ってすぐの物資置き場であるこの空間に、ひどく不釣り合いだ。破れた壁紙、山のような箱、その他物資。彼はコック帽だけ脱いで、木箱に腰を下ろしていた。

「味は、どうしてるんだ? おれのはすごくおいしかった」

「ありがとうございます。旦那様にお出しする料理は塩気を増やしているのですが、やはり努力が足りないようで」

「増やしているのか? どれくらい?」

「言われるたびに、旦那様にお出しするものだけ塩を五グラムずつ足しております」

 微笑んで、さらりと言う。おれは一瞬黙り、「そうか」と答えた。父はドニの料理に味がないと何回言ったかな、と考える。

「ここの生活はつまらないだろう」

 ふと、訊く。働かせられ、新大陸人が享受するような特権は与えられず、ただ料理をする。きっと思っていた生活ではない。でも、ドニは意外なことを言った。

「いいえ。きらびやかで全てが一流で、わたしにはとてもまぶしいものばかりです」

「一流なのはお前たちのような才能ある元旧大陸人だけだろう。おれたちは皆人を支配することに慣れて、頭のネジが外れてる。自分が三流だってことにも気づけないんだよ。愚かだろ」

「聡一郎様」

「いつもみたいに注意するのか? お言葉が過ぎますって」

「一流であろうとなかろうと、一流という前提で育てられたものは風格を持ちます。一流に見えますよ、旦那様も奥様も」

「おれはどうだ?」

 おれは笑った。こうしてドニを見ていても、自分に価値を感じなかった。ドニは困ったように笑い、こう答えた。

「聡一郎様は……お優しすぎてその風格は見当たりませんね」

「張りぼてですらないか」

 全くがっかりもしないが、ドニの言葉で自分がますます無価値に思えた。

「そういう意味では」

 ドニは微笑んだ。ドニはおれになら素直に言葉を言ってくれる。おれはドニが好きだ。彼の料理は今までのコックのものと比べても口に合うし、彼はおれの兄のようにも思える。

「でも」

 ドニが唐突におれを真っ直ぐに見た。その目は真実を語ろうとしているかのような率直さを感じさせた。

「あなたの優しさは特別なもの。あなたがソピアー社を継がれたら、世界はずっと違ったものになるでしょう」

 ソピアー社。父の会社。膨大な個人情報を収集することで世界を牛耳っている巨大企業。いつかは継ぐのかもしれないと思っている。シティーにいるときは父の会社の影響力の暴力的な強さを思い知っていた。おれが継いで、どうにかできるとは思えなかった。ましてや世界を変えるなんて。

 ドニはまだおれを見ていた。おれは笑って目を逸らした。

「ああ、そろそろ行かないと」

 立ち上がった彼を、おれは何だか惜しいような気になって見る。

「本当に外に出ておかないと、怪しまれますよ。今は多少日焼けする時期ですから」

 ドニはそう言って物資置き場を出た。


     *


 外に出ると、年老いた使用人のフアンが庭で煙草を吸っていた。煙草の火でソメイヨシノを燃やすことになったら、父はフアンを許さないだろう。そう思ったので少し気になったが、するりと通り抜けた。フアンもおれに気づいたが、お辞儀だけして済ませた。

 フアンは十年前、おれの家にやってきた。凛とした女で、元モデルだということだった。彼女はショービジネスの世界に選ばれなかったのだな、と思った。人気が持続すると見込まれたら、旧大陸人である彼女らモデルはレディー・コールドのように血を入れ替えることができるからだ。

 フアンは見たところ四十歳くらいに見えた。母専用の小間使いとして、彼女は雇われていた。彼女はどんどん老けていった。驚くほどのスピードで。ここの生活は、旧大陸人を様々な形で苦しめる。雇い主に殴られても、訴えることはできない。犯されても、殺されても、もみ消される。彼らを守るための法律はあるのだ。ただ、機能していない。彼らはただただ新大陸に憧れ、才能を磨いてやってきては使い捨てられていく。フアンは常に母の暴力に怯えている。おれの暴力にも。

 おれは十二歳まで母に倣ってフアンを殴っていた。母のそばにいることが多かった幼いころは、それが日常だったのだ。子供だとはいえ、拳で殴られたら痛かっただろう。おれは、何も疑っていなかった。

 新大陸には美しい湖がある。おれはたまにそこを訪れ、泳ぐ。湖は透明な水で満たされ、遠くまで見通せる。魚や海老、湖底のカラフルな石ころなど。その湖の水が透明であるように、新大陸人が旧大陸人を殴るのも当たり前だと思っていたのだ。

 でも、十三歳からそれは違う、と思うようになった。何がどう違うのか説明できない。でも、違うのだ。違うのに、皆それを当然だと思って旧大陸人を殴り、犯し、殺す。それが耐え難くなってしまった。おれはもう、新大陸人としては駄目なのだろう。

 フアンは初めて母に殴られた日、家の裏口で一人泣いていた。幼いおれはそれを見て許せなかった。うずくまるフアンの黒髪を引っ張り、無言で引きちぎった。フアンは驚いた顔でおれを見た。それから、大声を上げて泣き崩れたのだ。

 手の中にあった黒髪はその場で捨てた。汚いものだと思ったから。

 でも、あのころの何もかもが、今のおれを苛むのだ。


     *


 深夜二時を回って、家中を徘徊してからようやく眠れる気分になってきた。二階の母がいる一角に着くと、話し声が聞こえてきた。またか、と思う。またか。しょっちゅうだな。いい加減にしろよ。色々考えるがどうしようもない。歩くと足音で気づかれるから立ち止まって暗闇で息を殺す。

「奥様。ああ、愛しい人。今夜もとても美しい」

「早く部屋へ。来て。お願い。早くわたしを慰めて」

 そのあと母は言った。「ああ、アポリネール、早く」と。


 おれはドニを連れて旧大陸へと行ったことがある。二ヶ月前のおれの誕生日、おれは盛大に祝われたあと、旧ユーロ圏旅行のプレゼントをもらってひと月ほど家を出たのだ。オーストリア地域の陰鬱な田舎の風景を呑気に電車の中から眺め、未だ治安が最悪のパリではドニだけでは心許ないのでボディーガードをつけて回った。最後にドニは、何を思ったのかおれのために娼婦を呼んだ。

 ドニに教えられる通り渡された本を開いて、大勢の女たちの写真の中から震える指で一番年の近い少女を選び、ホテルの部屋で待った。旧大陸でも買春は禁じられているはずなのに、ドニは慣れた様子だった。気位の高そうな美しい女を選び、その女が来ると彼は隣の部屋に消えていった。

 ホテルマンによって内密に案内されてきた女は顔を火照らせ、息を荒くしていた。怯えに近いものを感じながら、おれは欲望で目を潤ませた少女を抱いた。少女はひどくよがった。こちらが気持ちよくなるくらい。でも、よく考えたらセックスをしたことのないおれが手を尽くすどころか性急に扱ったところでこんなに悦ぶはずもない。恐らく、催淫剤が使われている。罪の意識で胸が騒いだ。少女はおれを求めて甘く獣じみた嬌声を上げた。おれ自身も、自分の快感しか見えなくなり、頭の中がふわふわと曖昧になっていく。行為は、あっという間に終わった。

 逃げるように部屋を出た。おれの体を求め続ける少女が、怖くなったのだ。廊下をうろつき、しばらくしてからエレベータ前でドニに出くわすとほっとした。でも、その表情にぞっとするものがあった。彼は、顔に三本の爪痕を残していた。冷たく静かに怒っているドニは、フランス語で女を罵倒する言葉をつぶやいた。

「聡一郎様」

 ドニは微笑んだ。おれはドニの表情に見入っていて、はっとして突然恥ずかしくなった。さっきまでしていた行為を思い出して。ドニは続けた。

「女を恐れるのは恥ずかしいことですよ、聡一郎様。そのような気分になったときは、気絶するまで殴ればよいのです」

 おれは、思わず彼をまじまじと見た。彼の表情はいつも通りのそれに戻っていた。何を言われたのか、一瞬わからなかった。彼はそのまま歩き出し、おれはわけがわからないままついて行った。そのままおれの部屋に行き、そこにいた女をドニが追い出し、部屋の清掃のためにしばらく一階のロビーに居座ることになった。部屋を替えてこのことが家に伝わることを避けるためだ。ホテルの前の闇はガラス越しでも濃い。向かい合ったドニの表情は穏やかだった。おれは、ドニに女を殴ったことがあるのか、訊けなかった。


「アポリネール……?」

 母が甘えるようにドニに問いかける。彼が暗闇の中でおれに気づいていることがわかった。おれはそっとその場を後にした。

 ドニは母の体を、とても丁重に扱うのだろう。そして感に堪えないように彼女と結ばれる喜びを吐露するのだ。

 でも、それは全て演技だ。


     *


 夏の休暇が始まり、別荘地に移って一週間、おれは銃を撃ってばかりいた。そろそろ外に出て誰かと交流しないと怪しまれるだろう。出かける準備をして、銃は胸ポケットから出す。ふとしたことで気づかれ、持っている理由を訊かれたら困るからだ。

 とりあえず使用人に行き先を伝え、庭に出る。ソメイヨシノの巨木を見て和む。太陽の光のために透明にすら見える葉。淡いグレーの幹に散る白い斑点。桜は美しい。

 幼いころはこの木の内部を彫って、絵本のねずみが住む家のようにしたいと思っていた。部屋を作り、階段を彫り、ドアや窓を取りつけて。子供の願望を聞いた両親は青ざめた。それから怒り狂った。

「そんなことをしたら桜が腐ってしまう。何てことを考えるんだ」

 父の怒鳴り声を聞いて泣きじゃくる自分を思い出す。年月が過ぎたせいで、それを遠くから俯瞰で見ている。

 巨木は新大陸人の命そのものだ。けれど、子供のおれにはわかるはずもない。泣きじゃくる自分を見つめて同じ気分になることはないが、ひどく哀れなように思える。

 ソメイヨシノは石畳の小道を避けるように、でもおれに覆い被さるように陰を作る。おれは今でもこの木が好きだ。でも、見ていると何だか苦い思いが蘇るのだ。

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